第12話 始まりの記憶(2)

 季節は、春を過ぎ、梅雨の手前にまで来ていた。 

 黒山たちが国造りを始めて更に半年以上、経っていた。

 近くの川から水を引き、水田を作り、家を建てた。米以外にも、野生の芋や麦も植えていた。

 そして、今日は、いよいよ初めての田植えをする日だった。

 昨年から開墾してきた田に、近くの川から引いてきた水を張り、いつでも田植えできるようになっている。これを作るのに、研究所の人々や里に新しく住む人々と長い時間をかけて準備をしてきたのだった。


宮入みやいりさん、やっと納得してくれたな」

 藤田が笑った。

「ああ。それが一番苦労したよ」

 目の前で田植えを見守る人々に手を振っている宮入を見て、黒山も苦笑した。

 健一と健二の父である宮入みやいりさとるは、元々、藤田と黒山の研究室における上司で神経質なところがあった。もちろん、元々、優秀な研究者ではあるのだが、タイムスリップの前は、研究室の維持に奔走し、滅多に研究者としての顔は見せなくなっていた。いったん、表に出ないと決めれば、てこでも動かない。要は頑固なのだ。

 今回も、その時の考えが尾を引いているのか、表に出たがらず、自分が天津神を名乗るのだと言われても、それが腑に落ちないと主張し、中々納得することはなかった。

 そのため、最後には藤田はもちろん武まで、その説得に力を貸すことになり、時間をかけてやっと折れたのだった。


「あんなに嫌がっていた割には、ノリノリだな」

「本当に」

 笑いながら言う藤田に、黒山は頷いた。

 空では雲雀ひばりがさえずり、水田に強い日差しが降り注いでいる。

 水田には既にたくさんの人々がいて、一直線に並んで田植えが始まるのを待っている。

 宮入の横にはサルタヒコやアメノウズメ、そしてキハチという小さな国津神もいた。他にも、何人かサルタヒコの里から客人として来ていた。皆、今日という特別な日のために来てくれたのだった。


「あれがキハチか――」

 黒山は、普通の子どもにしか見えない小さな国津神を見て呟いた。

 健二からは、昨年の秋に武と一緒に狩りに行った際、キハチが雷を落として鹿を倒すのを見たと聞いていたが、そんな恐ろしい力を持つとは想像できないほどに普通の子どもだった。

 しかし、きっとそれは本当のことなのだろう。


 あの土蜘蛛との一件以来、この世界で起こりうることの基準が黒山の中で変化していた。まさに、この世界は神話の世界なのだ。どんなことでも起こりうる。ひょっとすると、自分たちはこの世界に単にタイムスリップしたのではなく、別の次元、いわゆる並行世界パラレルワールドに紛れ込んだのではないかと思うことさえあった。


「よし、田植えを始めるぞおっ!」

 宮入が大声で宣言をすると、里の住人も含めた大勢の人間が横並びで、腰をかがめ、稲の苗を植え始めた。始める前に植え方はしっかり教えてある。

 どん!

 と、大きな太鼓の音が鳴った。太鼓の横では皆方が木製のばちを構えている。

 一つ苗を植えるたびに、太鼓を一つ鳴らす。

 そうして、次々と苗は植えられていき、一時間も経たないうちに、一つの田の田植えが終わった。


 いつの間にか、黒山の横から藤田がいなくなり、タイメイが立っていた。藤田は水田の方に行って、田植えをしている皆を応援していた。

 タイメイの目には大きな度なしのサングラスがかけられていた。邪眼によるトラブルが起きないよう、黒山の持っていたものをタイメイにあげたのだった。

「あなた。ようやくですね」

 タイメイは黒山の右腕に手を絡めると依りかかって言った。

「ああ、この意味は大きい」

 黒山は頷き、タイメイの手を握り返した。

 タイメイと黒山は少し前に祝言を上げ、夫婦となっていたのだ。


 雲雀ひばりが空に上って鳴いている。

 これから二人の行く末と、この世界の明るい未来を祝しているかのようだった。

 黒山は青空に浮かぶ、真っ白な雲を見上げ、笑った。


      *


 目の前の青空が歪み、ノイズが走る。一緒に酷い耳鳴りと頭痛がして、オモヒカネは目を覚ました。まるで、無理やり、夢から目覚めさせられたような感じだった。

 樫の木の机に置かれたアンティークの置時計が時を刻む。眠りにつく前と比べて数分間しか経っていなかった。

 わずか、これほどの間に、あれだけ、長くリアルな夢を見たのか。

「ふう……」

 オモヒカネは息を一つ吐いた。

 懐かしい夢だった。あそこから、我の野望は始まっていったのだ。だが、あの頃はまだ人としての野望だった。まさか、ここまで来るとは、な。

 握りつぶされた椅子のひじ掛けを手のひらで、なでながらオモヒカネは思った。


 息をゆっくりと吐き、そしてまた吸う。

 部屋中に、常人なら、吐き気を催す程の濃密な鬼気が充満している。

 オモヒカネはゆっくりと首を回し、口を開いた。

黒牙ヘイヤーよ。どこにいる? 今の夢もお前が見せたのだろう?」

 ――オモヒカネの問いに静寂が答えた。

 何も、誰も、答えず、聞こえるのは時計の秒針の音だけだった。

「答えよ。黒牙!」

「ふふふふ……」

 堪えきれず、漏れ出るような笑い声が響いた。

「やはり、気づいておったか」


 目の前に突然、黒い渦が無数に現れ、その中の一つに黒牙の顔があった。渦の一つ、一つから鬼気が噴き出し、部屋中に蔓延していく。

「なぜ、あのような夢を見せる?」

「あれが、原点だからさ」

 黒牙は静かに、しかし、嘲るように言った。

「それで、人だったころの夢はどうだった? 懐かしかったか?」

「ああ、そうだな。もう少し見ておきたかったよ……」

 オモヒカネは、肘掛椅子から立ち上がり、冷たい石の床の上に立った。


「ははははははは。そうか。あれらの出来事がお主の始まりでもあるからな。だが、この時代でもまた始めるのだろう?」

 黒牙が、笑いながら言った。無数の渦の全てに、黒牙の顔が浮かんでいる。

「知れたこと。我はこの時代で闇の王を目指す。そのためにも、まずはあの凄まじいキハチの力。あれが欲しい」

「ふははははは。そうだ、それでいい。お主が変わらず、闇の奥へと進んでいくのなら、我はいつでもそばにいる。ひゃははははは……」

 黒牙の狂ったような笑い声が、部屋の中をぐるぐると駆け巡る。

 オモヒカネは頷いた。そして、にやりと笑った。

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