第9話 鬼界(1)
びりびり
っと、音を立て背中の皮がめくれた。
最初は少しだけ。
それが徐々に拡がっていく。
そして、めくれ上がった皮の中で、もぞりと動く影があった。
そこにいる全ての人々がその影に魅入られ、まるで体が縛られているかのように動かなかった。
それはゆっくりと真っ黒な背中に現れた。
――少年?
そのほっそりとした小柄な人影を見て、黒山は最初そう考えた。だが、明らかに普通の人とは違った。
真っ黒でぬめぬめとした体の表面は、炎の光を反射している。それは、どうやら服ではなく皮膚そのもののようだった。その証拠によく見ると、尻の割れ目や性器が見える。
顔は体と対照的に真っ白で、鋭い刃物で切ったかのような細い目が斜めに切れ上がっていた。
高く細い鼻梁。薄い眉に真っ赤な唇。そして漆黒の長髪。
全てが、この世のものでない造形に思える。
悪魔か鬼の子。そう形容するのが一番しっくりきた。
伝わってくる禍々しい気に、黒山は体の震えが止まらなかった。
だんっ!!
黒山の横にいたはずの武が、踏み込みの音だけを残し、恐ろしい速度でその小さな化け物の間近に現れていた。
瞬時にそこまで飛び上がったのだろう。間髪入れずに武が刀で化け物の首を狙った。
だが、その刀は少年の首に当たる寸前で止まっていた。
よく見ると、首の皮膚が何本もの鋭い
刀はその硬質な棘に妨げられ、首まで到達していなかった。
ぶんっ!!
と音を立てて、武が元の場所へと飛ばされた。
その場に膝をついている武が、眉間に皺を寄せ、足の裏を盛んにさすった。
化け物に目を移すと、その手が拳を見せて裏拳打ちのような形をとっている。
化け物が目に見えない速さで攻撃を放ち、武がその攻撃を足の裏で受け止め、ここまで飛ばされたのだと理解するのにしばらく時間がかかった。
「だ、大丈夫かい?」
健二が訊いた。
武は顔をしかめ頷くが、すぐには立ち上がることができなかった。
「ふふふふふ」
化け物の笑い声が響いた。
顔は無表情なまま、何の動きも見せずに笑い声だけが聞こえてくる。
「お前は何者だ?」
黒山が意を決して訊いた。
「私が土蜘蛛の本体だ」
冷たい声が響く。
「本体?」
「ああ。この姿になるまで追い詰められたのは久しぶりだ。なんとも面白い」
真っ白な顔が、炎に照らされ、てらてらとオレンジ色に染まる。その顔は、言葉とは裏腹に相変わらず無表情だった。
黒山が呆然と化け物の顔を見ている間にも、巨大な土蜘蛛の体は燃え、崩れ落ちていった。足が折れ曲がり、地面に突っ伏していく――。
そして、化け物はその背中に立っていられなくなって、地面に静かに降り立った。
「何やら、最近、
「何? 我々は天津神に連なる眷属だぞ!」
「はははは。何を言うやら。人間風情が。はははははは……」
黒山の答えに、化け物は無表情な顔で狂ったような笑い声を上げた。
「お前の名は何だ?」
笑い声を遮るように、黒山が訊いた。
「我が名は、
「ヘイヤー?」
「土蜘蛛の牙だ」
言葉を発するたびに、禍々しい気が巻き起こる。胃を引き絞るような圧倒的なプレッシャーが、黒山たちに吐き気を催させた。
「さて。では、そろそろ行くか……。せいぜい楽しませてくれ……」
黒牙はそう呟くと、黒山たちに向かってきた。
走るでもなく、歩くでもなく、中間くらいの速度で淀みなく近づいてくる。
そして、それは始まった。
*
そこかしこから、怒号が上がり、集落の若い男たちが銛や剣を持って
熱気と狂気――。
一旦は、倒したはずの化け物から出てきた得体のしれないモノへの恐れが、若者たちを突き動かしていた。涎と涙を流し、叫びながら黒牙へと殺到していく。
しかし、黒牙にその攻撃は届くことはなかった。
次々と宙に舞う男たちの体からは、血の飛沫が盛大に上がり、辺りに降り注いだ。
「皆、近づくなっ!」
黒山は叫んだ。
殺された男たちは、首の頸動脈を切断されているらしく、夥しい量の血が広場に溜まっていった。
「ひゃははははははは……」
黒牙の狂ったような笑い声が響き渡る。
あっという間に黒山の前に来た黒牙が、長い爪の生えた右手を振り下ろした。
皆方が特殊警棒でその爪を受け止める。
「ほう? それは何で出来ているのだ?」
黒牙はそう言って笑い、また爪を振り下ろした。
警棒は折れなかったが、その攻撃を受け止めた皆方の膝が折れた。
続けて黒牙が腕を横に振り、皆方が吹き飛ばされた。
地面の上を何度も転がり、かろうじて立ち上がる。
「ほう、死んでおらぬか……」
黒牙が笑う。
その攻撃は正確に皆方の首の頸動脈を狙っていたが、皆方は寸でのところで警棒で受け止めていたのだった。
「もっと来い……」
黒牙はそう言い、皆方に向かって歩を進めた。
と、その時――
ひゅん
と、いう音を立て黒牙の首筋に矢が突き刺さった。
続けて、二本、三本と突き刺さる。
撃ったのはタイメイだった。
一瞬で黒牙がタイメイのところへと移動した。
そして、連射する矢を手でつかみ、タイメイの顔をじっと見た。
「ほう。邪眼か? こいつは珍しい」
黒牙はそう言って笑った。
「どけっ!」
黒山は必死に、タイメイと黒牙の間に割って入った。自分でもなぜそんな力が出たのか説明ができない。
「喰らえっ!」
殺虫スプレーを黒牙に向かって噴射すると、ライターで火をつけた。
激しい火炎が黒牙の顔を焼く。
「ふはははは。面白い。面白いじゃないかっ!」
顔の皮膚を焼かれながら黒牙が言った。声は笑っているが、近くで見た黒牙の顔は笑っていなかった。
「くそっ!」
黒山は黒牙の目を狙って火炎を放射した。
後ろから駆け寄った皆方が後頭部を打ち据えた。
黒牙の後頭部から真っ黒な血が噴き出し、目玉が焼け焦げる匂いが伝わってきた。
その瞬間――。
黒山の目の前は真っ暗になり、一切の音が消えていた。
*
目の前にあるのは、黒い渦の集合体としか言いようのないものだった。
何も無い暗い空間に、無数の黒い渦がひしめき合う壁がある。
左右に無限に続く黒い渦の壁。
よく見ると、渦の一つ、一つが、ゆっくりと、右に、左に回っていた。
灰色の空に太陽のようなものは見当たらなかったが、うっすらと明るい。
足元は地面と言うのか、それとも床と言えばいいのか、真っ黒な平面がずっと続いていた。
黒い渦の壁は、すぐ近くにあるようにも見えるし、ずっと遠くにあるようにも見える。まるで、空間を把握する感覚が狂わされているような、そんな感じだった。
ここは、どこだ?
黒山は自分の出した声が聞こえていないことに気付き、もう一度大声を出した。
やはり、何も聞こえない。
すぐ傍らに、皆方とタイメイがいた。二人とも、置かれている現状が全く分からないといった表情だった。二人の口が動くのは見えるのだが、言葉は聞こえない。
この世界では、音が伝わらないのかもしれないな――。黒山が、そんなことを考えていると、唐突に渦の中心に黒牙の顔だけが現れた。
あんなに攻撃を受けたはずなのに、その顔には傷一つなかった。
は、話せるのか?
「当然だ」
顔だけの黒牙が言った。
ここは、どこだ?
「鬼界だ。気分はどうだ?」
どうも何もない。元の世界に返せ。
「ふふん」
黒牙が鼻を鳴らして笑う。
自分の声は出ていないのに、会話が成立している。どうやらお互いの思ったことが、そのまま通じているようだった。
「ここは、普通ならお前ら人間が気軽に来れる場所ではない。お前らが起こしたあの時空のずれ――。そのことで
「普段から、自由に来ているわけではないのか?」
「もちろんだ。簡単に来ることはできないさ。さっきも聞いたが気分はどうだ?」
さっきも言ったとおりだ。何ともない。
「普通の者たちなら、ここに来た途端に気持ちが悪くなるのだが、やはりお前たちはここと相性がいいらしい……」
相性がいい? どういうことだ?
「言葉通りのこと。お前たちがここに馴染むほどの心の闇を抱えているということだな」
何っ?
「そこの大きな男。大層な武の腕前だが、大きな挫折をしているな」
やめろっ! 皆方の血を吐くような心の叫び声が脳に突き刺さるように響いた。
「これは、オリンピックというのか? 先の未来ではこのようなものに、皆、一生懸命になっておるのだな。興味深い……」
俺の記憶を読むなっ! 皆方が声にならない血を吐くような叫び声を上げた。
「まあ、いいではないか」
黒牙は飄々とした表情で言うと、言葉を続けた。
「そうか……。練習中の怪我が原因で、柔道の代表選手から落ちた。そして、その怪我をさせたかつての仲間が代表選手になったのだな」
黒牙が笑いながら言った。
不思議なことに、皆方の味わったであろう挫折や嫉妬の心、選手選考から落ちた時の記憶が脳裏をよぎった。それも、自分の記憶であるかのように、リアルな記憶として、だ。
皆方はがっくりと項垂れていた。
「そして、邪眼の女。お主はその目のおかげで、周りの男どもを惑わすのだな。ほう、そうか」
黒牙が狂ったような笑い声を上げる。
「最初の男はお主を無理やり抱いて、その後に友に殺されているな……」
やめてっ!
「それから、生まれ故郷を出たのか。だが、落ち着いた場所、落ち着いた場所で、男どもがこの女を取り合い、最後には殺しあう。本当はずっと孤独で安らぐ場所を探し求めているのにな」
お願い。言わないで!
「ほう、大蛇に襲われた時に一緒におった男もお主に惚れたために、仲間の男どもを殺しておるな。無理やりにお主を引っ張ってきた先で、大蛇に襲われたのか。しかし、お主、罪作りじゃな」
タイメイが頭を抱えて突っ伏す。しかし、黒牙の思念の言葉は容赦なく頭の奥底に響いた。
「命がけで惚れて告白したのに、お主には振られ、大蛇に殺されておる。最後の最後まで惚れた女に好かれぬとは、報われぬ人生よ……」
心底、楽しそうな声で黒牙が笑った。
皆方の場合と同様、自分のことのようにタイメイの記憶が脳裏をよぎった。それは、恐ろしいほどの孤独と悲しみだった。
タイメイは血の涙を流していた。思わずタイメイの肩に手を置いた黒山のすぐ横に、黒牙の顔が現れた。
「そして、お前だ。お前ほど大きな闇を抱えている者も中々おらぬな」
黒牙はそう言った。
「お前がいなければ、三人をここへ連れてくることはなかった」
何を言っている?
「我々の眷属になるのにふさわしいと言っておるのさ」
黒牙が笑った。
その途端、目の前にかつての記憶が蘇った。
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