第8話 化け物(3)

 黒山は首筋から流れ落ちる汗を手の甲で拭った。夜空には雲一つなく、星々が瞬いている。

 腕時計は、既に二十一時を回っていた。中学の理科の教員である山田が、季節や太陽の高さを見て示した時刻で、仲間たちは皆この時刻を共有している。土蜘蛛が現れたのは、集落の人々が眠りにつく寸前だったというから、そろそろ現れる確率は高かった。


 腕時計の時刻や星の瞬く夜空だけ見ていると、ここが現代から二千四、五百年も前の古代の日本だということに現実感がなくなってくる。

 黒山は腕の内側にできた軽い火傷を指でさすった。昨晩、あの悪夢のような大蛇と戦ってできた傷だった。その微かな痛みが、これが現実なのだと教えてくれる。


 タイメイと一緒に、広場に隣接した竪穴式住居の窓から、外の広場と大きな通りの両方を見張る。要所、要所で松明たいまつが焚かれており、見張るのに支障はなかった。

 タイメイは弓と矢を両手に持ち、油断なく辺りを見回している。

 黒山はその美しい横顔を一瞬見て、身震いした。

「どうかされましたか?」

「いや。気合いを入れ直しただけだ……」

 黒山は表に視線を移して言った。


 広場の中央では、長と若い男、それに若い女の三名が酒盛りに興じる振りをしていた。盃を手に談笑している様子はあくまで自然だ。若い女は最初に喰われた女の姉で、妹を喰われた復讐心から、自ら土蜘蛛を引き付ける餌の役になったのだった。


 集落の人々の大半は別の場所へと移し、ここに残しているのは長を含めた屈強な若い男たち二十名と餌役の女性一名。黒山たち六名、武たち五名の計三十二名だった。それぞれ、持ち場を決めて配置している。

 集落には、外から入ってこれる大きな通りが二つあった。表の大通りと、裏に続く裏通り――。

 周囲には、獣避けの丸太を打ち込んだ壁が建てられている。丸太の先は尖っていて、容易に乗り越えることはできないため、二つの通りに絞って見張りを三名ずつ配置していた。そして、二名一組で壁の見回りをする班を二つ配置している。残りは広場の周辺の家に隠れていた。


「参加してくれればありがたいが、無理はしなくていい。特に最前線は危険だから、少し下がった場所に構えるとか、希望があったら言ってくれ」

 黒山はそう言ったが、誰もがやる気満々で、逃げたいと言った者は一人もいなかった。

 皆、土蜘蛛という化け物に興味があるのか、それとも集落の人々の苦境を助けるという義侠心からなのか――。明らかに前向きで、作戦の準備に取り組む様子は楽しんでいると言ってもいいくらいだった。


 かく言う黒山自身も、この作戦に前向きに臨んでいた。自分でもその理由を客観的に説明することはできなかったが、突き動かされるような高揚感が原動力になっているのは確かだった。

 柄じゃないな――。

 思わず、笑い声が出そうになるのを堪えた。かつての研究プロジェクトではずっと裏方だったのが、今回は自分が中心になっている。そのことが、この高揚感を生んでいるのかもしれないと思うと、皮肉な気持ちになる。


 ふうっと大きく息を吐き、横にいるタイメイを再度見た。タイメイは真剣な顔で外を見ている。ともすれば、見とれてしまいそうになる気持ちを押さえつけ、黒山は外に目を移した。


 ――と、突然、

 からん、からん

 という音がした。

 木片を打ち鳴らす音が二回。ひもを引っ張ると音が鳴るように作った仕掛けだ。見張りに付けた者が土蜘蛛が入ってきた時に、知らせとして鳴らすように決めていたものだった。一回なら裏通り。二回なら大通り。三回なら周囲の壁から。


「予想どおり、前日と同じ、大通りからだ……」

 黒山の呟きに合わせてタイメイが横で頷く。皆、今の合図で気づいているはずだった。

 土蜘蛛は、人間が自分に害をなすことをするはずがないと思っているのだろう。敵が油断しているのはこちらからすれば好都合だった。

 黒山は銛を手に取り、タイメイは矢を弓につがえた。


 しばらくすると、すぐ近くから

 メシャッ

 という生木を砕くような音がした。断続的に同じような音が響く。 

 続けて、

「うぎゃあああああああっ!!」

 という叫び声が響いた。

 すぐに、男を口にくわえた土蜘蛛が広場に現れた。

 どうやら隣の家に隠れていた男が襲われ、それをくわえたままやって来たようだった。


 黒山は一気に血が引くのを感じていた。実際に見ると想像以上に大きく、動きは早かった。

 蜘蛛というだけあって八本の毛だらけの足を持っている。顔は前もって聞いていたとおり、虎と人の中間のような顔立ちだった。口からはみ出す巨大な牙が二本見えている。

 土蜘蛛は、血だらけの男を地面に転がすと、

「男はやはり固いわ。女の柔い肉が一番うまい……」

 そう言って、笑った。

「人の言葉を話すのか……」

 黒山は奥歯を噛みしめた。知能は、少なくとも人並みにはあるということだ。


 土蜘蛛は女の前に置かれた酒樽を見つけると、立ち止った。

 顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。

 飲めっ!

 黒山は強く思った。土蜘蛛が好きだという雌の鹿の生き血を混ぜた酒だ。飲むはずだった。

 土蜘蛛は、首をかしげ、しばらく逡巡したようだったが、おさや女を睨むと、酒樽の蓋をはぎ取った。

 アルコールと血の混じった生臭い匂いが辺りに漂う。

 その途端、酒樽に頭を突っ込んだ。途中から我慢できなくなったのか酒樽を口にくわえて逆さにした。そして、口元から溢れさせながら、酒樽一つ分の酒を丸々飲んだ。


 ガラン

 と、音を立てて酒樽が地面に転がる。

 酒を飲み干した土蜘蛛の顔は心なしか微かに赤くなっているように見えた。

 ゆっくりと近づくと悠々と女を襲う。

 すぐさま、若者と長が銛と剣で打ちかかったが、前足で払われ遠くまで地面を何度も転がった。


 土蜘蛛が女を口にくわえ、かみ砕こうとしたその時、

 ひゅん

 という音とともに、タイメイの矢が放たれた。

 矢の先には炎が点っている。

 土蜘蛛の口にくわえられた女に刺さった矢は、一気に炎を上げた。


 同時に、土蜘蛛の足元を女が逃げ出していた。土蜘蛛がくわえている女とは別に、だ。

 土蜘蛛が口にくわえた女は、巧妙に作られた藁の案山子かかしであったのだ。女と同じ服を着せ、机の下に隠していたものを土蜘蛛が酒を飲んでいるすきにすり替えたのだった。

 土蜘蛛を酔っぱらわせ、女が案山子であることを見破れないようにするのも作戦だった。前もって油に浸してあった案山子は盛大に燃えさかった。


「しゃああああああっ!!」

 土蜘蛛の苦しそうな悲鳴が響いた。

 酒は度が恐ろしく強いものであったため、炎は口の周りから腹回りのこぼれた酒にも燃え移っていった。

 土蜘蛛の体中の毛が逆立ち、「びいいいいいっ」という細かい振動音を立てて震える。その音は、土蜘蛛の苦悶の声と合わせて辺り一帯に広がった。

 黒山は、その音に思わず吐きそうになったが、銛を握ると広場に向かって走った。

 タイメイも後に続く。


 近くに来た時には、既に土蜘蛛の炎は全身に回り、広場を転げまわっていた。

 黒山は転がる土蜘蛛に駆け寄ると、長たちと一緒に大きな頭に銛を突き立てた。

 タイメイも矢を打ち込む。

「やったじゃないですか!」

 横に来た健二が、弾んだ声で言った。

「俺の出番はなかったな」

 武も刀を片手にそう言った。いつの間にか、別の場所に配置されていた人々も皆、広場に来ていた。

「ああ。最後は総出で攻撃を仕掛けるはずだったのだがな。酒を飲んでくれて助かった」

 黒山は笑って言った。


 ――と、その時、周囲の空気が変わった。

 まるで、一気に気温が下がったかのように、体中の汗が引いていく。

 黒山の眼前で、燃え盛る土蜘蛛が、地面を転げまわるのを止めて、その場に立ち上がった。

 先ほどまで苦しんでいたのが嘘のように、八本の足を地面に突き刺し、微動だにしなくなっていた。

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