第9話 出立(1)
「遥。神話とか興味ある?」
そう言って佳奈が置いていった薄い冊子――。表紙には「宮崎の神話・伝説」とあった。
風がカーテンを揺らし、遥の前髪をなぶる。
窓際で椅子の背あてに寄りかかり、付箋の貼られたページをめくる。
「特にここを読んで。すごく古い民話だから、関係はないと思うんだけど……キハチという鬼について書かれているの」
佳奈の言葉がふとよぎった。
「関係ないのか……?」
遥はそう呟き、息を吐いた。
めくったページには、筋骨隆々のキハチの絵があった。太い眉毛に、ぎろりとした目玉。そこに描かれているキハチは確かに鬼のような形相だった。
読みたいような読みたくないような、相反する気持ちがせめぎ合う。
心の中にいるキハチは大切な友だちなのに、ここに書かれているのは遥か昔に高千穂を騒がせた鬼の伝説だったからだ。
遥は複雑な気分でページをめくっていった。
*
七世紀後半、天武天皇の命によって編纂された本書には、世界の誕生に始まり、
それは、口伝で伝えられた無数の民話や神話を地道に集め、一つにまとめ直した結果――。ある意味、当時の権力の中枢にいた天皇家に都合のいい話をまとめた結果とも言える。
だが、であるが故に、こぼれ落ちた奇異なる物語がある。
それが、ここ高千穂に伝わるこの悲しき鬼の物語だ。
曰く――
遙か昔。神々と人々が混じり合い生きていた神話の時代。
当然、この鬼を成敗に向かった人間もいたが、怪力無双な上、天候をも操ったこの鬼は、向かって来る人間をことごとく返り討ちにしていたと言う。巨大な体に大きな牙を生やしたこの鬼を人々は畏怖し、逆らわずに生活を送っていた。
ある日、東征から帰ってきた神武天皇の兄であるミケヌノミコトは、この話を聞きつけ、鬼退治に乗り出すことにした。四十四人の家来を引き連れたミケヌノミコトは、鬼八を
しかし、鬼八はしばらくしてその魔力で蘇り、再びミケヌノミコトに
こうして静かな日々が戻ってきた高千穂だったが、死んでいった鬼八の呪いのためか、毎年のように早い時期に霜が降り、農作物が採れなくなってしまった。
そこで人々は一計を案じた。鬼八の霊をなぐさめ、呪いを解いてもらおうと、純潔の乙女を人身御供として捧げる祭りを始めたのだ。そして、鬼八の霊は鎮まったと言われている。
この人身御供の恐ろしい風習は、十六世紀、土地の有力者の命令によって生贄が猪に変わるまで、実際に続いたと言う。猪を鬼八の霊に捧げるこの風習は、現在も「
*
読み終わった遥は、閉じた冊子を膝の上に置いて大きく息を吐いた。
*
四人の乗り込んだ白いセダンが、ゆっくりと走り出す。それを丈太郎たちを含めた神山たち六人は手を振って見送っていた。
セダンが基地から離れ、小さく見えるようになっていく。丈太郎たちは頃合いで基地へと戻っていったが神山たちは残った。
「良かったんですか? 神山さん。護衛が付くとはいえ、高千穂に住ませるなんて」
「武見氏は、あなたが思うよりもずっと、上の人にまで顔が効くということなのさ」
長田司令の言葉に、神山は答えた。
「しかし、武見先生もこの事件の関係者で、遙か昔から生きてきた人だったとは思いもしませんでした」
「ああ、そうか……ここでは、武術の指導者なのだったな。長田さんも、そのままの関係であれば、その方が幸せだったのかもしれない……が、こここまで知った以上、そういう訳にもいくまいな」
神山が笑って言った。だが、笑い声とは対照的に顔は無表情だった――。
「青山君から報告は受けたのだろう? 彼は、我々政府側の人間にとっては伝説の人物でね。その存在は、諜報機関のトップにずっと引き継がれているのさ」
「そうですか……でも、どうやって、二千年以上の時を超えてきたんでしょう?」
「我々にもわからん。だが、それは、あなたが知るべきことではないだろう……」
神山は首を振った。
「それでは、あの遥君と佳奈さんの関係はどうです? これまでのことを分析すると二人が全くの無関係だとは思えません。現に遥君の中には強大な力が眠り、佳奈さんも海岸で不思議な力を使ったということが分かっています……」
「まあ、そうだね。全ての情報があるわけではないから予断を持ってはいけないが、今ある情報を分析すれば、彼ら二人には何らかの関係があるのだろう。それに、あの黒牙一族……とボスのオモヒカネ、か。彼らの狙いも、遙君である可能性は高い」
「それでは余計に彼らの護衛をするべきなのではないですか?」
「結果的にDIAやCIAまで出張ってきたんだ。武見さんもいる以上、これ以上の護衛体制もないだろうね。当然、何かが起これば対応できるだけの体制は取っておくべきだがね」
「そう、ですか……」
長田は冷やせをぬぐった。
「さあ、長田さん、これから忙しくなるぞ。明日にでも追加の特殊班が調査にやってくる。メンバーは、科学者、武器や飛行機のエンジニア……天野さんと安藤氏の面倒も含めて対応を頼む」
神山がことさらに明るく言った。
「了解です」
長田は苦虫をかみつぶしたような顔で頷いた。
「ここにいる我々の他は、限られた人間しか、この事件のことは知らないんだ。つい先日来ていた諜報機関の人間も、決してこのことは漏らさない。だが、それだけに……重たいな……」
神山はくしゃくしゃになったタバコの箱をポケットから引っ張り出した。
金属音を鳴らしてジッポーで火を付ける。
「神山さん、基地内は……」
「禁煙だろ? 分かってるさ」
辺りにオイルの焼ける匂いとタバコの香りが立ち上った。
神山はもう一息、大きく吸い込むと紫煙を吐き出しながらたばこを踏みつぶした。
「悪いことにならなきゃいい、というのが本音だよ……」
神山が呟いた。
長田は身震いし、神山の顔を見つめたが、その顔はどのような表情も浮かべてはいなかった。
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