第7話 遥(1)

 少年と会ったあの日から四日後の朝九時――。

 佳奈はエアコンの効いた長い廊下を歩いていた。施設の北側にある廊下は、ひんやりとして気持ちがよかった。


「彼との面会について、上から許可が出ました。」

 青山から言われたことを頭の中で反芻しながら歩く。目は覚ましたと言っていたが、今どんな状態なのだろう。元気なのか。落ち込んでいるのではないか――。

 そんなことを考えていると、いつの間にか少年の病室の前まで来ていた。

 佳奈は深呼吸すると、ポケットを上から押さえた。先日買ったフクロウのキーホルダーが入っている。


「よし……」

 思い切って、ドアノブを回した。

 ゆっくりと押しながら開くと、少年はベッドの上に体を起こして何かの本を読んでいた。傍らにたくさんの本が積んである。

 ドアの音に気づいて少年が顔を上げた。

 一瞬、目が合ってどきっとする。


「やあ」

「おはよ」

 佳奈は挨拶を交わしながら胸がきゅっと鳴るのを感じていた。コントロールできない感情に戸惑いながら、笑顔を作った。

「もう大丈夫?」

「ああ、すっかり元気だ」

少年が頷く。


「たくさん、本を読んでるのね?」

「ああ。記憶がないんで、少し常識を勉強してる……。ここの人に貸してもらったんだ」

「へえ」

 積んである本に目を移すと、近代史や百科事典、雑誌等が主だった。

「何て言えばいいのか……」

 佳奈が言葉が続かず困っていると、

「君の名前は、何て言うんだ?」

 少年が頭を掻きながら尋ねてきた。


「佳奈、秋月佳奈よ」

「あきづき、かな?」

 少年が興味深そうに名前を繰り返す。

「あなたは? やっぱり思い出せない?」

「ああ、だめだ」

 少年が首を振った。


「何も思い出せないの? 例えば、住んでいたところの何となくの記憶とか……」

「ああ。思い出そうとはしているんだが、頭に靄がかかっているようでね」

「そう。あの提案があるんだけど……」

「何だ?」

「嫌じゃなきゃなんだけど、とりあえず仮の名前をつけるっていうのはどうかな?」

「仮の名前?」

「うん。呼び名がないと不便だし……だから、考えてみたの。遥ってのはどう? は・る・か」

「遥?」

「うん、そう」

 少年は微笑んでいるような表情だった。特に嫌がっているような感じは受けない。


「何か、意味があるのかな?」

「何て言うのか、すごい遠いところから来たんじゃないかって思って。はるか、遠くって言うじゃない?」

「ふーん、そうか。別に嫌じゃないよ。確かに名前がないと不便だしな」

 少年が頷いた。

「そっか、よかった」

 佳奈は笑った。


「それに、一緒に暮らすのに名前もないじゃ困るもんね」

「一緒にって……?」

「あ、そうか。お母さんが言ってたの覚えてない?」

「言われてみれば、何となくは……」

 少年はそう言った。

 佳奈は、母が少年と一緒に暮らすことを申し出たこと、そしてそのことについて許可が出たことを説明した。


「いいのか? 俺、自分のこと、全然思い出せてないし、わけのわからないトラブルに巻き込まれているみたいだ。自分の中にも得体のしれない力が眠っている」

「力?」

「ああ。俺の中にキハチと名乗る者がいるんだ。何者なのか、記憶を取り戻せていない俺には分からないが、友人であることは間違いない」

「そういえば、この前も言ってたね。雷と風を操る鬼なんでしょ?」

「そっか、言ってたか……」

 少年が笑顔になる。


「怖くないのか? 敵らしき奴らが襲ってきた時、実際に小さな雷を落としてるんだぞ」

「大丈夫よ。友だちの力なんでしょ?」

「いや、まあそうなんだが……、心の中にそんな存在がいるなんて普通じゃないし、自分の記憶も思い出せてない得体の知れない奴だぞ。何か悪いことをするかもしれない……」

「本気で言っちょるん?」

 佳奈は笑った。

 話の内容は突飛だったが、何だかほっこりとした雰囲気だった。佳奈は、ずっと前にこうして話をしたことがあるような、そんな奇妙な既視感デジャビュを感じていた。


「あなたが、そんな危ない人じゃないってことは直感で分かるわ。それに、何て言うのか、私たちがあの海岸で助けたのも運命っていうふうに感じてるし……、お母さんも決めちゃってるしね」

 佳奈が笑った。

「そうか……だが、なんとか世話をかけずにやりたいんだが、その……お母さまはどちらだ?」

「お母さま!」

 佳奈は少年の丁寧な言いようがおかしくて、吹き出した。

 その笑う様子に釣られ、少年も笑った。


「あら、あら。どうしたの? もう仲良くなった?」

 大きな声で笑っているところに、佳奈の母がやって来た。佳奈から話を聞き終えると、右手を差し出す。

「よろしくね。名前は、えっと、はるか、くん。……でよかった?」

「は、はい」

「よかった、それじゃ、遥くん。改めてよろしく。私のことは祥子さんて呼んでね」

 遥がどうしていいか分からずにいると、佳奈がやって来て手を引っ張って祥子の手を握らせた。二人の握手を重ねたまま、ぶんぶんと上下に振る。


「それで、あの、祥子さん……」

 遥がおずおずと切り出す。

「うん?」

「なんとか迷惑をかけずに、自分の力で暮らしたいんですが……」

「一人でってこと? だめよ! いい? あなたは、あなたがやるべきことを思い出すまでの間、私たちと暮らすとよ。何もあなたのためだけではないのよ」

 祥子はそう言うと、夫の秋月信司三等空佐が行方不明になったこと、その直後に海岸で遥を助け出したことなどを詳細に説明した。


「あなたが唯一の手がかりでもあるの。私たちと一緒に暮らすことで行方不明の夫にも会えそうな気がしているのよ。それに、そうしないと、ここの基地の人たちもあなたをここから出してはくれないはずよ」

「そうですか……」

 遥は頷いた。

「じゃあ、いいのね?」

「はい。ご迷惑をおかけします」

 遥が頭を下げていると、

「にいっ」

 と猫の鳴き声がした。

「――じゃがな、それには少し条件が付いたんじゃ」

 武見がそう言いながらトマトと一緒に部屋に入ってきた。

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