第4話 佳奈と天野(2)

 それは、佳奈の記憶に残る父の姿――。

 確か、小学三年生の頃だった。

 宮崎市内であった県内中の社会人の剣道家による大会。

 試合会場は、それまで見たことがないくらい天井が高い大きな武道館だった。


 広い板間の上に何面も試合場が作られ、屈強な男たちが絶叫とともにぶつかり合う。激しく防具を打つ竹刀の音や、床を踏み込む音が、そこかしこで響いていた。

 佳奈は、会場の上の応援席から、声が枯れるまで応援した。

 父は順調に決勝まで勝ち進んだが、満身創痍でぼろぼろなのが佳奈にも分かった。

 一方、県警の機動隊だという決勝の相手は父よりもだいぶ若く、まだまだ余力を残していた。それに、体格もだいぶ違う。


 佳奈は必死に相手を観察した。そして、ふと、あることに気がついた。左手が黒い影に覆われているように見えたのだ。さらに注意深く見ていると、わずかにだが左手を庇うように動いているような気がする。

 佳奈は、急いでそのことを伝えようと、父の元に行った。

「お父さん、気づいたことがあるっちゃけどね、相手の選手、ひ……」

 佳奈が相手の選手の弱点を伝えようと開いた口を父は押しとどめた。


「佳奈、ありがとう。だが、大丈夫だ」

「だって、相手の悪いところに気づいたんだよ」

「お前は昔から、不思議な力がある。そして、お父さんのことを思ってくれるその気持ちはとてもうれしい。だが、剣道は……この試合は、お父さんの力で何とかしたいんだ。分かってくれるか?」

 父が笑顔で佳奈の目を見つめる。

 佳奈は、父の迫力に思わずうなずいたが、納得がいったわけではなかった。


 試合が始まった。

 最初は一進一退だったが、三分を過ぎたところから相手のペースになった。

 父の一撃が、一瞬、相手の左腕を打ち、動きが鈍ったが、それ以上、父はその部分を攻撃することはなかった。

 最後の最後まで父は文字通り死力を尽くして戦ったが、最後の最後で面で一本を取られ、敗けた。


 佳奈は、試合が終わり一礼する父の姿に涙が止まらなかった。

 一生懸命な父の姿に感動したのか、負けたことが悔しかったのか、自分でも説明の付かない感情だった。

 試合場から帰ってくる時に、相手が左手を押さえ、膝をつくのが見えた。相手の選手もいっぱい、いっぱいだったのだ。

 試合が終わった後、駐車場の自動車まで父と手をつないで行った。

 真っ赤な夕焼けが射す中、からすが遠くで鳴いていた。


「ねえ、なんで私のアドバイスを聞かんかったと?」

「ん? ははは」

 佳奈は胸につっかえていた疑問を聞いてしまったのだが、父は笑ってごまかした。その満足感に溢れた顔がはっきりと脳裏に焼き付いていた。


 あの時は、きちんと分からなかった父の気持ちが、今はなんとなく分かる。父にとって剣道とは自分だけの大事なものだったのだ。だから、自分の力だけで戦いたかったのだ。


      *


 佳奈の話が終わると、天野は缶コーヒーの残りを一気飲みした。

「うーん、凄い話だわ! 相手の左手が影に覆われていたように見えて、それで痛めてることに気づいたんだよね?」

「ええ……」

「それって第六感的な感じ?」

「まあ」

「昔から、その不思議な力はあったの?」

「変なふうに思われるんで、あんまり、人には話さないんですが、小さい頃から少し」

 天野の顔が興味津々な表情になっている。


「他にはどんな感じなの?」

「いや、そんな大したことはないんです。急に変わる天気を当てたり、それこそ体の病気になっているところが分かったり」

「ううん、大したことよ。私にはそんな力、全然ないんだもん。」

 天野がにっこりと笑った。

「それに、お父さんとのことも何だかうらやましいな。私は父とそんなに仲良くなかったから。佳奈ちゃん、相当お父さんのこと好きでしょう?」

「え? ま、まあ」


 佳奈は天野の突然の言葉に、改めて自分の気持ちに気づかされた。

 と、同時に涙が溢れてきた。

 天野が慌てて、ハンカチを差し出す。

「す、すみません!」

 佳奈は天野の優しさに笑顔になった。そして、差し出されたハンカチで涙を拭くと、あたふたとする天野を逆になだめた。

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