第8話 敵襲(3)

 窓ガラスがあったところから、音もなく、全身真っ黒な男が入ってきた。

 服も靴も黒――。肌が見えているはずの顔も手のひらも全てが真っ黒で、まるで人の影が実体を持って現れたかのようだった。

 漆黒のその顔には表情というものがないばかりか、目も、鼻も、口も見当たらない。

 と、突然、男の左目が開いた。瞳に、真っ赤に光る曲玉を平面にしたような何かが見える。

 同時に、右手の四本の爪が伸び、武見を襲った。


 佳奈の目には、確かに武見を貫いたかのように見えた。

 だが、その時には武見は、その場から消えていた。

「お主、何者じゃ」

 影の男の背後で武見が言った。佳奈の目に残像を残し、一瞬でそこまで移動したのだった。


「ふ、ん……。お前、ごときに、答、える必要は……な、い」

 男は不明瞭な声で言った。

 武見の顔から表情が消える。そして、その場から消えたかと思うと、驚くべき速度で男に肘打ちを当てていた。

 男が同じ形で迎え撃つ。

 肘と肘が辺り、二人は距離をとった。


「むう……」

 武見は大きく息を吐き、男を睨みつけた。

「式神か……。本体ではないな?」

「ふ、ふ、ふ」

 男は武見の質問には答えず、含み笑いを遺して、ベッドの少年に向かった。

「ま、だ、目覚め、ておら、ぬか……」

 男はそう言い、大きく伸びた四本の爪で、少年の顔を触った。爪が皮膚を切ったのか、薄く血が流れる。


 そのとき、一陣の風が吹いた。細かいガラスの破片が風に乗って男を囲み、動きを邪魔する。

 いつの間にか、少年がベッドの上に立ち上がっていた。少年を中心に空気が渦を巻き、細かいガラスの破片が一緒に回っている。老医師の割った花瓶の欠片だった。


 少年の髪が逆立ち、肩の筋肉が隆々と盛り上がる。

 着ていたパジャマが音を立てて破け、体が大きくなっていく。

 横幅だけではない。身長が伸びているのだ。十歳くらいの男の子の体格だったのが、明らかに青年のそれになっていた。顔も全くの別人になっている。そして、肩にはそれまでなかった大きな黒い目玉のような痣が浮かび上がっていた。


 佳奈は、変わってしまった少年の横顔を見て、涙を流していた。

 確かに、この人を知っている。その美麗な眉、透き通った目、筋の通った鼻、形の美しい唇。先ほどまでとは変わってしまったその顔、全てに見覚えがある。それも、遙か昔から……それは確信だった。


 ビリ、ビリ

 と、部屋中が振動した。

 強烈な風が、影の男に向かって吹いた。

 無数のガラスの破片が、空気の奔流とともに男の顔に突き刺さる。しかし、男は苦しむそぶりも見せず、少年に向き合っていた。


 少年の体中が電光を発し始め、体中に紫色の電気の糸がまとわりついた。

「こいつは、誰にも殺させない」

 少年は野太い声でそう言うと、右手の人差し指を男に向けて伸ばした。

 辺りが真っ白に光ったかと思うと、すぐに轟音が鳴った。

 小さな雷が男を襲ったのだった。


 男は、見る間に大きな黒い紙切れへと変化し、炎を上げて崩れていった。

 近づいた武見が、男の胸の辺りに手を突っ込むと、そこに黒い小さな黒い蜘蛛を捕らえていた。既に息絶えているその蜘蛛は、見たこともないほど、太い毛むくじゃらの足を持っていた。

「先生、これは?」

 呆然と青山が呟く。

「式神じゃ。黒牙一族の使う技。海岸でも、使う奴がおったんじゃろ」

「ええ。そう報告を受けてます」


 武見と青山が話していると、

 どん

 と、音がして少年がベッドに倒れた。体格は変わらずだったが、肩の入れ墨のような模様がなくなり、幾分、体も細くなっていた。

「おい、大丈夫か?」

 青山と佳奈、そして佳奈の母は、慌てて少年に駆け寄った。

 佳奈は医師と看護婦を振り返ったが、二人とも壁際でのびていた。


      *


 基地の病院施設がある棟に隣接する中庭。

 そこにある一際大きな木の下に、黒ずくめの格好をした人影が三つ固まっていた。

 風が枝を揺する音のみが響き、熱気と湿気を含む空気がゆっくりと動いている。空気には青葉のにおいが微かに溶け出ていた。

 空には月はなく、満天の星が瞬いている。


「やられた。すぐに移動だ」

 しゃがれた声で一人の男がそう言い、立ち上がった。二人の男もそれに続く。

 すると、鋭い殺気と「シャアッ!」という声が響いた。

 男たちが地面を転がって攻撃を避ける。


 リーダー格らしい男の頬から血が流れていた。

 足下に黒猫のトマトが立っている。

「やはり、黒牙一族か?」

 その向こうに、武見が立っていた。


 背は低いが、がっちりとした体格の男が迷うことなく、右手を振った。

 ぶんっ

 と、音がしたかと思うと、武見とトマトがいたところを、太いロープのようなものが幾重にも分かれ、激しく叩いた。


「ぐはっ!」

 背の低い男が、苦悶の息を吐いた。

 武見は、攻撃をかわしながら、その男のみぞおちに肘打ちを入れていた。追撃は入れずに、素早く後ずさる。トマトはすでにその場から消え、どこかに行っていた。

「お主等、狙いはあの少年か?」

 武見の質問に男たちは答えなかった。

 前触れもなく、その場を真っ白な光が覆った。閃光弾を男たちが放ったのだった。


 武見は目をつぶりながら、大きくその場を飛び退った。

 そして、目を開けると、すでにそこからは誰もいなくなっていた。

「おい! どうせ、返事はしないだろうが、言っておく!」

 武見が大声で叫んだ。

「これを見よっ!」

 武見の掲げたのは、あの金属板だった。


「八咫鏡の片割れよ。お前らの主が持つものと対になるもの。ここにいる少年や周りの人々に手を出せば、こいつを使ってあいつの……あの少年の中にある力を隠す!」

 ざわり、

 と、木々の枝葉が鳴った。

「奴がほしがっているだろう力を隠すと言っておる。それで分かるはず……。そう伝えよ!」

 武見はそう言うと、くるりと踵を返した。

 同時に、それまであった気配のようなものが消えていた。

 向こうから青山たちが走ってくる。

「やれやれ。ここからが大変じゃ……」

 武見は青山たちに手を振りながらため息をついた。

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