第7話 敵襲(2)

 日は暮れたばかりで、空気は湿気をたっぷりと含んでいた。病室の廊下を歩いていると、汗がじわじわと湧いてくる。一行は無言で、人気のない医療施設の廊下を少年の部屋へと歩いて行った。


 着いた少年の病室は、佳奈の部屋とほぼ同じ質素な作りで、消毒薬の臭いが漂っていた。

 少年は水色のパジャマを着せられ、右手首には白い貝殻のブレスレットを着けている。

 佳奈は静かな寝息を立てている少年の寝顔をまじまじと見つめた。


 海岸で会ったときにも思ったことだが、「どこかで会ったことがあるんじゃないか」と自問自答してしまうほどに懐かしい感じがする。しかし、自分の記憶のどこにも、この少年に会ったという記憶は無かった。

「彼は、全然目覚めようとしないんですか?」

「ええ、全く……」

 医師は佳奈の質問に首を振って答えた。


「健康状態は問題ないんですか?」

「心電図も脳波計も血圧値も何もかも正常です。最初の二日だけ、点滴による抗生物質の投与をしましたが、今は栄養補給だけです。目だけが覚めない……」

「何か、気づいたことはありますか?」

 青山が佳奈に訊いた。

「いえ、あの……さっきも言いましたが、見覚えがあるような気がします。どこで? と聞かれると、困るのですが……」

 佳奈の答えを聞いて「ふむ」と武見がうなずいた。


 その時、何かが砕け散るような音が後ろからした。

 佳奈が反射的に音のした方を見ると、サイドテーブルの上に置かれていた花瓶が、床に落ち、水が床に溢れているのが目に入った。

 横で、老医師が、床に手を付け苦しんでいた。

「だ、大丈夫ですかっ!?」

 突然のことに、佳奈は驚きの声を上げた。

 看護婦が駆け寄り、医師の肩に手を置こうとする。すると、看護婦は大きくはね飛ばされた。医師が腕で押しのけたのだった。


 看護婦は、恐ろしいほどの速度で壁に激突すると、気絶した。

 老医師のどこにそんな力があるのか、病室全体が、振動するほどの衝撃だった。

 佳奈たちは驚愕の表情で、医師を見つめた。


 ぐう……

 と、医師の喉が鳴る。

 ボコボコと音を立てて、背中が大きく膨らんでいく。まるで、別の生き物が服の中にいるかのように、背中の膨らみが動き回っていた。

「ぐぐう、おお、あおう」

 医師が突如、天井に向かって吠えあげると、全身の筋肉が盛り上がり、白衣が音を立てて破れた。

 口元が弾け、血がにじんでいる。涎が大量に口が漏れ出て、床にこぼれた。


 ありえない。佳奈は息を呑んだ。

 これは人ではない。なぜ、あんなに優しく親切だった医師がこんなに短期間で人ではないものに変化してしまうのか? 一体、今、目の前で起こっていることはなんなのか?


 突然、医師が少年に跳びかかった。

 青山が後ろから羽交い締めにしてはがそうとしたが、全く動かない。

 佳奈は医師と少年の間に割って入ろうと駆け寄った。

 医師の口が大きく開き、少年の美しい顔に食いつこうとする寸前で止まっていた。

 青山の力が少しでも緩めば、少年の顔は、ずたずたに引き裂かれていたに違いない。


 佳奈は、どうしていいか分からないまま、医師の顔を固めた拳で叩いた。だが、いくらもダメージを与えたようには思えなかった。

 医師の体がぶるっと震え、青山を弾き飛ばす。

 青山の横にいた佳奈も、勢いで尻餅をつく。

 天井に向かって激しく吠えあげる医師の姿は、もはや人ではなかった。筋肉が隆々と盛り上がり、体は真っ赤になっていた。

 まるで、おとぎ話に出てくる赤鬼のようだ。佳奈は呆然と思った。


「それくらいにしておこうか」

 武見が静かに言った。

 医師が血走った目でそちらを見る。

「武見さん、危ない……」

 心配する佳奈に向かって武見がウインクする。

 そして、目の前から消えた。

 床を撃つ大きな音とともに、医師が床にたたき伏せられていた。医師の太い腕が背中に回され、完全に関節が極められている。


 武見は、いつの間にか、その太い腕に腰掛け、微笑んでいた。

 青山が「先生」と声を掛けると、「おう」と答える。

 医師の目が開き、何があったのか、分からないと言った表情で武見の顔を見た。みるみるうちに、体がしぼみ、真っ赤だった色も元に戻っていく。

「正気に戻ったな。しかし、なんでこんなことになったんじゃろうな?」

 武見が医師の顔をのぞき込んだ。


 その時、

 いん……

 と、医師の上着のポケットから音が響いた。

「む」

 武見の眉がつり上がる。そして、医師のポケットに手を突っ込んだ。

「こいつは……」

 そこにあったのは曲玉を平面にしたような形の金属片だった。そして、それは少年を助け出した時、首に掛かっていた金属の鏡だった。

「それって……」

 佳奈がつぶやくと同時に、鏡が震え始め、音の響きが大きくなっていった。


 鏡の音に呼応するかのように窓ガラスが震え始めたかと思うと、一面にひびが入り、一気に崩れ落ちた。

 それまで、窓ガラスがあった四角い穴から風が吹き込む。

 佳奈は全身に鳥肌が立つのを感じていた。

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