人狼から逃げましょう

 食事処で村を襲う人狼の噂を聞いたから襲われる前に村を出ようとしたのに、まさか今の今でこの村が襲われるなんて思ってもいなかった。


 聞こえてくる悲鳴に、咄嗟に顔を向ける。

 視線の先には、逃げまどう村人たちがいた。その村人たちよりも向こう側に人狼がいるらしい。


 人狼はまだ見えない。私が見える範囲にはいない。それなのに、足が竦んで動けなくなった。

 だって、声が聞こえた。人ではない、獣の雄叫び。村人の向こうには、確実に強いモンスターがいる。……人狼が、いる。


 村人に、人狼に見つかる前に逃げなきゃいけないのに、足が動かない。体が震える。呼吸が浅く、早くなる。


 いやだ、いやだ、いやだ!

 来ないで。見たくない。こわい……っ!


 必死の願いも、届かなかった。


「……っ!」


 とうとう、見えてしまった。村人と村人の隙間から、その姿は私の目に飛び込んできた。


 人狼は、二足歩行の狼にしか見えなかった。人の部分が二足歩行ぐらいしか見つからない。獣にしか見えない。なのに、なぜかズボンは履いていた。

 普段の私なら「いや違和感しか無え!」と突っ込めるのに、その違和感が人狼への恐怖を増幅させていた。カチカチと奥歯が鳴る音しか出せない。恐怖が私の体を支配していた。


 逃げまどう村人たちは周りが見えていないのか、棒のように突っ立っているだけの私に気付いていない。

 しかし確実にこちらに近付いてきていた。私では人狼に勝てないため、村人に見つかって助けを求められる前に逃げなくてはならないのに、足が全く動かないのだ。

 この距離ならば人狼からも私が見えるだろう。それなのに、どうすることも出来ない。足だけでなく、頭も働かない。


 どうしよう。どうすればいい? 怖い。誰か、助けて……。


「ままぁ……!」

「っ!」


 どこからか、声が聞こえた。……子どもの泣き声だ。

 声の発生源を探すためぐるりと辺りを見渡す。


「ままぁ! どこぉ……!」


 小さな女の子が、いた。

 そこはちょうど人狼と私の中間地点。私が気付いたときには、人狼もその幼女の声に気付いていた。


「幼女っ!」


 あんなに動かなかった足が勝手に動く。前へ前へと足が回り、必死に手を伸ばして幼女を抱きすくめた。

 振り上げられた人狼の爪を視界におさめて、軌道を確認する。少しでいい。幼女に怪我がなければそれでいい。人狼に背中を向けるように、幼女に当たらないように。


「ひ……ぃ……つぅ……っ」


 スライムたちモンスターとの修行が効いたのかは分からないけど、微かに爪が背中を掠っただけで済んだ。


 痛いのは痛いんだけどね! この爪に毒とかがないことを願うよ。


「……幼女、大丈夫?」

「う、うええええん! おにいちゃ、ありが……、ままぁぁあ!」


 腕の中でぎゃんぎゃんと泣きわめく幼女に安堵の息をつく。これだけ元気ならば問題ないだろう。

 よしよし怖かったね、と頭を撫でれば、幼女は更に声をあげた。


 ……幼女はいいなあ。私も怖いよ。泣き叫びたいよ。逃げたいよ。


 泣き叫ぶ幼女は私にしがみついて離れない。

 困ったな。この子のお母さんはどこに行ったのだろう。


「アン!」

「ままぁぁああ!」


 路地から駆けてきた女性の姿を見止めた瞬間、幼女は私から離れ、女性へと飛びついた。


「ああ、アン、良かった! 勇者様、ありがとうございます!」

「まだ危機は去っていない。早く隠れて!」


 幼女とそのお母さんは頭を下げて人狼のいない方へ走って行った。

 さて、これからどうしようか。目の前にいる人狼は一匹だ。勝てはしないけど、逃げるくらいはなんとかなるだろうか?


 唸り声を上げて私を見降ろす人狼に涙が出そう。吐くよりマシかな……。


 人狼に対する恐怖は変わらない。むしろ近付くことで恐怖が増した。すごく怖い。めちゃくちゃ怖い。震えが止まらない。

 ……でも、先程までの体の強張りは嘘のようになくなっていた。


『お前たちはなぜ村を襲うんだ!』


 えええええ!? ちょっと悪魔! 急になに言わせてんの!?


 先程まで我関せずとニヤニヤしているだけだった悪魔を振り返るも、変わらず愉しそうな笑みを浮かべているだけだった。いや、笑みは深くなっているかもしれない。


『突然、村を襲うだなんて何か理由があるんだろう? 俺に話してくれ!』


 やめて、やめて! 恐怖と不快で胃液が喉まで上がってきてるって!


 止まらない悪魔の暴挙に必死に嚥下を繰り返すことしかできない。それも無理矢理口を動かされているため、思うように飲み込むこともできない。


『俺はお前たちも助けたいんだ!』


 人狼は私の口から出てくる言葉に不快そうに眉を寄せた。


「ぐるる……。オマエ、意味わかんねーんだヨ!」


 人狼は大きく腕を振りかぶる。人狼ってしゃべれるんだぁ、なんて現実逃避をしてみたけど色々限界だった。


「おろろろ……」


 嘔吐のために突然身を低くした私に人狼の爪は当たらなかった。

 だけど人狼は勢いを殺しきれず、勢いそのまま私の背中に倒れ、のしかかってきたせいで私は人狼に押しつぶされた。

 嘔吐物は、ギリギリ避けた。


「うおっ!」

「ぐえ……」


 潰された重みで吐いた息を吸って、顔の横にある先程ぶちまけた嘔吐物の臭いにまた吐きそうになる。

 でも、私より人狼の方が鼻が良いらしい。


「うぐおおおっ! くっせぇ!」


 鼻を押さえて身悶える人狼。その隙に人狼の下から抜け出した。

 人狼は私が離れても気付かないくらい臭さに悶えていた。あまりの悶えっぷりに同情してしまう。

 でも、これは全部悪魔のせいだから。私のせいじゃないから。


「どうした!?」

「なにがあった!」


 ……しまった。他の人狼たちがこちらに気付いてしまった。まあ、これだけ臭い臭いと騒げば気付かれるよね。


 わらわらと集まる人狼たちに、愉しそうに笑う悪魔に、どうあっても逃げられないのだと悟った。


 ああ、口の中が気持ち悪い……。


「オマエ、何して……くさっ!」

「オレらの仲間に何を……くっさ!」

「なんだここ!」

「なんの臭いだ!?」


 集まってきた人狼が鼻を押さえて一定距離から近付かなくなった。

 攻撃されないのはありがたいんだけど、少し複雑だ。


 仲間が苦しんでいるのを助けようと、じりじりとこちらに近付こうとしては嘔吐物の臭いに耐えられず戻るを繰り返している人狼たちに、今度は私の口で尋ねてみた。


「……君たちは、なぜこの村を襲うんだ?」

「っ、うるせえ! テメエら人間に何がわかる!」


 一匹の人狼はそう叫ぶと、勢いよく駆けだして今度こそ私に近付いて攻撃を仕掛けてきた。

 振りかぶる毛深く太い腕に、ぎらりと光る長く鋭利な爪。先程は背中に掠っただけでも痛くて泣きそうになったのだ。まともに受けたら死んでしまう。


「う、わ……っと」


 人狼と正面から向き合うのは怖いが、向き合わないと攻撃の軌道が読めない。しっかりと人狼を見据え、なんとか攻撃を避けることに成功した。


「ちぃっ! 人間のくせに!」


 何度も何度も腕を振りまわして私を引っ掻こうとする人狼。人狼の早く、力のある攻撃から逃れようと必死にその姿を見て動き回る私の息は既に切れそうだ。

 それなのに、一匹の人狼の奮闘する姿を見た他の人狼たちは雄叫びをあげ、臭いを我慢して一斉に私に攻撃をしかけてきた。一番の臭いの被害者だった人狼もよろよろと立ちあがり、腕を振り上げてくる。


「ちょ、ま……っ、くそっ!」


 複数で多方向からなされる人狼たちの攻撃。

 泣きたい。しかしそんな余裕すらない状況で私は必死に避けるしかない。


 こんなの死んでしまう! そう思うのに、人狼たちの攻撃はほとんど避けることが出来ていた。攻撃が当たったとしても薄皮が切れる程度の浅い傷で、致命傷にはなっていない。

 当たらない攻撃に人狼たちが徐々に苛立ちを募らせていくのが分かった。


「なんで当たらねーんダ!」


 一匹の人狼が勢いよく突進してくる。その勢いのよさから最初の人狼かな? と当たりをつけて、避けた。

 しかし余計なことを考えたのがいけなかったらしい。

 避けたと同時に足を滑らせた。


「えっ」

「ぎゃんっ!」


 滑って転んだ先は、なぜか人狼の上だった。


 もふあ……。


「……え?」


 手のひらに広がる柔らかい感触に、思わず両手を上げた。予想外の感触に、両手と押し倒してしまった人狼を見比べる。


 これが、人狼の毛並み……?


「おい! どけヨ!」


 下で暴れる人狼なんて気にしていられない。再度、人狼に手を伸ばした。


「狼の毛って、もっと硬いのかと思ってた……」


 もふもふ。わしゃわしゃ。


 今が戦闘中であり、人狼の上に乗っているという事実を忘れさせるぐらい夢中で撫でた。


 ……なんだこれ。めちゃくちゃ気持ちいい。


 人狼にまたがって一心不乱に撫でくりまわしていると、戸惑って硬直していた人狼から抗議の声が上がった。


「ぅおいっ! やめろヨ!」

「そうだ! ヨルドから離れろ!」


 周りにいる人狼も次々と声を上げるけど、私が大事な仲間の上に乗っているため手が出せないようだ。

 ならば周りは気にせずこの毛並みを堪能するしかない。頭、首、胸、腹、と余すことなく撫でまわしていく。


 ……あ、お腹が一番気持ちいい。


 人狼は抵抗して逃げようともがいていたけど、徐々に体から力が抜けていった。それと比例して、遠巻きに見ていた人狼たちの顔は強張り、体に力が入っていく。


「やめ、あぅ……やめろぉぉ……っ」

「ん? ふふ、君も気持ちいいんだね。舌なんか出しちゃって、可愛いなあ」


 へろへろにとろけた姿は、もうただの大きなわんこにしか見えない。

 人狼、怖くない。


 私はにっこりと笑って、立ち上がった。


「君たちも同じくらい気持ちいいのかな? それとも、毛並みに違いはあるのかな?」

「ぎゃあああ!」

「たすけてぇぇええ!」


 走り出した私から逃げる人狼は、なぜか全員涙目だった。

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