久方ぶりのお風呂です!
若い男の村人に続いて大浴場の建物の扉をくぐると、正面にカウンターがあり、その左右に扉があった。扉にはそれぞれ何かマークが描いてあるから、おそらく男女別の入り口だろう。建物の入り口近くのスペースには休憩できる木でできたベンチのような椅子が何脚か置いてあるが、今は誰もいなかった。
よくある銭湯のような造りだ。見慣れた光景にぐんぐんと期待が高まる。
カウンターの向こうに男が一人座っていた。彼が番台かな。
番台の男は私に気付くと、目を見開いてから慌てて立ち上がった。
「勇者様じゃないですか。いらしてたのは聞きましたが、こんなところにどうしたんですか?」
さすが小さな村。話が回るのが早い。
「風呂に入りたくてな。大丈夫か?」
「今しがた沸いたところです。誰もおりませんのでごゆっくりどうぞ」
「では、私はこれで失礼します」
若い男は私に頭を下げて、大浴場から出て行った。
番台の男は少し緊張した面持ちで左の扉を案内してくれた。
扉の先は更衣室のようになっていた。その奥にも扉があり、その先に浴場があるのだろう。
番台の男は場所の案内をしただけで、そそくさと戻っていった。
一人になり、ぐるりと更衣室を確認する。
今まで村で見てきた家々と同じく、この大浴場も全体的に木造だ。つまり、浴槽も木でできていると考えられる。檜風呂みたいに良い物ではないだろうけど、木の浴槽というだけでテンションが上がってしまうのは仕方がないよね。
ああ、楽しみだなぁ。
キッチンには竈しかなかったから、この世界ではガスではなくてお風呂も薪を使って火で温めているのだと思う。そういうお風呂は多少興味はあったけど、今まで入ったことはなかった。
初めてのお風呂にウキウキと服を脱いで、浴場への扉を勢いよく開け放った。
「おおっ!」
湯気の立ちこめる浴場は、想像よりも広かった。広めの銭湯くらいはありそう。村人が何人も入る場所なのだから広いとは思っていたけど、これだけ広いと掃除が大変そうだなんて思ってしまうね。
番台の男の言った通り、浴場には誰もいなかった。久しぶりの入浴をのんびりゆっくりと楽しめるのはとてもありがたい。
なにより、他の男の裸体を見る覚悟はしてきたけど、いないならいない方が良いに決まっている。
さてさて体を洗おう。ぐるりと浴場を見渡して、頬が引き攣った。
「……シャワーがない」
そういえば、プロートン村は井戸や川の水で生活していた。似たような規模の村なのだからこのトルポ村も同じく井戸や川の水で生活しているはず。つまり水道なんか通っていないのだ。シャワーなんかあるはずがない。
「ぐぬぬ……無いものを文句言ってもしかたないよね……」
浴場内に木でできた桶や椅子はある。石鹸もある。つまり、体は石鹸で洗える。ならば流し湯は浴槽のお湯を使うのだろう。
つまり、昔のお風呂と同じだ。少し面倒だけど、お風呂に入るためなら文句は言っていられない。
桶でお湯を汲み、椅子にかけ流す。誰もいないのをいいことに桶をいくつか拝借してお湯を確保した。
石鹸を使って手早く、しかししっかりと頭と体を洗っていく。髪が傷みそうだけど、今は男の体だから気にしない。みんな一緒。洗えないより良い。
洗い終わり、ざばぁっとお湯で全身を流す。ここまできたら興奮が表面化してきた。
やっと、やっとお風呂に浸かれる!
はやる気持ちを抑えて洗い場を片付け、浴槽に足からゆっくりと浸かっていく。じんわりと体を包み込むお湯の感覚に、ぶわりと沸き出す満足感に、思わず声が漏れた。
「うあ~~~~……極楽……」
久しぶりのお風呂、最高っ!
「勇者様、大丈夫ですか!」
「……へあ?」
うっとりと眼を閉じてお湯を満喫していると、番台の男が慌てて浴場内に駆け込んできた。
油断していて変な声を出してしまったけど、番台の男は気付いていないらしい。危ない、危ない。
「ああ、良かった。あまりにも出ていらっしゃらないので倒れているのかと……」
ほっと胸を撫で下ろす番台の男。
気持ちよさのあまり、ついつい長湯をしてしまったらしい。
ここには時計がないから仕方ないよね。つまり、悪いのは私じゃない。
「すまない、心配をかけた。まだもう少し浸かっていてもいいか?」
「え? ええ、問題ありませんが……」
まだ浸かるのか? という視線を向けてきたけど、番台の男は口には出さず扉の向こうへ戻って行った。
「はあ……嬉しすぎて自分の世界に入っていたわ」
「ホントにな」
「うわあっ!?」
突然背後から聞こえた声に思わず飛び上がった。既視感。
振り返れば、むっつりと怒っています、という表情をした悪魔がお湯に浸かっていた。
……その顔、可愛いな。
「風呂の気持ちよさを教えると言っておいて自分の世界に入りやがって。見よう見まねで入ったけどなぁ、自分の言葉には責任を持てよ」
……そっとしといてくれたの?
思わず絆されそうになって、頭を振った。
危ない、危ない。油断してはいけない。相手は悪魔なのだ。お風呂が思いのほか気持ちよかったから放置しただけで、私のためなんかでは絶対ないはず。
「ごめん。でも、お風呂の良さは分かったでしょ?」
「おー。水浴びはするけど、湯に浸かるなんてしねーから新鮮だわ」
腕を持ち上げ、ぱしゃりと音をたてて楽しむ悪魔。
……このサイズは、本当にずるいと思う。
満足するまで浸かったところで、漸く出る決心がついた。次はいつ浸かれるか分からないからと欲張りすぎたかもしれない。皮膚のふやけ具合がすごい。
ただ、悪魔も十分満足したらしく鼻歌交じりで体をタオルで拭いていた。
更衣室を出れば、番台の男はあからさまにほっとしたような表情になった。
「いいお湯だった。ありがとう」
「勇者様にそうおっしゃっていただけるなんて光栄です」
『ところで、飯屋はあるか?』
突然変換された言葉に思わず悪魔に視線をやった。腹をさすって空腹アピールをしている。
けれど、悪魔には普通の食事は必要ないと悪魔自身が以前言っていた。魔力が満たされていれば問題ない、と。つまり、腹が減るということ自体無いはずなのだ。
まあ、今日までの旅でも私から木の実などを奪って美味しそうに食べていたから、味覚があって食事自体が可能なのは知ってるけど。
「ええ、あちらの通りにあります。看板が出ているのですぐ分かるかと。村人の自分が言うのもなんですが、あそこは美味いですよ」
「それは楽しみだ」
大浴場から出て説明された通りに歩くと、一際賑やかな声が聞こえてくる建物があった。ナイフとフォークのイラストが描かれた看板が出ている。ここが教えてもらった食事処で間違いなさそうだ。
扉から顔を覗かせると、給仕の女性はすぐに気配に気付いて声をあげた。
「いらっしゃ……勇者様っ?」
女性の驚いた声に、今までわいわいと賑わっていた店内がしん、と音を消した。
……なんだか申し訳ない気持ちになる。同僚と飲み会をしていたら隣の席に上司が来た、みたいな雰囲気だ。
だけど、久しぶりに誰かが作った普通のご飯が食べたいので、このまま空気を読まずにいきます。木の実飽きたの。焼き魚飽きたの。
「すまない、空いてるか?」
「あ、空いてはいますが、お食事なら村長の家の方が……立派な物は出せませんよ……」
あわあわと慌てる女性と、どうなるのかと固唾を飲む村人たち。
村長の家で食事ができるなら村長の家に泊まっているって。そんな面倒なことはしたくないからこうしているのだ。
まあ、察してくれとは言えないんだけど。
「……しばらくちゃんとした食事を摂れてなくて。久しぶりに村の温かい食事が食べたかったんだけど、君が困るなら出て行くよ」
悲しげに見えるよう、伏し目で苦笑を浮かべる。
そうすると、女性は更に慌てたように声をあげた。
「困るだなんてそんな! 勇者様が嫌でなければ、ぜひ召し上がってください」
「君は優しいな。ありがとう!」
「あ……、いえ……っ!」
とびっきりの笑顔で礼を言えば、女性は頬を染めて店の奥へと走っていった。ちょろい。
近くの空いている席に適当に座ると、女性はおしぼりを持って戻ってきた。
「あの、メニューは……」
「ああ、君のお勧めが食べたいんだ。頼めるかい?」
「は、はい……!」
小首を傾げて注文すると、ぽぽっとまた頬を染めた女性が胸元で指を組んで、こくこくと頷いた。
女性は注文を伝えに、また店の奥へと戻る。
私たちの様子を見ていた村人たちは、女性の姿に苦笑をもらしつつも問題ないと判断したのか、徐々に自分たちのテーブル内での会話に戻っていった。
「お前もやるなー」
「……女の子を口説くのは苦じゃないからね」
けらけらと笑う悪魔に、周りに聞こえない程度の声量で返す。
旅の途中、水で反射した勇者の顔を見て、今の自分の顔が整っていることは把握していた。この世界での美醜の基準は分かっていなかったけど、あの女性の反応を見る限りそう違いはないだろう。ならば、使えるものは使うべきだ。
「お、おまたせしました」
「ああ、美味しそうだ。ありがとう」
「い、いえ……! また何かありましたらお声かけください!」
にっこりと微笑めば、女性は頬に手を当ててまた店の奥へ戻っていった。にやけた顔が隠せていないその姿は、かつて推しの声優の握手会に行った自分を思い出す。
きりっと良い顔をしたいのに、緩む口角はどうしようもないんだよね。わかる、わかる。
生温かい目で女性を見送り、テーブルに並べられた料理へと視線を移した。
テーブルには、野菜がごろごろと入ったスープと、ソーセージのようなものが数本、そしてコップに入った飲み物が並んでいた。
プロートン村でも食べたことのある料理で安堵する。この世界の料理をよく知らないし、文字も分からないからお勧めを頼んだのだけど、それで正解だったようだ。
「いただきます」
「いただきまー」
どうせ言うなら最後まで言えばいいのに。
私の視線なんかまるで気にしていない悪魔は、私の影になって村人には見えない位置でソーセージに齧り付いていた。
悪魔の姿は他の人には見えないようにしているため、見られてしまったら少しずつソーセージが齧られていく怪奇現象になってしまうのだ。
がつがつと食べる悪魔は小動物のようで可愛い。中身はあれなのに、ずっと見ていられる可愛さだ。
……っと、いけない。このままでは悪魔に全部食べられてしまう。
スープを口に含めば、優しい味が口の中に広がった。番台が勧めて、給仕の女性がお勧めだと持ってくるわけだ。美味しい。
念願のお風呂にも入れて、美味しい食事にもありつけて、久々の幸せに浸っていたときだった。
「……知ってるか? あの話」
「近くの村が襲われたって」
「人狼だって噂だ……」
隣のテーブルから聞こえた声に、思わず食事の手が止まった。
人狼が、近くにいるらしい。
ゲームをあまりやっていなかったから、人狼というのがモンスターとしてどの程度のレベルなのか、私は知らない。スライムより上で、魔王より下なのは分かる。その程度だ。
だけど、これだけははっきりと理解している。今の私では、確実に負けるということが……。
「……っ」
ああ、いやだ。巻き込まれたくない。こんなところで死にたくない……っ!
さっさとこの村を出てしまおう。泊まるのはなし。少しだけ食料を買って、そのまま村を出よう。
人狼がいつどこに現れるのか分からないけど、村を襲う人狼ならば野宿している方がまだ良いだろう。
残ったスープを全て煽り、悪魔の食べている途中のソーセージまで全部口に入れて飲み物で流し込んだ。悪魔の文句は聞こえなかったフリをして、先程の給仕の女性に声をかける。
「いくら?」
「あ、えっと、500ゲインです」
……聞いたはいいけど、ここのお金よく分からないんだった。
女性にコインの入った袋を渡して、取ってもらおう。困惑してるけど、私が動かないから女性も渋々袋からコインを取った。
「ありがとう。美味しかったよ」
女性の返事を聞く間も惜しいと食事処から飛び出した。
「く……くくっ! お前、焦り過ぎだろ」
悪魔にとっては今の私の行動はさぞ滑稽だろう。ソーセージを奪っても文句程度で済んでいるのが証拠だ。私の心を読んで、どう動くのかニヤニヤしながら待っていたに違いない。
ああ、もう……っ! 本当にむかつくっ!
「ところで急いでるけどよー。どこで食料買うんだ?」
ぴたりと足が止まった。
「あーもうっ! ちくしょう!」
聞いとけばよかった!
ガシガシと頭を掻いても憂さは晴らせない。焦り過ぎた。適当に走っていたから現在地も分からないし、さっきの店への戻り方も分からない。
仕方ない。誰か村人に聞こう。そう思って顔を上げたときだった。
「人狼だーっ!」
「逃げろーーっ!」
「きゃあああああ!」
……。
来るの、早いよ……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます