創生記

深澄

第1話

見奈美由紀乃みなみゆきの


 私の好きな歌手が、小説を出した。いや、正確に言うと出す。今度の五月だそうだ。


「ふざけんなよ」


 私は呟いた。鷹橋たかはしよる、という名の彼の、小説の発売を報告するツイートを見た瞬間だ。半年ほど前から活動を休止していたのはこのためなのだろう。


 なぜ、小説? 歌手なんだから、歌、出してよ。前のアルバムから一年たって、シングル一枚すら出してくれない。今ある曲は飽きるほど聞いた。あなたの新しい曲を私はずっと待ってるのに。


 だけど、違う。私の本心はきっと違う。ファンとしての純粋な戸惑いや怒りが、一生推せると思った歌手に向けての暴言を吐かせたんじゃない。私はもっと醜かった。


 私は彼に、途方もない劣等感を抱いたのだった。


 どうして、よりにもよって私の分野に入ってきた。どうして、曲も書けて、小説まで書けるんだ。どうして、神は彼に二物以上を与えてしまったのだろう。音楽の才能だけでいいじゃないか。どうして? ずるい。憎い。羨ましい。神様は、私には何も与えないのに……こんなにも小説を書きたい私に。


 巡る思いとは裏腹に、私の指先はツイートに貼られたリンクをタップする。画面は一瞬の空白ののち、書籍の購入予約サイトに切り替わる。


 どんなに腹が立って苦しくても、読まないわけにはいかなかった。彼の作り出すものが、彼を知ることのできる唯一の術だったからだ。彼がどんな人間なのか。何を考えて生きているのか。何を好み、何を嫌い、何に執着し、何に囚われ、そういうことの全てを私は知りたかった。


 恋をしているのかもしれない。ファンとしては重すぎるのかもしれない。私は恋のなんたるかすら知らないから、このどうしようもない焦燥や高揚がそれなのか、確信など持てないけれど。


 あぁ、それが私の敗因なのだろうか。私の二作目が鳴かず飛ばずに終わったのは、恋を知らないからか。


 デビュー作は好調だった。新人賞を獲り、どの書店でも大々的に宣伝された。私の名前や書籍がない本屋はなかった。色とりどりのポップと「稀代の新人」の売り文句に飾られ、書店のど真ん中に陣取る私の書籍たちは、まるで何かを祭り上げる神殿だった。重々しく輝いていた。私も、涙が出るほど嬉しかったのだ。


 二作目では恋愛の要素を入れた。その方が売れると思ったからだ。編集者の反応は悪くなかったはずだ。何度も修正を繰り返して、壮大な恋と冒険の物語を紡いだ。そのはずだった。編集者が感覚を誤ったのか。原因はなんであれ、今の私は、二作目が売れずに消えていくただの一発屋だった。


 きっと私の心底好きな歌手の小説は、彼のもとある人気も手伝って大ヒットとなるだろう。そうして二作目を出せば、それだって前作を上回る売上を記録する。私のことなど認知もせずに、歌手としてだけでなく、小説家としての名声も掴んで鷹橋よるはどんどん人気になるのだ。


 羨ましい。ずるい。ひどい。憎い。だけど愛おしい。好きで好きで仕方なくて苦しい。知りたい。彼の全てを知りたい。彼に勝ちたい。負けたくない。超えられたくない。私のデビュー作より売れないで。


 ぐちゃぐちゃになった感情を、私は古びたペンで紙に記す。そうして全ての感情を紙に吐き出せば、私は糸が切れたように眠る。そんな毎日を繰り返していた。バイトは遅刻を繰り返し、きっとそろそろクビになる。三作目は書けないままだ。



[鷹橋よる]


 初めて小説を書いた。自分の以前書いた曲をもとに膨らませたストーリーを、拙いながらも一遍の小説にまとめた。タイトルは曲と同じだ。


 『歯車ダンス』。僕らは社会の歯車で、神様の掌で踊らされて、それでも僕らは自由になりたくて、自由に生きたくて。


 そんな歌。僕が初めてユーチューブにアップした曲だ。かなり主題は暗いし、ただ僕の内心を吐露しただけだし、曲の構成も今考えれば改善の余地だらけだ。だけど、なんとなく作ったこの曲に、顔も見えないたくさんの人々が高評価を、コメントをくれた。世の中の全てにやる気を失っていた当時の僕は、そうしてやっと少し上を向けたのだ。


 だけどもちろん、小説なんて書いたこともない。そう簡単に書けるものではなかった。読んだ経験すらあまりないのだ。書き方を調べ、昔好きだったネット小説を読み返し、話題作を読み漁り、勉強するところから始めた。


 結局、小説を書こうと決めた数ヶ月後に、僕は半年間の活動休止を発表した。小説のことは言わず、〈初めての挑戦のため〉と伝えたのは、ファンが離れてしまうことが怖かったからだ。それでも、活動休止くらいしないと、きっと僕は作曲を理由に小説を諦めてしまう。一度やろうと思ったことを、途中で投げ出すのはもう嫌だった。


 まずは登場人物。そこからプロットを決めていく。何度も書き直した。行き詰まるたび、片っ端から小説を読んだ。


 その中に、凄い作品があった。


 見奈美由紀乃という人の『ひと夏の』。デビュー作らしい。彼女の精緻な表現は、小説だけでなく作詞をするにおいても、憧れないわけにはいかなかった。五感をさりげなく、でも確かに刺激する美しいことば。風の描写は草の匂いを運び、雨の描写は涼しく湿った空気を纏う。


 どうしたらこんなものを書けるのだろう。最初に感じたものは憧れだった。それは自分が書き進めるにつれて悔しさに変わった。しかし、同時に高揚してもいた。


 書きたい。これほど正確に美を描けることばを使いたい。


 久しぶりに感じた、たぎるような情動だった。中学三年の夏休み、はとこのバンドのライブを見に行った時を思い出す。メジャーデビューを記念したライブだった。あの腹の底からの高揚。それを感じさせるようなミュージシャンに自分もなりたいと、あの時思った。まぁ、親は今の僕の仕事をよく思ってはいないのかもしれないけれど。


 ……それはともかく、小説の発売はもうすぐだ。新曲もそろそろ発表できる。一年間も待たせてしまった分、落胆させないようなものを作ったという自負はあった。


「ライブ……」


 小さな呟きが落ちる。そうだ。アルバムができたらライブもやりたい。前のアルバムの時には出来なかったけれど、今ならできるかもしれない。全国を回るんだ。小さい会場で構わない。


 新たな目標は鼓動を速める。僕は口の端に浮かんだ笑みをそのままに、暖かなふとんで目を閉じた。



[見奈美由紀乃]


 ガクン、と脚が跳ねて目が覚めた。ゆっくりと身を起こす。机に突っ伏して寝てしまったから、身体のあちこちが強張って痛い。私は大きなあくびと伸びをする。時計はすでにお昼前を指していた。頭を掻きながら立ち上がる。


 あれ、昨日はお風呂入っ……て、ないか……。


 ため息はシャワーで洗い流し、濡れた髪をタオルで巻いて適当な食事を作る。冷凍してあった米と塩胡椒で味つけした卵焼き。毎食同じものを食べている気がするけれど、気のせいということにしておく。


 朝食と昼食の間のようなものを食べながら、今朝見た夢のことを考える。何か素敵な夢を見たはずだ。潮の香りと湿った風。……漆黒の長髪と褐色の肌、それを彩る派手な刺青。彼は……そう、船乗りだった。彼は、彼を見ていた私は、どんな人たちなんだろう。……そうだな、世界一周を目指して旅をする、なんてどうだろう。いや、伝説の秘宝を探す海賊でもいいかもしれない。それとも——。


 ガシャン。手から茶碗が滑り落ちた。乾いた米粒が散乱する。


「はぁぁぁぁ……」


 ちゃんと生きなくては。それはわかっている。いつまでも稼ぎもなしに生活できるほど、人生は甘くない。書けないのならさっさと見切りをつけた方がいいのだ。まだ間に合う。今からなら何とか正規雇用をもらえるかもしれない。だけど、学校にすら順応できなかった私に、会社勤めなんかできるわけないよなぁ……。


 ヴーッとかすかなバイブ音がした。床に落ちているスマホからだ。なかなか止まらないので電話だろう。うめき声ともため息ともつかないものを吐き出しながらそれに目をやると、黒い画面に親友の名前が白抜きに浮かび上がっている。なぜこんな真っ昼間に、と思ったけれど今日は日曜日だった。緑色の応答ボタンをスライドすると、元気すぎる彼女の声が鼓膜を揺らす。


「よーっ、ゆきの! 生きてるか?」

「沙月……おはよ」

「おいおい待って、今? 今起きたの?」

「そー」

「うわっ、自堕落だねぇ」

「うるさいなぁ」


 気怠げに言いながらも、私は重かった身体が一気に軽くなるのを感じていた。沙月はすごい。いつも私が闇に呑まれているときに限って電話をくれる。もしかして見張られているのかと思うほどだ。カウンセラーだから、そういう心理状態に敏感なのだろうか。いや、会っていないのにわかるわけもないか。


「……あのさ」

「お、どした? お悩み? 特別に無料カウンセリングしてやろっか」

「んふっ、いつでも無料じゃん。あのね……私さ、小説家、辞めようかなって」


 鼻の奥がツンとして、喉が痛くなった。声が潰れる。沙月はしばらく黙り込み、やがて言った。


「あんたがそれでいいならいいんじゃない」

「うん……」

「ふ、よくなさそうな声してんじゃん」

「ね」


 ふふ、と私は掠れた笑い声を上げる。


 辞めた方がいい。生きるためには働かなくてはならないのだから。小説家として生きる道は夜の闇に閉ざされ、月光すら雲が隠して暗い暗い影を落としている。かと言って就職の道には動かし難い大きな岩がいくつも横たわっているのだった。


「書けないの?」

「うん」

「そっか」

「……うん……あのね。二作目が、ぜんぜん売れなくて。昔聞いちゃったんだよね。デビューしても二作目が売れなければ小説家にはなれないって。だから……だから、っていうのは言い訳みたいだけど、書いても書いても面白くなくて。書けなくなってきて」

「そっか」

「……だけど書きたいんだ……」


 その一言が唇から零れた。零れたことに驚く。そうか、私はまだ書きたいのか。


「そりゃそうでしょ。小説家になるんだって、中学の修学旅行の時から言ってたんじゃん。叶えられる夢は叶えときなよ」


 沙月は明るい声で笑った。その声には本物の喜びが宿っていて、私は少し泣きそうになる。どうして沙月は、私なんかにこれほど寄り添ってくれるのだろう。自分ごとのように悩み、喜んでくれるのだろう。私にそこまでの価値があるとは思えないのに。決して同じだけのものを返せないのに。


「ゆきの、あんたなんか変なこと考えてない?」

「へ?」

「黙り込んでるから。また自分の価値がどうとかぐちゃぐちゃ考えてるんじゃないの」

「……なんでわかっちゃうかな……」

「あっはは! 何年の付き合いだと思ってんのよ。……別にさ、難しく考える必要なんかないよ。書きたいなら書けばいい。もし立ち行かなくなったら私が雇ってあげるし」

「いや、沙月も雇われでしょ」


 確か色々な学校や企業のカウンセラーを掛け持っているはずだ。カウンセラーは給料が安定しないため掛け持つ人が多いらしい。「精神安定の重要性もわからんやつが給料決めんの、意味わかんなくない?」とは、働きはじめたばかりの沙月の言葉だ。


「大丈夫、あんたが生き詰まるまでに独立して雇えるようにしとくから」


 自身ありげな沙月の声に、私は笑う。


「ふふ、ありがとう。楽しみにしてる」

「楽しみにすんなって。夢、大切にね」

「うん」


 また飲みに行こう、と話して電話を切る。誰かと話すのは久しぶりだった。バイト先の人たちは皆、私をほとんどいないもののように扱う。挨拶だけして、あとは話しかけてこない。触らぬ神に祟りなし、と言わんばかりだ。まぁ、上っ面の人付き合いは苦手だから良いのだけれど。とはいえずっとひとりで黙っているのも身体に悪い。定期的に沙月から来る電話は、酸欠になっている私の世界に爽やかな風を吹き込んでくれるのだった。


 書こう、と口の中で呟く。書けないなんて言っている場合じゃない。書かなくては。私は小説家になるのだ。


 数日ぶりにパソコンを開いた。空白が眼前に広がる。大きく息をする。


 書くんだ。



[鷹橋よる]


「みんなさ、ライブやるってなったら来たい?」


 インスタライブでそう呼びかけてみると、一斉にコメントが返ってくる。


〈行きます!!!!!!〉

〈え、ぜったいいく〉

〈やるんですか?!?いつですか!!〉

〈仕事休みます!〉


 スマホが熱くなり、カクカクとした動きでコメントが流れていく。サーバーがパンクしないか心配になるほどの勢い、とまでは大げさだろうか。僕は嬉しくなって笑ってしまう。


「うははっ、すげぇ、めっちゃコメント」

〈そりゃそう〉

〈よるさん人気自覚して〜〜〉

〈四国きてください!〉

〈たまにあるよるさんの言葉遣い乱れる瞬間めっちゃすこ〉


「いやぁ、ありがとうね。長いこと休んじゃったから、次のアルバムできたらライブやりたいなーって思っててさ。まだ何も決まってないんだけど」

〈アルバム!!!〉

〈小説予約しましたよ〜〉

〈グッズ作ってほしい!缶バッジほしい!〉


「あーっいいね、グッズ作りたいね。何がいい? どういうのが需要ある?」

〈リストバンドほしい!〉

〈ステッカースマホケースに入れたい〉

〈ラババン!〉

〈タオルは必須〉


「おーなるほどなるほど。うわぁ、いいな、楽しみ」


 画面をスクロールすると、僕一人ではとうてい思いつかないようなアイデアが溢れてくる。ライブに来たい、グッズが欲しいと言ってくれる人はこんなにもいたのか。これならライブハウスでのワンマンライブは、ツアーでやれる。もしかすると、ホールでもいいかもしれない。それなりの利益を上げることもできるだろう。


「よし、じゃあライブはちゃんと固まったら告知します……あぁ、いや、その前にアルバムか」


 はは、と笑いながら僕はギターを抱える。適当に爪弾くと、コメントが沸く。いつも、インスタライブは一曲弾き語りをして終わるのだ。


〈おっきた!!〉

〈きたぁぁ〉

〈何歌いますか?〉

〈歯車聞きたい!やさぐれよるさん!!〉


「ふはっ、やさぐれよるさんって。おもしろすぎる……」

〈ツボってて草〉

〈やさぐれくらいで笑ってくれてありがとうございます(?)〉


 しばらく「やさぐれ」という言葉に笑ってから、僕は曲を決めた。


「はは、笑いすぎたな。……じゃあ今日は、歯車にします。再開一発目だしね」


 弾き慣れたイントロを、少しゆったりとしたテンポで奏でれば、考えなくても唇が勝手に歌ってくれる。心地よい。自分の世界に包まれるような、守られているような気分になる。


 音楽は、僕の全てを肯定してくれる存在だった。小さい頃から音楽は何でも聴かせてもらえたし、誕生日プレゼントにはいつだってⅭⅮをねだった。クラスの子がみんなやっていたゲームも、好きなアーティストのライブのためなら諦められた。そんな子どもだったから、友達の話題にはついていけなかったし、子どもとは正直で残酷な生き物で、あからさまに仲間はずれにされるまでに長くはかからなかった。


 中学に入る頃には、音楽を聴き歌詞を読むことのほうが、学校で教え込まれる画一的で退屈な常識より、よっぽど重要に思えていた。作詞や作曲はその頃、小遣いをためて買ったギターを使って始めた。僕が音楽に籠るのと学校の居場所をなくしていくのは、卵と鶏の議論のように、どちらが先かなどわかりえない。


 中学は二年になるころからは、ほとんど行かなかった。父は黙って見守ってくれたが、母はなんとかして学校に行かせたいようだった。何度も話し合って(当時は話し合いより説教だと思っていたけれど)、勉強の重要性を言い聞かせられた。しかしそんなもの、反抗期の少年に響くはずもない。


 僕を救ったのは、やっぱり音楽だった。父のいとこの息子、僕のはとこにあたる人が、組んでいたバンドでメジャーデビューしたらしい。そのライブチケットを貰ったから行ってみないか、と父は言った。会ったことも曲を聞いたこともない、はとこのライブ。そこまで興味はなかったが、結局行くことにしたのは、どの程度ならデビューできるのか知りたいと思ったからだ。しかし、そんな傲慢な考えは、すぐに打ち崩されることになる。


 すごいライブだった。腹に響くドラムの音、ギターは決して優しさなど持たず、脳を溶かすようなベースに、全てを包み震わすボーカル。初めて聴く曲ばかりなのにこれほど高揚させられるのは、彼らの天性のものなのだろうか。「ミューズ」というグループ名の通り、音楽の神に愛されているとしか思えない。


 メロディも歌詞もたぎる感情も、いつまでも頭の中で鳴り響く。僕もあんなミュージシャンになりたい。バンドをやりたい。


 父に言うと、「いいじゃないか」と笑った。その目には薄く涙が膜を張っていて、心配をかけていたことを、その時初めて、痛みとして受け止めた。


「ただし、条件がある」

「え……何」

「高校には行きなさい」

「……行かないならバンドはやらせないって?」

「そこまで言うつもりはないけどね。通信制でもいい。勉強はしておくべきだよ。夢が叶わなくとも身を助けてくれる」

「叶わなかったの?」


 ふと尋ねてみると父は少し驚いたような顔をして、眉を下げて頷いた。


「未練はもうないけどな。だから、お前が音楽で食っていきたいと言うなら応援する」


 それから僕は半年で中学の英語と数学を詰め込み、通信制の高校になんとか合格した。同時にバンド募集サイトでベースとドラムを探す。自分の書いた曲を送り、良いと言ってくれた年上の男女に会った。いかにも、といった派手な髪色に、黒地にスタッズやチェーンを用いた服、ピアス穴だらけの耳。そんな二人と対照に、僕はあまりにも地味だった。少し気後れしてしまう。関係を知らない人からすれば、僕が二人に何か弱みでも握られているように見えたかもしれない。


「……はじめまして。夜です。ギター弾き語りと、作詞作曲やれます」

「あたしはルカ。ベースね」

「俺はドラムのリック。よろしくな」


 全員がサイトのユーザーネームで名乗る。本名は最後まで知らなかった。それでも僕たちはすごく気が合った。好きなバンドもやってみたいサウンドも似ていた。はとこのバンド、ミューズの話をしてみると、二人とも頬を紅潮させた。僕たちはその日のうちにバンドを組むことを決め、活動を始めた。僕が曲を書き、二人とともに改良していく。貸スタジオに引きこもり、一日中練習した。あの三年間で書いた曲は、今でも歌えるし僕の大切な基盤になっている。


 また会いたいな。喉の奥で想いが弾ける。今歌っているこの曲、『歯車ダンス』は、二人に聴いてもらわずに公開した初めての曲だ。二人は聴いてくれたんだろうか。喧嘩別れのようになってしまったから、連絡などできなかったけれど。名前を「夜」から「よる」にしただけだから、もしかすると気づいてくれているかもしれない。


 アウトロに少しアレンジを入れて終わる。


「みんな、今日もありがとう。またそのうちやるから告知見ててね。それじゃ、おやすみ」

〈おやすみなさい!〉

〈お疲れ様でした〜!〉

〈ありがとうございました!!〉


 流れるコメントをしばらく眺めてから、僕は配信を切った。



[見奈美由紀乃]


 パソコンのキーボードの音。私のため息、咳払い。静寂が支配する部屋。近くの小学校で練習中らしい運動会の太鼓が、締め切った窓を貫いていた。


 間抜けなスマホのアラームが空間を歪める。肩をびくりと震わせて、私は画面の停止ボタンを押した。バイトに行かなくては。立ち上がりかけたが、パソコンをシャットダウンしていないことを思い出す。慌てて座り直そうとして、脚が絡まって、転んだ。


「チッ……」


 思わず舌打ちをする。小説を書いた後はいつもこうだ。頭がふわふわとしてうまく身体を動かせない。夢から覚めたような、幽体離脱から帰ってきたような、曖昧な覚醒状態がしばらく続く。この感覚を私は愛しているけれど、バイトをするには最悪だ。


 髪をとかして化粧をし、空かない腹に昼食を詰め込む。歯を磨きながらふと思った。このぼんやりした感覚、久しぶりだ。あまりにも書けない時は、ただ苛々悶々とするだけで心地よさなど欠片もない。書けないのにパソコンの前から動けなくて、根が生えたように座り込み、数時間経つことも少なくなかった。もしかしたら、あれから多少は前に進めているのだろうか。


 自転車を飛ばしてバイト先のハンバーガー屋に向かう。鮮やかな五月晴れの空に、白く輝く雲が広がっている。五月上旬とはいえ、運動不足の身体は悲鳴のように汗を噴き出した。太陽をまともに享受することなど、バイト前の今くらいだ。暗い人間は太陽を嫌うというけれど、私はまさにその典型と言える。散歩に行くなら日が暮れてから。日中はカーテンを閉め切ってしまう。私には眩しすぎるのだ。


「おはようございます」


 スタッフルームはいつも通り、必要以上に冷房が効いていて、汗が一瞬にして冷える。同時に部屋の空気も、一瞬凍った気がした。賑やかにお喋りに興じていた他のバイトたちが、ぴたりと口をつぐむのだ。「はざまーす」などと適当な挨拶を返し、会話を再開するまでの時間は、彼らの中では何ということもない一秒だとしても、私には無数の氷の矢だ。いっそ気づかないでくれればいいのに。バイト先が変わっても、私に話しかけようという物好きはいない。


 沈んでいく心をなんとか引き留めようと、深呼吸をしながら服を着替える。去年の今頃発売された鷹橋よるの小説、その一節がなぜか浮かんだ。


 ——神様なんていない。いるのは僕らだけだ。神様なんてものに人生を決められてたまるか。才能とか向いてるとか向いてないとか、そんなことどうでもいい。僕は自分でこの道を選んでやるんだ。


 読んだ時、羨ましい、と心底から思った。神様をいないと言い切れることが。自分をここまで信じられることが。鷹橋よる自身がそうだから、こんなものが書けるのだろうか。私にはとうていできない。神という、才能という逃げ道を自ら閉ざす強さは、私にはない。


 才能という言葉は言い訳だ。もちろん本物の天才はいる。しかし、実績を残した人の多くは、才能より努力でできている。自分が大成しないのは、才能がないのではない。努力不足だ。もしくはやり方が違うだけだ。だから、才能などなくても諦める必要はない。工夫し、努力すればそれは必ず報われる。一見希望を持たせるような『歯車ダンス』のストーリーはしかし、私を深く深く抉った。


 どうやってこれ以上努力すればいい。私のやり方の何が間違っていると言うのか。


 三作目は書いた。四作目も執筆中だ。が、全く楽しくない。おもしろいと思えない。自分すら楽しめないものが、他の人を楽しませるわけはなくて、やはり二作目と同程度しか売れなかった。


 やめたくない。負けたくない。私は小説家なのだと、胸を張って言いたい。去年は小説家を辞めようか、と真剣に考えていたっけ。その時言われた、「叶えられる夢は叶えときな」という沙月の言葉を、思い返すうちに気づいたことがある。


 私には家族がいない。父は私が生まれてすぐに母と離婚して音信不通だし、母は数年前に病気で死んだ。兄弟もいない。恋人もいない。つまり、養わなければならない人はいない。私が死んで悲しむ人も、ほとんどいない。沙月くらいだろう。


 そう、今後全く小説が売れずに生き詰まることになれば、その時は何のためらいもなく死ねばいいのだ。小説家になれない人生に、用はない。


 ……あぁ、ここまで思っているのに、どうして神は、私に何も与えなかったのか。才能さえあれば。『歯車ダンス』の歌詞の通りだ。私たちは、神様の掌の上で踊らされている。醜く、無様に。鷹橋よるは、天より高いその舞台から飛び降りたのだろうか。それとも、もともと美しく舞わせてもらえる人だったのか。


「……さん、南さん」

「……えっ、と、私、ですか」


 誰かが私に声をかけた。名字で呼びかけられるのは久しぶりで(私の名が呼ばれるのは、沙月と電話するときくらいだ)、反応がひどく遅れる。声の主をまじまじと見つめてしまった。確か、田端さんという先輩だ。おそらく私よりわずかに年上。研修をよく担当してもらっていた。研修は半年前に終わっているのに、何の用だというのだろう。


「ふふ、やっと気づいた。もうミーティング始まりますよ」

「えっ、あっ、ほんとだ。すみません」


 にこやかな田端さんの言葉に少し冷や汗をかきながら、慌てて彼女とともに部屋を出る。隣を歩き始めてすぐに後悔した。静寂で気まずくなることは目に見えていたのに……。


「南さんて」


しかし、突然田端さんが口を開いた。


「……はい?」

「鷹橋よる、好きですよね?」

「なぜ」


 なぜ知っているのか。話したこともないのに。それに、そもそも「好き」という言葉で表せるほど単純な心ではない気もする。


「この前口ずさんでたので。けっこう初期の曲」

「えっ……嘘、いつですか? 仕事中?」

「クローズ作業してる時だったかな。失礼かもしれないけど、この人も鼻歌とか歌うんだ、ってちょっと安心しました」

「それは……」


 怒りはなかった。事実私はあまりにも親しみに欠けた人間だから。それよりも、自分が無意識に鼻歌を歌っていたらしいことにひどく驚いた。そんなことが自分にもできたのか、と。一体何を歌っていたのだろう。明るい曲だとしたら、柄じゃないにも程がある。暗い曲なら……でも、それならこれほど驚かれはしないか。


「ごめんなさい、怒った?」

「え? いえ……」


 なぜいつも怒っていると思われるのだろう、とうんざりしながら答える。黙り込むのではなく、会話を繋げるべきだったのかと気づいたのは、家に帰ってからだった。


 次の週、再び田端さんとシフトが被った時、私はなけなしの勇気で声をかけた。心臓が口から飛び出してどこかに行ってしまったかと思うほど、緊張していた。


「あの、えっと、田端さんも、お好きなんですか。鷹橋よる」


 目の前の女性の名が本当に「田端」だったか、と急な不安に襲われつつ、しどろもどろに尋ねる。田端さんは少し驚いたように笑った。


「そうなんです! 新アルバムも買っちゃって」

「あぁ、そうなんですね」

「ライブ、やるんですかねぇ」

「あぁ……」


 そうだ、去年の今頃、インスタライブで言っていた。


 ——次のアルバムできたらライブやりたいなーって。


 忘れるわけがない。当然行く、とコメントはしたが、人混みが苦手なことは都合よく頭から追い出していたようだった。明らかに陽の気しか感じられないイベントに、私は行けるのだろうか。


「ねぇ、南さん、よかったら一緒に行きません?」

「何にですか?」

「え、ライブライブ。もしやるんだったら、一人ずつで行くのもなんだし」

「え……」


 ちょっと待ってほしい。こんな展開は予想外だ。ライブに行けるかどうかをそもそも心配しているのに、それに他人と一緒に行く? 疲労で数日は寝込むだろう。


「ちょ、ちょっと考えてもいいですか? 人といるの、苦手で」

「えっ? え、あぁ、もちろんです。ごめんね、急に誘っちゃって」

「いえ、こちらこそ、すみません」


 仕事中、私はまたしても大きな過ちに気づく。「人と一緒にいるのが苦手」なんて、間違っても人に言ってはいけなかった。絶対に傷つけた。


 あぁ、どうして。どうしてこれほど、会話が下手なのだろう。人の気持ちを慮れないのだろう。小説が面白くないのもこれが原因なのだろうか。だとしたら、一生無理だ。こればかりは、努力でどうにもならない。


「はぁぁ」


 私は大きくため息をつき、心の中で頭を抱えた。もう一度田端さんに話しかけて謝る勇気は、もはや持ち合わせていなかった。



[鷹橋よる]


 アルバム制作と並行して、僕は数人のスタッフとともにライブ準備を進めていた。しかし、ライブの準備というのは、思っているより大変だ。会場とスタッフの確保、プロモーションの準備に、セットリストや演出を考えて、グッズも制作する。そして何より、バンドを探さなくてはならなかった。普段はパソコンで音楽を作る。ギターは弾けるけれど、ベースやドラム、キーボードはさっぱりなのだ。


 出演者が決まらないと、演出も何も決められない。しかし僕は、いつまでもバンドを決めあぐねていた。


「よるさん、バンド、まだ決まりませんか?」


 スタッフの一人が、電話の向こうで控えめに尋ねる。カップラーメンのスープを喉に流し込みながら僕は唸った。


「すみません、まだ……。そろそろやばいですよね」

「そうですねぇ……」


 それまでは「まだ大丈夫」と言ってくれていたスタッフも、いよいよ否定しなくなってくる。僕のファン層は学生が多いので、ライブをやるなら夏休みがいいと考えていた。確かにもう決めなくてはならない。


 実は僕は、準備を始めてすぐに、二人にラインを送っていた。かつてバンドを組んでいた、ルカとリックだ。返信はまだ来ない。せめて返信が来てから、と思っていたが、そろそろ諦めるしかないだろう。小さくため息をつきつつ、無意識にラインを開く。


 通知が来ていた。


 目を見開く。〈リック〉という太字の下に浮かぶ、薄く細い文字列に視線を走らせる。


〈とりあえず、会えるか?〉


 僕が送ったメッセージと比べてあまりに簡潔で、少し拍子抜けする。既読をつけようか一瞬迷うが、すぐに返信することにした。メッセージが届いたのはたった今。もしかすると、まだスマホを見ているかもしれない。


〈ありがとう。こっちはいつでも都合つけられるよ。リックは?〉


 送った途端に既読がつき、僕は思わず声を漏らす。


〈じゃあ今日の一五時に、渋谷のサンマルクで〉

〈わかった〉


 時計を見る。一三時半過ぎ。リックに会うならそれなりの格好をしなくてはならない。慌てて着替えとヘアセットを済ませ、僕は家を飛び出した。


 土曜の渋谷はやはり人間で溢れていて、冬場にも関わらずその熱気に息が詰まりそうになる。最近人に会っていなかった僕は、マフラーに顔をうずめる。雪空の下、人が車を轢いているスクランブル交差点を渡り、渋谷一〇九を通り過ぎてビルの中に入った。


 サンマルクカフェを覗くと、窓際の二人席に、視線が惹き寄せられた。黒光りするヘッドホンを首にかけ、真っ黒なコートを身につけた銀髪の男。スマホを操作しながらコーヒーを啜る。


 リックだ。


 一目見てわかった。服装は少し落ち着いたが、雰囲気はかつてのままだ。背が高くて一見威圧的。しかし、目を見れば優しさがにじむ人。胸が高鳴る。何年ぶりだろう。高校を卒業してからは会っていないから、十年弱だろうか。


 ホットコーヒーを一つとチョコクロワッサンを二つ、レジで注文してから彼のもとに向かう。声をかける前に小さく息をつく。あれほど濃い時間をともに過ごした人に会うにしては、滑稽なほどに緊張していた。


「リック」

「夜」


 リックはぱっと顔を上げ、僕を認めると目を細めた。


「久しぶりやな」


 心地よい低音の関西弁。泣きそうになる。十年前に引き戻されたような気がした。


 僕はいつも、リックに歌ってみてほしいと言っていた。どの男性歌手よりも、リックの声が好きだった。


「久しぶり。会ってくれてありがとう」

「別に。……なぁ、お前チョコクロ二個も食うんか」

「いや、まさか。君にあげようと思って。好きだったよな? これ」

「なんで?」

「お礼。会ってくれるとは思わなかったんだ」


 いらないなら二個食べるけど。


 そう言いながら包みを彼の前に押しやると、リックは黙って僕を見つめた。見つめ返したときに気づく。


「あれ、カラコンやめたの?」

「さすがにな。もう三十やし、そろそろイタいやろ」


 遠い目をして笑うリックに、わずかな寂しさを覚える。そうか、十年。十年は長いのだ。人が変わるには、長すぎる。


「お前は変わらんな、夜。相変わらず、地味や」

「うっ、うるさいな。多少はあか抜けただろ。君こそ、髪色は派手なままなんだな」

「それはええねん。カラコンよりマシや」

「いや、逆だろ」


 リックが明るい声で笑う。僕もつられて笑った。


「ほな、これはもらうで」


 リックは、チョコクロワッサンにかぶりつき、「熱っ」と呟いた。僕はコーヒーを口に含む。躊躇い、何度か口を開いては閉じ、ようやく僕は言った。


「それで、あの、考えてくれた?」

「……もう本題入るんか。早ない?」


 リックが真顔で見上げるので、僕は慌ててしまう。


「え、ごめん。じゃあ」

「いやええよ、素直か。ほんで?」

「……えっと、ラインで言った通りなんだけど、ライブのバンドに来てくれないかって話」


 読んでいないわけはないだろうに、と思いつつ僕は続けた。


「バンドって考えたら、僕は君たちしか思いつかないんだ」


 チョコクロワッサンを平らげたリックは、無言で手についたパンくずを拭き取る。しばらくして言った。


「結論から言うと、ごめん。それはできへん」


 心臓が刺されたかと思った。予想していたとはいえ、これほど痛いとは。


「一応、理由聞いてもいい?」

「キツいかもしれんで」

「いいよ。聞かなかったらたぶん後悔する」


 口の端に笑みを浮かべて、リックはゆっくりと話し出した。


「お前がラインくれたの、だいぶ前やろ? その後、ルカに会うてきてん」


 僕は目を見開き、息を呑んだ。


「……まだ、怒ってた?」

「お前が俺らから離れたことにはもう怒ってへんかったよ。でも、何を今さら、とは言うてた」

「……」


 何を今さら。


 その言葉を吐き捨てるルカの表情が、ありありと浮かんだ。


 もっともすぎる言葉だった。二人から離れたのは僕だ。そこにどんな理由があれ、もう一度彼らと音楽をやる資格は、僕には——。


「正直、俺もそう思う。それに、ベースだけ別のヤツを連れてくるとか、そんなんは嫌やろ」

「……うん。そうだな。ごめん」


 僕の口にした謝罪は、受け取られることなく宙に漂う。いたたまれなくなった。


「……ルカがな、言うててんけど」


 沈黙の後にリックが伝えたルカの言葉は、ルカの声、ルカの口調で僕の鼓膜に触れる。


 ——夜、なんでバンド辞めるのか、言ってくれなかったでしょ? あたしはずっと、それに怒ってたんだ。納得はできなくても、言ってくれれば受け入れられたかもって思う。


 そうだ。僕は理由も言わずに二人から離れた。言い訳をするなら、「言わなかった」のではない、「言えなかった」んだ。だけど、そんなこと、二人には知ったことではないだろう。


 理由も聞かずに帰れない。そう思っていた。さっきリックに断られたときだ。だが、そうしていたのは僕だったじゃないか。理由も言わずに、二人を突き離したのだ。


「ごめん。ほんと今さらだけど、話してもいいかな」

「いや。今さらいいわ。聞いたところで何も変わらん。なんとなく想像もつくしな」

「……そうか」


 確かに、二人にはある程度想像できるかもしれない。


 僕たちが大好きだったバンド、ミューズが解散した。デビューから四年、僕が大学生になった頃だった。


 ドラムが自殺したのだ。


 そして彼、高橋幸仁ゆきひとは、僕のはとこだった。


 僕の両親はそれを知るなり、僕にバンドを、いや、音楽を辞めるよう迫った。母は泣きながら、父は目を逸らして。


「応援するって言ったじゃないか!」


 僕は叫ぶ。納得がいかなかった。ミューズの解散、ドラムの自殺、それが僕の世界すら壊すこと。理解できない。許せない。受け入れられない。


 しかし、突然の向かい風に抗う術を、僕は何一つ持たなかった。


「ごめんな。でも、父さんと母さんはお前が心配なんだよ。本気で何かを目指そうとするとき、挫折も本当に大きくなる。だから、幸仁くんは命を絶ったんだと思うよ。俺たちは、お前にそんな思いをさせたくない。夢よりも命を大事にしてほしい」

「そんなの……そんなの、わかんねぇだろっ!」


 父の、いつもと変わらない穏やかな語り口に、僕はどうしようもなく苛立った。


 挫折? そんなはずはない。ミューズは一過性の流行などでは決してなく、新曲を出すたびに何週間も連続してチャート入りしていた。「ドラムだけ下手だ」などという中傷も見たことがない。幸仁さんが、音楽で挫折などするはずがないのだ。


 しかし彼は、遺書も書かなかった。


 わからない。何も、誰も。


 わからないことは憶測を呼ぶ。ましてこれほど有名なバンドだ。バンド内のいじめ、家族仲、恋愛沙汰、ありとあらゆる噂が囁かれた。幸仁さんの両親の自宅も早々に特定され、キャスターやライターを自称する者、その他野次馬に悩まされたらしい。


 僕はひたすらに、引きこもっていた。何もしたくなかった。あれほど好きだったギターも、すぐに薄く埃をかぶった。パソコンの作曲ソフトは長い間開かれず、ミューズの音楽だけが、僕の部屋で空しく流れていた。


〈夜、あんた、何してんの?〉


 ルカから来たラインは未読のままだった。何をしているとも答えようがなかった。


〈夜、もう一月経つで。いい加減なんとか言うたらどうやねん〉


 優しいリックを怒らせてしまったことが辛かった。面と向かって言われない分、声音も表情も想像するしかなくて、それが余計に堪えた。


 夏になったころ、ようやく僕は二人に連絡をした。


〈ごめん。バンド、辞める〉

〈は?〉

〈ちょっと待てよ。どういうことや〉


 二人の怒りに、僕は何も弁解できなかった。ただ謝ることしかしなかった。だって、どう説明すればよかったと言うのだろう。幸仁さんの自殺も、ミューズの解散も、父が僕の成功など信じてくれていなかったことも、何もかもがどろどろに溶け合って受け入れられないままに、僕は闇の中にいた。


 何も見えない。聞こえない。息ができない。世界はこんなにも冷たく暗かったのか。僕の光は何だったのだろう。これまで僕を生かしていたものは何だったのだろう。


 今ならわかる。僕を導いてくれたのは二人だった。ルカとリック。一番失ってはいけない人たちを、僕は手放したのだった。


「なぁ、夜」


 窓の外を眺めながらコーヒーを飲み干したリックは、コト、とカップを置いて僕に視線を戻した。


「……俺らが渋る一番の理由、わかるか」

「え?」

「ほんまは言わんとこうと思ってたけど、やっぱ言うわ。独り言と思って聞き流してくれてもいい。……あの……あのな、技術の差が、しんどいねん」


 ふ、と吐息のように笑って、リックは続ける。


「俺もルカも、音楽だけでは食っていけてない。お前みたいに才能にも機会にも、恵まれへんかったんやろうな。今もう一回、バンドを組みなおしたら、たぶん圧倒的に違うと思う。昔のようにはいかん。……それが、しんどいんや」


 今日何度目かの沈黙が降りる。下を向くことしかできなかった。僕のコーヒーからは、もはや湯気は立たない。食べかけのチョコクロワッサンは不格好に崩れていて、僕は視線を逸らす。窓の外には静かに雪が降っている。店内の明るいBGMが、結露した窓を上滑りしていた。


 涙は出ない。ただ、ひどく愚かなことをしたという感覚だけが、全身にまとわりつく。


 謝るべきかもしれない。しかし、謝って何になる? 昔と同じだ。謝っても、そこに留まるしかできない。前に進まなければ。


 進めるのは僕だ。リックに頼りきりになってはいけない。


 意を決して顔を上げる。リックの視線に強くぶつかった。息を呑む。


「……リック」

「ん?」

「ありがとう」

「……なんで」

「会ってくれて、話を聞いてくれて……あと、全部話してくれて、かな」


 頬杖をついていたリックは、焦げ茶色の瞳をわずかに揺らした。


「ごめんな。言い過ぎたかもしれん」

「いいんだ。むしろ吹っ切れた。それにもとは僕が悪かったんだし」

「……あの、一応言うとくけど、お前のことが嫌いなんとはちゃうからな。俺は今でもお前の曲が好きやし、鷹橋よるを初めて聞いた時は……恥ずいけど、ちょっと泣きそうやった。曲調も声も昔のままやったし、お前がまた音楽をやれるようになったんや、って思って」

「……まじか」


 嬉しい。表情が緩むのを隠しきれない。僕は口元を手で覆った。あのリックを、泣かせた。僕の音楽で。そのことがこんなにも心を躍らせる。先ほどまでの重たく沈んだ心が嘘のようだ。僕はなんと単純な人間だろう。


「何ニヤけてんねん」

「いや……嬉しくて。泣いてくれたんだ」

「泣いてへん。泣きそうになった、だけや」

「とか言って……ってあれ、リック、耳赤くね?」

「ほんまにやめろって。クソ、言うんじゃなかった」


 リックはサラサラの銀髪を掻き上げ、僕から目を逸らす。照れくささを隠すための怒ったような表情は、三十近い男のものとは思えなくて、胸がくすぐったくなる。口元がほころんだ。


「なぁリック、ライブさ、チケット今度渡すから、もし気が向いたら来てくれよ。ルカも誘ってみてほしい。もちろん無理にとは言わないけど」

「……わかった。考えとく」


 リックは真面目な顔で頷き、「この後暇?」と尋ねた。


「暇だけど。なんで?」

「ほなもうちょっと喋ろか。十年ぶりやからな」

「だな」


 かなり酔って家に帰ったのは、その夜遅くだった。



[見奈美由紀乃]


 カフェを出ると、朝から降り続いていた雨はほとんど止んでいた。傘をさすかどうか迷い、駅まで行くだけだし、とそのまま歩き出した。さらさらとした霧雨が少しずつ髪を湿らせる。睫毛についた雨粒で、視界がわずかにぼやけた。


 雨は好きだ。湿ったような独特の匂いも、ひたひたと耳に染みこむ音も美しい。その激しさにかかわらず、雨の日は世界中が厚い雨雲の毛布に包まれたように、暖かな静けさに満ちるのだ。そのためか、雨の日はいつもより執筆がはかどる。もし煮詰まっても、傘を持たずに散歩に出れば、降り注ぐ雨がオーバーヒートした頭を冷やしてくれた。


 電車に乗り込む。平日十七時過ぎの山手線は、ラッシュ時ほどではないがそれなりに混雑している。沙月は毎日、電車に乗って通勤しているのかと考えると、気が遠くなった。私にはとてもできない。外出はもとより、電車に乗ることなどいつ以来かわからないくらいだ。


〈電車乗ったよ。あと十五分くらい〉


 沙月にラインを送り、私はスマホを鞄にしまった。吊り革に腕を預ける。誰も声を発しない車内は、人がいるのにひどく静かで息が詰まりそうになる。


 今日、木曜日は土曜日に出勤がある沙月の指定休で、これから沙月の家で飲み会をする約束をしていた。つまみも酒も沙月が用意してくれるというので、私はまっすぐ彼女の家を訪ねる。いつも飲み会をする時は沙月の家だった。私が打ち合わせなどがある日に、沙月の家に寄る形で開催している。沙月はかなり忙しいらしいのだ。


「次は、西日暮里、西日暮里」


 機械的な女性の声が、降車駅を告げる。車窓に再び打ちつけ始めた小さな雨粒を見ていた私は、はっとして顔を上げた。すみません、すみません、と人の波を喘ぐ。


 薄雨の中、傘をささずに歩く。雨に濡れると困るので、イヤホンを外していると、足元で路面を覆う雨水が小さく跳ね、可愛らしい音を立てていた。たまには外界の音を聞くのも悪くない。


 沙月の住むアパートに着き、インターホンを鳴らすと、すぐに扉が開いた。


「いらっしゃい」


 元気よく笑う沙月が私を迎えた。


「お邪魔します」

「あんた濡れすぎじゃない? 傘は?」

「あるけど、出すのめんどくさくて」

「風邪ひくよ」

「大丈夫だよママ」

「あらぁゆきのちゃん、だめよ、冷えるじゃないのぉ」

「そんなママいる?」

「知らね」


 どちらからともなく笑い出す。ひとしきり笑った後、沙月は私をリビングへと案内した。リビングといっても、ワンルームなので玄関からはすぐだ。


「わ」


 私は思わず小さな声を漏らす。低いテーブルに所狭しと並べられた料理と酒。中央には小さな白い箱が置かれていた。


「すごいっしょ」

「うん。すごい……ね、あの箱は?」

「これはねぇ」


 沙月は悪戯っぽく笑い、私を座らせてからゆっくりと箱を開けた。


「ケーキ」


 二人の声が重なる。一つは笑いを、もう一つは驚きを含んだ声だ。しかし、なぜケーキを? 怪訝な顔の私をしばらく見つめ、沙月は呆れ声を上げた。


「ゆきの、あんたね……。誕生日でしょ? 昨日」

「ほんとだ」


 私は目を丸くした。たしかに、昨日、六月六日は私の誕生日だ。何回目かは……数えたくない。


「え……ありがとう」


 戸惑いながらも言葉を唇に乗せる。沙月は得意げに、どういたしまして、と私の頭を撫でた。


「じゃっ、乾杯しよっか」


 チン、とガラスが触れ合う音が、雨の音と混じって響く。沙月の作った料理をつまみに、酒を飲む。中学生の頃から一緒にいた沙月の前では、すっかり気が抜けてしまう。そして、酔った私は、思い切り口調が崩れるのだった。


「ねぇ~沙月ぃ」

「うわ、始まった」

「なぁによ、いいじゃん」

「いいけどさ。何?」

「あのねぇ、バイト先の人にねぇ、ライブ誘われたの」

「ライブ? 鷹橋よる?」

「そ~」


 へへ、と私は笑う。全身が温かく溶けていく。


「いいじゃん。行けば?」

「えー」

「てか、あんたに話しかける人いたんだね」

「それな」

「認めるんだ」

「うん」


 私はまた笑う。沙月がアルミ缶を揺らしながら、私の肩を抱いていた。彼女の肩に頭を預ける。二人でしばらくそうしていた。静かで温かで、一生続いてほしい時間。



 気づくと私はベッドの上にいた。ここはどこだっけ、と動かない頭を無理に働かせると、沙月の家で飲み会の間に寝落ちてしまったらしいことを思い出す。どれくらい眠っただろう。沙月はどこにいるんだっけ。


「んん」


 隣で声がした。顔を曲げると、すぐ真横で沙月も眠っている。どうりでベッドが暖かいわけだ。きっと沙月が私を運んでくれたのだろう。


 沙月の瞼にかかる長い髪を、そっと整える。染めているのに傷みのない、艶やかな茶髪だ。長い睫毛に飾られた瞼がピクリと動いたが、目は覚まさなかった。なんとなく沙月の顔を見つめる。綺麗な顔をしてるよな、と酔いの残る頭で考えた。彼氏とかいるのかな。それとも彼女がいたりするのかな。沙月と付き合えるのはどんな幸運な人間だろう。できるなら私が——。


 そこまで思考して、私ははっとした。今、何を考えた? 沙月は大切な友達だ。文字通り唯一無二の、私の友達。下手なことを考えてはいけない。私は寝返りを打って沙月に背を向けた。それでも、一度速まった鼓動はなかなか落ち着いてはくれなかった。



[鷹橋よる]


 パソコンを開き、ヘッドホンを耳につける。それまで聞こえていた、除湿機と窓の外に降る雨の音が、すべて遮断された。部屋の中には入れたばかりのコーヒーの香りが漂っている。いつも通り、作曲ソフトを立ち上げた。ライブ用に、楽曲にアレンジを加えるのだ。


 結局、バンドメンバーは何度かレコーディングに来てもらっていた人たちを選んだ。ベースはLimさん、ドラムはイヌタさん、キーボードははるかさん。皆ツイッターで知り合った。十年前のように、募集サイトに登録する必要はもうない。ずいぶん便利になったと思う一方で、ルカやリックのような人には、ここでは出会えないような気がしている。


 アレンジを入れるのもあと一曲だ。そのあとは、生音を使えないパートにミックス・マスタリングをかけて、音源にする。そこにバンドを乗せてリハーサルをする。


 わくわくする。遠足の前夜のような高揚。夜まで作業をすると、それが邪魔をしてなかなか寝つけないことも多かった。最近は夕食後にはほとんど作業をしないことにしている。しかし、代わりにオンライン会議を夜に回したので、結果は同じだった。もう少し規則的な生活をした方がいいのだろうが、コントロールできる問題ではない。


 今だけはいいじゃないか。僕はもう開き直っていた。今はこのどうしようもない高揚に、自然と浮かぶ微笑に、身を任せていたい。


 ズボンのポケットが振動した。電話だ。ヘッドホンを外し、スマホを耳にあてる。


「もしもし」

「よるさん、松本です」

「あ、松本さん。おはようございます。何か進展ですか?」

「そうなんですよ!」


 スタッフの一人である松本さんが興奮した声を上げた。彼は主にステージでの演出を、ホールの担当者に引き継いでいる。何ができて、何ができないのか。追加料金はかかるのか。かなり無理を言ってしまうこともあった。機材関係の仕事をしていたという彼がいなくては、今回のライブ演出は成り立たないだろう。


「『雨の日』の照明、できそうです」

「え、ほんとですか!」


 『雨の日にまたここで』という曲の照明は、キーボードのはるかさんが提案してくれたものだった。雨が降っているような演出にしたい、と案を練ってくれていた。複雑すぎると保留にされていたが、松本さんが交渉してくれたのだろう。


「そっかぁ、じゃああとで会議の時に報告できますかね」

「そうですね。今日もう少し詰めるので、夜の会議までに確定させておきます」

「ありがとうございます、いつも」

「いえいえ、お任せください」


 電話が切れると、部屋には静けさが充満する。知らないうちに雨は止んだようだった。僕は立ち上がり、大きく伸びをする。長い間座っていたので、強張っていた身体がうめき声を上げた。


 すぐにパソコンの前に座り直す。僕も、会議までに音源を完成させておきたい。もう六月。ライブまではもう少しだ。



[見奈美由紀乃]


 今日は朝から落ち着かない。鷹橋よるのライブに行くのだ。小説など当然書けたものじゃないし、夜はまったく眠れなかった。せめて、と鷹橋よるの全曲再生リストを聴き始めて二周目である。


 どんな服を着て行こうか。私が勝手に持つ彼のイメージカラーは濃紺だから、それに近い色のものがいい。ブラウスにスカート、という組み合わせはライブには合わないだろうか。いや、ライブグッズのTシャツを着るから、それまでのトップスは適当で構わない。そう考えつつも、私はスカートとブラウスを何着も合わせ、ベッドの上には脱いだ服が散乱した。


 別に本人に会うわけでもないのになぜここまで、と私はひとり苦笑する。まるで初デートの直前のようじゃないか。


 いつになく丁寧に化粧をし、普段はつけないイヤリングまでつけた私は、イヤホンで相変わらず鷹橋よるを流しながら、電車に乗った。ドアの近くに寄りかかり、スマホを開くと、田端さんからラインが来ている。心臓が跳ねて思わず画面を切った。小さく息を吐いてもう一度開く。


〈ついにですね~! 見かけたら声かけていいですか?〉


 一緒に見ないのに声をかけてどうするのだろう。冷めたことを考えつつ、私はできる限り明るく答える。


〈楽しみですね! ぜひぜひ、話しかけてください~〉


 送ってから、本心とはかけ離れた自分の言葉に、唇が歪んだ。ライン上の私は、本当に私なのだろうか。私なら、田端さんに見つけられる前にこちらが彼女を見つけ、気づかれないように身をひそめる。


 そうは言っても別に、私は田端さんを嫌いなのではない。むしろ好感を抱いている。彼女はなぜだか私といても気まずく感じないらしく、あれ以来——鷹橋よるの話をして以来、田端さんは頻繁に私に話しかけてきた。しかも私が一人でいたいタイミングをかなり正確につかんでいるので、逆に混乱する。沙月がもう一人現れたみたいだ。沙月に対するように心を開ききるのはまだ難しいだろうが、大切にするべき人なのは確かだった。


 物販の時間に間に合うように会場に入ると、既にロビーは人で溢れかえっていて、改めて鷹橋よるの人気を感じる。人波を掻き分けて物販の列に並ぶ。買うものはあらかじめ発表されていたリストの中から決めていた。さすがに満員電車のようなロビーでウロウロする気にはなれない。


 会計の時だけ外したイヤホンを素早くつけなおし、私はロビーを離れた。トイレでブラウスをライブTシャツに着替え、席を探す。ホール内では音楽が流れていたので、イヤホンは無音のまま耳にはめていた。人が多いところでは、イヤホンは手放せない。イヤホンは私の世界を守ってくれる重要な装備だ。外界の喧騒から、私を一枚のカーテンで隔ててくれるのだ。


 人々のざわめきと会場のBGMを、水底にいるようにぼんやりと聞く。買ったグッズを手に取り、眺めていると口元に柔らかな微笑が浮かんだ。


 来てよかった。


 まだ始まっていないのに、そう思う。来なければグッズは手に入らなかったし、鷹橋よると空間を共有することもできなかった。


 今、舞台裏に彼がいて、これから同じ空気を呼吸する。そのことが心底から嬉しい。「ライブには行くべき」と背中を何度も押してくれた田端さんに感謝だ。


 影アナが入る。十五分前だ。そろそろスマホの電源を切らなければ、と取り出すと、沙月からの通知があった。


〈ゆきの、そろそろライブ?〉

〈うん。あと十五分〉

〈めっちゃ人いるでしょ。大丈夫?〉

〈たぶん…〉

〈笑 いやでも、あんたがライブ行けるようになるなんてね〉

〈それな。成長だよね〉

〈ディズニーでひーひー言ってたもんな笑笑〉

〈なんのことだか〉


 楽しみなよ、と言う沙月にスタンプで返し、電源を落とす。田端さんからの連絡はなかった。私の緊張を察してくれているのかもしれない。終わった後になら連絡してみようか、と考えた。


 あと五分。二階席の最前列からステージを見下ろす。あそこに、鷹橋よるが立つ。私の目の前に現れる。



[鷹橋よる]


 ライブだ。全国ツアーの最終日。


 仙台からスタートし、大阪では二日間、その後博多に移動し、最後が東京で二日間と、四都市六公演のツアーだった。それを三週間で回る。あまり旅行経験のない僕には少し過密スケジュールではあったが、スタッフのサポートやバンドメンバーとの交流で、かなり楽しく過ごせていた。仙台では牛タンの有名店をはしごして、大阪ではたこ焼きをほおばり、時間を取ってUSJにも行けた。博多で初めて食べたもつ鍋は、内臓を食べるという抵抗など、消し飛ばすほどの美味さだった。……思い返すと食べてばかりな気もするが、まぁいいだろう。


 今何より気にかかっているのは、二人のことだ。ルカとリックには、春に会って今日の分のチケットを渡してある。来てくれるのだろうか。「もし気が向いたらでいいんだ」と何度も言ったものの、本心としては来てほしい、しかなかった。MCでは少しだけ、二人のことを話すつもりだ。


 リハーサルを終え、最終確認を済ませる。ツイッターにバンドメンバーとの写真をアップし、〈いよいよ最終日! 暑いけど気をつけて来てね!〉とコメントを添えた。


 お腹を膨れさせすぎないよう、ゼリー飲料を飲みながら僕たちは開演を待つ。影アナが入るとライブが現実感を増してくる。緊張と興奮の入り混じった感情で逸る心を静めようと、僕は深呼吸をした。


「よるさん、緊張してます?」


 Limさんが僕を見つめる。


「いや、そんなに、かな。どっちかというとワクワクしてます」

「さすがですよねぇ。俺なんかさっきから腹痛くて。もう六回目なのにね」

「私もですよ」


 はるかさんが胸を押さえながら言った。


「心臓バックバクです」


 僕たちは顔を見合わせて笑う。三週間、長い修学旅行のような時間を過ごし、すっかり深い仲になった。Limさん、イヌタさん、はるかさん。三人と向かい合い、僕は手を真っ直ぐに伸ばした。四人の右手が中心で重なる。


「最終日。楽しもう!」

「よっしゃあ!」


 次々に光り輝く舞台上に出ていく三人の後ろ姿を見つめる。観客の拍手と歓声が、闇に溶ける舞台袖にまで響く。僕は軽く息を吐き、光へと踏み出した。



[見奈美由紀乃]


 呆然としていた。ライブとは、これほどすごいものだったのか。イヤホンで聴くのとはまるで違う。音がそのまま、生身のまま私にぶつかり、私を叩きのめした。言葉にならない。それほどの感動が私を襲う。言葉を扱う職業の私が、言葉を失うなんてあってはならないのだろうけれど、そんなこと関係ない。どうでもいい。私は私のまま、そこにいた。何者かなどわからなかった。ただただ、音と裸で抱き合っていた。


「みんなありがとう!」


 鷹橋よるが大きく手を振る。観客の歓声に、私もつられて手を振り返す。


「……えー、みなさん」


 MCが始まると、立っていた観客は席に座る。ライブにはそういう慣習があるのだろう。


「えっとね、見奈美由紀乃先生っていう作家さん、知ってます?」

「は?」


 私は吐息のような声を漏らした。私? 私の話をしている?


「いや、唐突だね。すいません。去年さ、小説出したでしょ。今歌った、『歯車ダンス』の」


 バスドラムの音と周りの人たちの拍手が、ありえないほど遠くに聞こえた。


「ありがとう。買ってくれた人もいるかなと思うんだけど、あれね、僕にとってはすごい挑戦だったんです。小説とか書いたことなかったし、読んだこともあんまりなかったし。だからね、当時の話題作、片っ端から読んだんですよ。たぶん百冊は読んだかもしれない……いや、盛りすぎたかな」


 笑い声。鷹橋よるの声が聞こえるまでが、ひどく長い。早く、続きを。


「その時に読んだ中に、見奈美先生のがあったんですけど、すごいんですよ。表現とか、言葉の使い方とかが、本当に綺麗で。しかも確かそれ、デビュー作なんですね。世の中にはこんなものを書けてしまう人がいるんだと、驚いたし、憧れました。……って、いうだけの話で、オチは特にないんだけど」


 はは、と笑って鷹橋よるは再びギターを構え、バンドメンバーの方を振り返る。


「それじゃ、いいですか? OK、次の曲、行きましょう!」


 イントロで、一番好きな曲だとわかった。心臓が狂ったように鼓動する。涙がとめどなく溢れて、嗚咽で吐きそうになる。


 鷹橋よるが、私を知っていた。私の綴る言葉に憧れたと言ってくれた。あの、鷹橋よるが。私を。私の小説を。


 頭がおかしくなりそうだ。二作目は、三作目は、読んでくれたのだろうか。読ませられるものを書けていただろうか。いや、あんなものは駄作だ。読まないでほしい。だけど。


「東京~!」


 鷹橋よるの叫びが空気を切り裂く。音に、感情に、ぐちゃぐちゃにされて私はひたすらに泣いた。



[鷹橋よる]


「ありがとう! 鷹橋よるでした!」


 ダメ押しのようなドラムロールの上で、僕は深く礼をする。歓声と拍手の残る舞台を後にした。バンドメンバーも舞台袖に捌ける。客席では拍手がテンポの速い手拍子へと変わっていた。アンコールだ。水を飲み、一呼吸置き、僕たちは再び暗転した舞台に駆け戻る。


 照明が一気に上がり、僕は思わず目を細めた。マイクを持ち、改めて礼をすると、歓声がホールを揺らす。笑みがこぼれた。


「アンコール、ありがとう。もう一曲だけ、歌わせてもらうね」


 イヌタさんが鳴らすバスドラムの効果音の間、僕はマイクを下ろして客席を見渡した。笑顔。泣き顔。ペンライトが瞬き、熱気が立ち上る。情動が突き上げる。まだ、駄目だ。泣くのは終わってから。


 招待客の席のあたりに目をやる。両親はすぐ見つかった。全公演来てくれている。


 ライブをやることを迷いながらも電話で伝えると、父は涙声で「よかったなぁ」と言った。大学生の時は応援してやれなくてすまなかった。ネットに上げていると聞いた時は驚いたけれど、お前がまた音楽を始めてくれてよかった。ぜひ行かせてほしい。そう言われた。


 母はずっとすすり泣いていた。言葉が出なかったらしい。かろうじて発されたのは、「よかったね」という一言だけだった。


 両親は僕の音楽活動を、今度こそ否定しなかったのだ。幸仁さんの自殺から十年。彼が命を絶ったのはデビュー後だったから、今でも僕のことは心配なのだろうが、それでも認めてくれた。複雑な心情はあれど、もうそれだけで十分だった。


 マイクを持ち直し、僕は再び口を開く。


「その前に、少しだけお話させてください。僕の、昔の話です」


 少しのざわめきと、期待のこもった沈黙。


「僕は昔、バンドを組んでいました。高校生の時です。だけど、三年ちょっとで解散しちゃったんですね。これは僕が悪くて。とある事情で親に音楽を禁じられたんですよ。その時に僕は、二人に——あ、三人でやってたんですけど、二人に頼ろうとせずに、一人でふさぎ込んで引きこもってしまったんです。それどころか、理由も伝えずに辞める、とだけ言いました。最低でした。そしてね、もっと最低なことに、今回のライブで、二人にバンドをやってくれないかって、頼んだんです。まぁそりゃ断られるよなって感じで。今日はチケットだけ渡したんですけど、来てくれてるのかな……」


 来てくれてるといいな。そう呟きながら僕は客席に目を凝らす。春に会った時も変わらなかった銀髪は、見つからなかった。


「解散自体に後悔はありません。って言うと、二人と離れてよかったみたいに聞こえちゃうけど、そうじゃなくて……なんて言うのかな、あの時解散していなかったら、今僕は、少なくとも鷹橋よるとしては活動していなかったと思うので。だけどね、やっぱり二人に頼るべきだったと思ってます。あの時一度、僕は全てを失ったんです」


 僕は言葉を止めると、ホールは嘘のように静かだ。僕は一旦息をつき、笑顔で言った。


「みんなも、大切な人がいたら、絶対手放さないでね。やりたいことがあるなら、奪われないで。夢があるってことは本当にすごいことなので、全力で守り通してほしいって思います」


 マイクをスタンドに戻し、ギターを抱える。


「ちょっと長すぎたかな?」


 Limさんの方を見ると、大丈夫、というように微笑んで首を振ってくれた。僕も笑みを返す。


「聞いてくれてありがとう。それじゃあ、アンコール、行きましょう。今日のために書いた、新曲です」


 悲鳴のような声が上がった。左手を高く掲げる。


「今日は本当にありがとう! 聴いてください。『ミューズ』」



[見奈美由紀乃]


 家に帰るなり気絶するかのように眠っていた間も、目を覚ましてからも、ライブの余韻が身体を支配していた。腹の底に響く音たちが、この世で一番好きと言っても過言ではない声が、何をしていても私の中を巡る。


 そして何より、鷹橋よるが私の小説を読んでいたということ。いまだに信じられなかった。彼の言葉が意識の片鱗に浮かんでは沈み、また浮かんで、その度に心臓が身体の中で迷子になった。


 ——表現とか、言葉の使い方とかが、本当に綺麗で。


 鷹橋よるの歌詞が好きだった。配信などで見せる穏やかな口調と異なり、激しい言葉で社会の矛盾や違和感を鋭く突く。一方で飴細工のように繊細な愛を紡ぐこともある。複雑すぎる言葉は使わない真っ直ぐな詞は、聴く者の心を強く掴んだ。回りくどくしか書けない私には、彼の歌詞はあまりに眩しかった。私には彼のような才能がないのだと思っていた。


 その鷹橋よるが、私の表現に心を打たれた。綺麗だと言ってくれた。それは、私にとって容姿や性格や、その他私自身を褒められることよりよっぽど、破壊的とも言える喜びだった。


 昨夜入れなかった風呂から上がり、遅い朝食をとりながらツイッターを眺める。窓の外では蝉がやかましく合唱している。鷹橋よるの最新の投稿は、昨夜遅くのスタッフとの飲み会の様子だ。


〈ツアー完走です! 見に来てくれた人も、来られなかったけど応援してくれた人も、本当にありがとう〉


 大学生の飲み会か、とツッコミたくなるような雰囲気のセルフィーが三枚と、今日のホールで撮ったらしい、バンドメンバーの集合写真が一枚。迷いもなくすべての写真を保存し、いいねを押す。写真を「鷹橋よる」とタイトルをつけたアルバムに移しているとき、ふと考えた。


 もし私が、「見奈美由紀乃」のアカウントで鷹橋よるに連絡をしたら? 彼はどんな反応をするのだろうか。彼に手が届くのだろうか。私たちの間に何かが起こることは、あり得るのだろうか。


 満面の笑みでピースサインを送る鷹橋よるの写真を、拡大して見つめていた私は、小さくかぶりを振った。ただのファンのひとりでいることしかできないし、そうあるのが一番いい。結局私はデビュー作だけの作家だし、こんなにも卑屈な私を知られては、失望しか与えないだろう。


 スマホが震えて、鷹橋よるの新しいツイートを通知する。すぐにツイッターに移ると、スタッフのコメントと数秒の動画が投稿されていた。


〈今スタジオに帰っているのですが、よるさん、お疲れのようです〉


 車の中で、鷹橋よるがうつらうつらと船を漕いでいた。昨夜はどこかのホテルに泊まったのだろうか。確かにあの時間まで飲んでいたら、終電もないだろう。


 それにしても、なんともかわいい。思わず頬が緩み、私はもう一度動画を再生する。車窓に街並みが流れていく。前髪が目にかかり、顔はよく見えない。車の揺れに合わせて、鷹橋よるの頭も揺れた。


 ふっと没入感のようなものを覚える。心地のよい疲労と切なさ、寂寥。鷹橋よるの三週間の旅の終わりが、私のもののように鮮やかに想像されたのだ。


 彼が昨日、アンコールの最後に流した涙の理由を想う。その涙を、私は知っていた。三年も前に、私が流したものだった。


「そっか」


 呟きが零れる。


 私たちは、同じなのだ。


 決して相容れないのだと思っていた。神に愛されているのは鷹橋よるだけだと思っていた。でも、そんなことはなかった。


 アンコールのMCで話していたじゃないか。一度全てを失ったと。彼だって、悩み苦しみ抜いてあの舞台に立った。彼だって、神に愛されてなどいなかった。


 私たちはどちらも、身一つで創作に挑んでいるのだ。


 私はスマホを置き、カーテンを引く。真夏の陽光は重く、途方もなく眩しい。それを頭から浴び、私は笑うことができた。



[鷹橋よる]


「お疲れさまでしたー!」


 ライブが終わり、一息つく間もなく撤退作業を終えた僕たちは、最も広い楽屋に集まっていた。少しだけ時間に余裕があるので、全員が揃っているうちに総括をしようというのである。


「よるさん、何か一言お願いしますよ」

「えぇ……いや、ほんとにお疲れさまです」


 僕が戸惑いながらも言うと、笑い声とともに、お疲れさまです、と口々に返事をしてくれる。本当に終わったのだということが、いまいち実感となっていなかった。それでも、これだけは事実だ。Limさん、イヌタさん、はるかさん。松本さん。その他大勢のスタッフの顔を一人ずつ見つめながら、僕は深々と頭を下げる。


「みなさんと一緒に、ライブができて本当に良かったです。ありがとうございます!」


 集合写真を撮り、飲み会に行く人で集合してからホールを出る。すっかり日は落ちて、虫の鳴き声が都会のネオン街を彩る。汗ばんだ身体を夜風が優しく撫でた。


「よるさん、あの……」


 スタッフの一人が僕の肩をつついた。振り返った瞬間、息が止まる。


「ルカ。リック」


 先行ってますね、と囁いてスタッフが去る。僕は浅い呼吸を繰り返し、幽霊でも見るように二人を見つめていた。


「来て、くれたんだ……」

「何泣いてんだよ」


 ルカが笑いながら僕を小突く。


「だってさぁ……」


 止められるわけがなかった。どうしようもなく愚かな僕を、二人は見捨てなかったのだ。


 ぐい、と身体が引き寄せられ、背中を軽く叩かれる。リックの声が直接僕に触れた。


「お疲れ。よかった」


 すぐに身体が離れ、僕は鼻をすすりながらリックを見つめる。


「髪色変えたんだな」

「まぁな」

「……あれ、今日はカラコン?」

「……この暗いのに、なんでわかんねん」


 かなり暗い色になった髪を掻き上げ、リックが苦笑する。


「ちゃんと就職することになって、さすがに銀髪はあかんかったわ。だから代わりに」

「そっか」

「ていうかMCで俺らのこと喋るんやったら言うといてや。ビビったやろ」

「それじゃおもしろくないだろ。あ、もしかして泣いた?」

「誰が泣くかアホ。泣いたんはお前や」

「はーいストップ。イチャコラすんな」


 黙っていたルカが僕たちの間に割り込む。してへんわ、と笑うリックに、ルカは嘘つけ、と鋭く切り返す。僕はずっと、泣きながら笑っていた。


「てかさぁ、夜」


 ルカが僕に向き直る。


「アンコールの曲、『ミューズ』ってさ、なんていうか、良かったの?」

「あぁ……決別っていうか、次の章に入る幕開けの曲、って感じにしようと思ったんだ」


 僕は少し言いよどむ。


「前にリックと話して、感じた。もう君たちとバンドはできないんだって。だけど、おかげでちゃんと決心がついたよ。僕はもう、夜じゃなくて鷹橋よるだ。だから、夜をちゃんと終わらせようって思ったんだ」

「それで『ミューズ』ね。……あのバンドなんでしょ? 夜が辞めた理由」

「そうだね。半分くらいは、いや、半分以上かな。……本当に、当時は言えなくてごめん。今さらだけど」

「いいよ、今さら。とにかく、お疲れ。おめでとう」

「おめでとう?」

「初ライブ」


 ふふ、と密やかにルカは笑った。二人の穏やかな瞳は、また僕の心の琴線を震わせる。


「ほなまぁ、そろそろ帰ろか。夜も待たれてるんやろ。写真でも撮る?」


 リックの提案に、ルカが「天才」とリックを指差す。昔のように、ルカの合図で写真を撮った。リックが変顔をし始めるとルカと僕も笑いながら続き、十年の隔たりなど跡形もない。胸にこみ上げるのは愛おしさ。どうしようもないほどに、僕は二人が好きなのだ。


 再会を約束し、僕らは別れた。僕はスタッフやバンドメンバーの待つ居酒屋へと急ぐ。夏の夜空が僕を見下ろしている。僕は夜空に微笑みを向けた。唇から歌が零れる。



 ——なぁ、ミューズ。朝の光はこんなにも美しいよ。

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創生記 深澄 @misumi36

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