第3話 よそよそしいナッツ2
それから数日、ナッツは私を避けている様に見えた。おいで、と呼んでも、出来るだけ距離を空けた先で「なに?」と言ってくるし、食事の時は端っこに移動して食べるようになった。どうして? 私、そんなに臭い? 正直、そろそろ泣いてしまいそう。淋しくて仕方がない。
「……お風呂行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
返事はしてくれるけど、風に当たりたいのか背中を向けてこっちを見てくれない。胸がつぶれそうに苦しい。淋しい。お願いだから、こっちを見て。
希うような眼差しを向けても気づいてくれないナッツ。野生の犬は視線に敏感なんじゃないの? 蛇だって黒艶のアレだって人間の目線には敏感で、すぐ逃げるのに。ナッツの本能はどこに家出してるの?
「…………」
諦めて、私は風呂場へ向かった。
これでもかっていうほど時間をかけて丁寧に体を洗うと、お湯に浸かる。
綺麗にすれば、臭いをなくせば、いつもみたいにナッツがそばに来てくれると思った。でもそれは違うらしい。何が問題なのか、私には見当もつかない。
「……もっと、好かれてると思ってた……」
無意識に零れた言葉が自分の心を抉る。鼻の奥がツンとして、じわりと涙の膜が張った。頬を流れる涙を拭う。淋しい。負けるな。淋しい。負けるな。淋しい…………お母さんに、会いたい。
抱えた両膝に、こてんと額をくっつける。
「……これじゃあ、だめだ……」
私は、一人ぼっちのあまり、ナッツに依存しようとしてる。よくわかんないけど、ナッツだっていつかは離れていくんだ。強くならなくちゃいけない。淋しいって思っちゃいけない。ずきりと心臓が痛んだような気がしたが、私はそれに蓋をした。
更に数日経つと、少しずつナッツとの距離が短くなっている気がした。嬉しいけど、ナッツ離れしないと、と心を戒める。なんで私はこんなに一喜一憂しているんだろう? この夏休み前まで、ナッツが犬の姿で過ごしていた時は、あの子がそばに居ようといまいと、全く気にしなかったのに。
考えていると気が滅入ってしまう。
椅子から立ち上がると、ナッツの声が飛んできた。
「どこか行くの?」
振り返ると、窓辺に立つナッツと目線が合う。彼の固定位置になったなぁ。
「気分転換に外でも歩いて来ようかなって」
「! 俺も」
私は頭を振った。臭いから避けてるんでしょ? なのに、無理してついてくることない。
「ひとりで行く」
「っ……」
ぽろりと出た言葉は私の耳にも冷たく感じた。罪悪感が押し寄せる。でも、これでいいはず。
玄関に向かう背中をずっと追う仄暗い金目があったことに、私は気付いていなかった。
家を出て、目的もなくふらふらと彷徨う。公園を過ぎていつものスーパーを越えると小学校が見えた。小さい頃はここに毎日通って……その帰り道だったなぁ。ナッツを拾ったのは。
顔を右に向けると、駄菓子屋さんが見える。懐かしい。私は胸が痛くなって押えこんだ。切ない。
この気持ちは、なに?
上の空で歩き続けていると、大きなショッピングセンターに迷い込む。色々なデザインの小物やら服、食べ物屋さんが視界に過る。でもなに一つ、私の頭には残らなかった。ただ、時間を潰しただけ。
「……帰ろう」
踵を返し、来た道を戻る。途中、ペットショップのショーウインドーに可愛い首輪や服に惹かれ、ふらふらと寄っていく。そういえば、ナッツに首輪を買ったことはなかった。人の姿のナッツに首輪がついているのを想像し、つい笑い声を漏らす。
「……お。霧島さんじゃなーい? 何してんのぉ?」
ポン、と肩を叩かれ振り向くと、同級生の男子が二人立っていた。
「あ……石田君、と古村君……」
じり、と無意識に一歩後退する。
「一人? 良かったらオレたちとご飯でもどう? 奢るよ?」
「あ、いいえ……今から帰るところなので……」
「そんなこと言わないでさー。霧島さんち、今誰もいないんでしょ? なんなら」
見上げていたショーウインドーを背に、伸びてきた両手に挟まれ、道を塞がれる。
「オレんちでも、行く?」
耳元にかかった熱い吐息に、嫌悪感が体を貫き肌が粟立った。どくどくと心臓が嫌な音を立てる。
――嫌! 気持ち悪い……! ナッツ……!
ぎり、と握りしめた拳に力を込める。こんなんじゃだめだ。
「……ごめんなさい、急ぐので!」
ぱっと腕の下をくぐり抜け駆け出すと、背後から「あーあ逃げられちゃったぁ~」と声が追い掛けてきて下唇を噛む。とりあえず逃げられた。だから、それでいい。大丈夫、大丈夫。
足を叱咤し、限界まで走り続けていると数メートル先に我が家が見えて、速度を緩める。まずは呼吸を整えなくては。
「……汗かいちゃった……」
ふぅ、と溜め息を零し玄関の扉を開けると、無表情のナッツが立っていてどくりと心臓が跳ねる。
――び、びっくり……したぁ……!
「た、ただいま」
「……おかえり」
誤魔化すように言って靴を脱ぎ、そのまま通り過ぎようとし――……だん! と両手ごと背中を壁に打ち付けられる。
「なっ、に……」
見上げれば、冷ややかな金の瞳がじっと見下ろしていて、青ざめる。どうして……? 何か怒ってる……?
目を逸らすな、と警鐘が鳴った。
「ど……う、したの? ナッツ……」
すっと金目が細まり、唇が動いた。
「ねぇ。誰のニオイを擦りつけてきたの?」
「……え……?」
両手が震え、ナッツの手がギリ、と私の手首を絞めた。あまりの痛さに顔が歪む。
「ねぇ答えてよ」
「そ……んなこと、してな……」
「じゃあどうしてニオイするの? ココに」
ナッツの吐息が耳朶にかかって、一気に顔が熱くなった。私の心臓が暴れ出すと同時に、心を満たす歓喜。
――あぁ……私、ナッツが好きなんだ……。
「……許せない」
低く呟かれたその声にぞくりと体が震える。
――ねぇナッツ。それは嫉妬なの? それとも――……飼い主が取られそうで、寂しいだけ?
刹那、生暖かいものが首筋を滑って「ひゃんっ!」と悲鳴を上げる。
「ちょっ、ちょっとちょっとちょっと! な、なななナッツさん!? なにしてっ!?」
肌を舐っている音が鼓膜を震わせ、扇情的な行為に心臓がはち切れそうになる。いつの間にか解放されていた両手で、ナッツの肩をぎゅっと掴んだ。一瞬、ぴりっとした痛みが走ってからナッツの顔が離れていく。
「ナッ、ツ……?」
はぁ、と漏れた私の吐息ごと食べるようにナッツの唇が塞ぐ。噛みつくような口づけを角度を変えて何度も受け、止んだとき、私は息も絶え絶えだった。
「ごめん。……俺、明花に他の奴の臭いがついてるの、耐えられなくて」
火照った私の頬を、ナッツの親指の腹が優しく撫でた。次いで、私の手首の赤くなったところを見て金目が切なそうに揺れ、耳と尻尾が垂れ下がる。
――後悔しているの?
「そんな顔で見ないで。また、したくなるから」
ぎゅっと強く抱きしめられ、幸せで笑みが零れた。
「ねぇ……ナッツ。それは……焼いてくれたの?」
ぱっと離れたナッツは顔を赤くし、口元を覆っていた。私の中で期待が膨らんでゆく。ドキドキしながらずいっと体を寄せて、上目遣いに返答を待った。やがて、何かを決意したようにナッツが顔を上げる。
「……そうだよ。明花はどうなの? 俺のこと好きなの? 俺は明花が好きだ。ねぇ返事を聞かせてよ!」
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