第2話 よそよそしいナッツ1
「まあ、今日はこのくらいにしておこうか。返事はまたでいいよ」
そう言って、男はそっと、私の茶色に染めた髪を優しく撫でた。
私の髪は、本来もっと薄く、金髪にも見えそうな色だった。けれど、小さい頃からお母さんに「オシャレだから」と髪の毛を染められて生きてきたのだ。
本当はオシャレのためなんかじゃなかったんだね、お母さん……。
腰まで伸ばした髪の一房に口づけを落とした男は、気が済んだのか静かに立ち上がると、私の手を取って立たせ抱き上げた。
「なっ……!? お、下ろして!」
心臓がうるさい。顔が熱い。絶対赤くなってる! 恥ずかしい!
「大人しくしてなよ。大丈夫、今はなにもしないから。ベッドに運ぶだけ」
今は!? 今はってなに!?
平然とした顔で颯爽と歩きベッドまで運ぶ男の整った横顔を見て、心臓がきゅんと跳ねてしまう。
どうしてドキドキするの、私……! 落ち着いて!
「さぁ、今日はお休み。寝れるまで見守ってるから」
止める暇なく隣に並んだ男はにっこり笑って私の頭を撫でてくるが、こっちはそれどころじゃない。この状況で寝るなんて無理に決まってるよ!? 間近にこんなイケメンがいるのに寝れる女がこの世にいるの!?
……と、思ってた筈なのに、あれからすぐ寝たらしい。頭を撫でてたナッツの手があまりにも優しくて温かかったせいだ。恨めしい目を眼前のナッツに向けるけど、彼は微笑んで躱す。
「おはよう明花」
「……おはよう。ねぇナッツ……」
「うん、なに?」
「ナッツって、なんていう名前なの?」
「……へぇ。気になるの?」
向けられた笑顔に冷やかしが見える気がして、明花は「気になりません!」と反射的に叫ぶ。
ナッツは微笑を崩さぬまま「朝ご飯食べたいなー」と言ってきたのでしぶしぶキッチンへ向かった。
だから、私の背後でナッツが耳と尻尾をペタンとさせ、しょんぼりしていたことに気付くことはなかった。
「ナッツー。私、買い物に行ってくるね」
朝食の片づけを終えてエプロンを外しながら言うと、ピンと立っている耳がピクピク動いた。相変わらずの可愛さ。そのうち触らせてもらおうかな。
「……今日? いつ?」
「うん。今から」
「俺も」
「いいよそんなの。お店近いし」
「…………分かった」
荷物を手に取りながら背中を向けるナッツの様子を窺うと、なんだか少し耳が後ろに倒れている気がした。心配性だな、ナッツは。嬉しいけど。
「じゃあ行ってくるね」
玄関まで見送ってくれたナッツに告げ玄関のノブに右手を掛けると、左手首を掴まれた。
「ナッツ? どうしたの?」
「……体調が悪くなったら休憩するんだよ」
「あら。心配なの~?」
こそばゆくて茶化すように言ったけどナッツの目は真剣そのもので。
ドキドキしているのを誤魔化すように「わ、分かったわよ」と告げて外へ飛び出した。
その数十分後、私は重い買い物袋を二つ腕に提げて、痛いお腹を押さえ、ふらふらしていた。やばい。これは女性特有のアレな気がする。鎮痛剤欲しい。
どん、と電柱に寄りかかる。やばい、痛い痛い痛い痛い痛い。唇を噛み締めて耐え、浅い呼吸を繰り返す。嫌な感触を下の方に感じ、血の気が引く。最悪だ。これはまずい。早く帰らないと。
ぐっと足を踏み出すと、前方からダシダシダシダシと重そうなのに小気味いい音を鼓膜が拾い、顔を上げる。ピーナッツ色の大きな犬が駆けてくる姿が霞んで映った。
「……な、っつ……来て、くれ、たの……っごめ……っ!」
あまりの痛みに体を折り曲げて両膝をつく。
「ワンワンワン!」
膝にピーナッツ色の手がタシ、とかかり、なんとか正面を見上げると、ナッツがお尻を向けて伏せている。これはもしかして、背中に乗れ、ということだろうか? 確かにこの大きさなら大丈夫かも知れないけれど……色々不安だ。
「ナ、ッツ……いい、よ……歩いて、帰る、」
肩越しにこっちを振り向いているナッツの金目は反論を許さぬ気迫がある。貫いてくるその強い眼差しに、私は――……負けた。
電柱に体重をかけながら立ちあがり、倒れそうになりながらナッツの背中に跨ぐ。
犬独特の香りと石鹸のそれが混ざり合い、鼻孔をくすぐる。口元が緩んだ。すごく温かい。この安心感が半端ない。
「ナッツぅ……ごめんね……ありがと……」
落ちそうになる意識を保つのが難しい。絶対離すもんか、と買い物袋を持つ手にぎゅっと力を入れていると、ナッツが一回吠えた。
「え……もう着いた……?」
「ワン!」
ほんと一瞬だった。あのまま歩いて帰ってたらどのくらい時間がかかっただろうか。
「そっかぁ……、あり、がと……」
伏せをしてくれた時、ナッツの背中を滑って慌てたが、怪我もせず地面に着地した。重い買い物袋を取ってノブを回すと、開いていてびっくりする。まあでも仕方がないか。犬だし。いや狼か。
玄関に買い物袋を置いたところで誰かが走り抜けていき、数秒してから服を着たナッツが引っ手繰るように荷物を奪って行く。
「あ、ナッツ……」
「キッチンに持って行く」
「うん、あり……がと」
荷物を任せた私は真っ先にお手洗いへ駆け込んだ。
部屋に戻ると、空になった袋が二つ丸めて置かれてあった。どうやら片づけてくれたらしい。感謝しつつナッツが渡してきた鎮痛剤を水で流し込んで、椅子に座り込む。どっと疲れた。
若干いつもより距離をとっているような気がするナッツをぼうっと眺めていると、金目が振り向いた。なんだか、さっきよりナッツに覇気がないような気がするなぁ。
「体調は?」
眉尻が下がり耳は後ろで尻尾も垂れさがっている。心配してくれてるんだろうか? 胸の奥が温かいもので満たされて、私は微笑んだ。ナッツがいてくれるから、私は生きていける。
「さっきよりは良いよ……。ナッツが来てくれたから……凄く頼もしかったし、カッコよかった。ありがとう」
「っ……おまっ! ……ま、いい」
赤面し口元を覆ったと思ったらぐるりと背中を向けるナッツ。恥ずかしいのかな? でも尻尾がブンブンしてる。可愛い……あれをもふりたい。今度もふらせてもらおう。顔埋めたら気持ちいいかなぁ。
「と、とにかく、暫く休むといいよ」
そう言ってナッツは窓を開け、風に当たり始めた。暑いのかな? 犬って体温高いっていうもんなぁ。あ、狼か。あぁー……眠たいなぁ……。
瞼が垂れ下がり、ウトウトする。床が軋む音がした。ナッツ?
ふわりと体が浮いて、揺れる。弾力がある何かに下ろされた。ベッドに運んでくれたのかな。
ベッドのスプリングが軋んだ。温かい指先が頬をくすぐり、髪の毛が耳にかかる。頭上で溜め息が聞こえた。
「全く……気が気じゃないんだよ、こっちは……。お願いだから、無茶しないで……傍に居て。じゃないと、俺は……」
温かい指先が手首を横に滑る。なにしてるの? ちょっとくすぐったいよ、ナッツ……。
「はぁ……。この匂い、たまんない。クるな……」
ぼそりと落とされた、低く、艶のある声音にぞくっと背筋が震え、心臓が早鐘を打った。え、ちょっとまって。凄いドキドキしてるんだけど。え、聞こえてないかな? 犬って耳いいよね? ていうか、あれ? 私って臭いの!? アレのせい!? いやぁ~! 犬だもんなぁ!
ナッツが傍を離れても暫く興奮が冷めなかったが、意識が落ちる寸前で隅々までしっかり体を洗おうと強く思った。
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