第31話
猫の声がして、僕は我に返った。
僕は海から逃げ出した。呼吸が苦しい。呼吸の仕方を忘れてしまったように、上手く酸素を取り込めない。
「おいおい、大丈夫かい、兄弟」
プラトンが僕の背中を優しく撫でた。
あのフラッシュバックはなんなのだろう。白日夢だろうか。
僕たちが海から離れると、村人が怯えたような目で見てきた。彼らの心証を悪くしたのだろうか。
そのうちの一人が、大丈夫だったかと尋ねてきた。怒っている感じではなかった。
何が大丈夫なのかわからず大丈夫と答えた。村人は「そうか」とだけ行って去って行った。彼が村人の群れに向かって何か言うと、村人たちはホッとしたように散会して行った。彼らからの怯えたような視線はなくなった。
もしかしたら、なにかウイルスのようなものがいて、村人には抗体があるから大丈夫とかそういうことなのだろうか。
プラトンに尋ねてみると、彼は吹き出した。
「すまない。兄弟があまりにも神妙な顔で訊くものだから。確かに、海の中は危険なんだ。危険な生き物がいる。この村の男達は小さい頃から潜っているから、そういう奴らをやり過ごす方法を知っているんだ。彼らに悪気はないんだ。許してやってくれ」
プラトンはいつも紳士的だ。僕ばかり嫌な奴になってしまう。
「それに、兄弟は弱そうだからすぐに食われちまうな」
プラトンが笑った。僕はむっとした。これでも、それなりに腕に覚えがあるものだ。外の惨状をみれば、誰だって訓練をしなければ生きていけないことくらい知っているはずだ。
「一体何が出るっていうんだ。リヴァイアサンか? クラーケンか?」
嫌味のつもりだった。何かが来たとしても、追い払ってやるくらいの気持ちだった。
「ヒッポカンポスさ」
「また、ヒッポカンポスか」
「知っているのか?」
意外そうな顔で、プラトンが僕を見た。
「ああ、ルネたちに教えてもらった」
見ると、ルネがどうだとばかりに胸を張っていた。プラトンは彼女の頭を力いっぱい撫でた。スピノザが羨ましそうにそれを見ていることに彼は気付いて、スピノザを筋肉の浮き出た肩に載せた。スピノザは喜んでいた。まるで親子みたいで微笑ましかった。
「とにかく、ヒッポカンポスは恐ろしいんだ。ヒッポカンポス自体も怖いが、ヒッポカンポスは悪魔を連れてくる。悪魔に魅了されると、大変な災いが起こる」
スピノザを肩から下ろすと、プラトンが真面目な顔で言った。
「おとぎ話だろう?」
僕が言うと、プラトンは大げさに首を振った。
「とんでもない。本当さ」
「見たことはあるのか?」
「俺はないけどな、とにかく恐ろしいんだよ」
彼の口ぶりから、本当に恐れていることが感じられた。
「ヒッポカンポスはポセイドンを連れてくる」
声がしたほうを振り返ると、村長だった。彼は目が見えているのかいないのかわからないような細い目で、遠くの海の底を見通しているみたいだった。
ポセイドンとは北欧神話に出てくる海神の名前である。神話に過ぎない――僕は一笑に付しようとしたが、天使が空から降ってきたのだ。あながち存在を疑えない。
僕が疑っていることを感じ取ったのか、村長はこちらを見て残り少ない歯を見せた。彼は煙草入れから一本、ジョイントを取り出して咥えると、もう一本取り出して僕に差し出した。手刀を切ってそれを受け取る。
火をつけて最初の煙が肺に入る。それを、できるだけ長くとどめるように息を止める。それから、ゆっくり鼻から吐き出す。このときの陶酔感が、僕は好きだった。
「村長、俺には?」
プラトンが言うと、村長は首を振って煙草入れを懐にしまった。
「ずるいぜえ」
プラトンが嘆くので、僕が吸っているジョイントをポセイドンにも吸わせてやった。こんなヒゲモジャのオヤジと間接キスなんてゴメンだが、陶酔している僕にそこまで頭は回らなかった。
「サンキュ」と言ってプラトンがジョイントを咥える。こういうワイルドな男は様になる。交互にジョイントを咥えると、すぐに短くなってしまった。
ヒッポカンポスに悪魔に天使に――一体、ここはなんなのだろう。やっと見つけた楽園だと思っていたのに、理想郷なんて、現実には何処にもないのだろうか。
そうか、村人が僕に大丈夫かと尋ねてきたのはそのせいか。僕が、悪魔に魅了されていないか確かめるためだったのだ。
悪魔に魅了された人間はどうなるのだろう。
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