第32話


 ヘルヴィムのいる洞窟へ向かった。妻の記憶喪失を治す手立てを、何か思いついているかもしれない。


 久しぶりに訪れた洞窟は、全く変わった様子はなかった。以前と同じ場所に口を開けており、同じ場所にヘルヴィムの居室への扉がある。


 扉に手をかける。天使の村の惨状を思い出して気分が悪くなった。いつもの頭痛を伴ったフラッシュバックではないが、あの惨状はトラウマだ。努めて思い出さないようにしていたが、つい思い出してしまう。


「おやおや、どうしたお客人」


 背後から声がした。振り返るとヘルヴィムだった。顔が隠れるほど大きな紙袋を抱えていた。彼は紙袋の横からひょいと顔をのぞかせていた。


「あんた、無事だったのか」


 僕が言うと、ヘルヴィムはヒッヒッヒと気持ち悪い笑い方をした。


「まあね。俺が簡単にくたばるとは、君も思っていないだろう?」


 憎らしいほどに変わらない彼に安堵した。


「あのあと、大丈夫だったのか」


「あのあと? ああ、君が来た後ね。何も問題なかったよ。何もね。それより、扉を開けてくれないか。手がふさがっているんだ」


 何もなかっただと――?


「そんなはずあるか。あんなに人が死んだんだぞ」


 ヘルヴィムの胸ぐらを掴むと、彼は紙袋を取り落とした。


「あーあ、なにするんだ、もったいない」


 紙袋からなにかの汁が零れた。


「わ、悪い」


 慌てて紙袋を拾おうとしたが、ヘルヴィムに跳ね除けられた。彼は怒った様子で紙袋を拾う。


「はやく扉を開けてくれよ」


 扉をあけてやると、ヘルヴィムは通りづらそうに部屋の中に入った。紙袋の中から、りんごを一つ取り出して僕に投げつける。取りそこねて落としてしまった。りんごは落とした箇所が凹んで、部屋の隅へ転がっていった。


「不器用だな」


 ヘルヴィムが笑う。この男は、いつも僕を馬鹿にしているように感じる。不愉快な男だが憎めない。


「これは?」


 りんごを追うと、部屋の隅で奇妙なものを見つけた。小さい王冠のようなものだった。人形にかぶせるような。


「おっと」


 ヘルヴィムはそれを僕の手から取り上げると、ポケットにしまった。人形遊びなんてするようには見えないが。


「まあまあ、人の家をそうやって荒らすのはあまり上品じゃあないね」


 先程、紙袋を落としてしまった負い目があるので強く出られなかった。


 ヘルヴィムは紙袋をテーブルに置くと、どっかりと椅子に座った。


「それで? 今日は何しに来たんだ」


 不機嫌そうに彼は言った。


「あ、いや、記憶喪失を治すって話、どうなったかなと思って」


 ヘルヴィムは一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐになにか思い出したように指を鳴らした。


「ああ、あれね。うんうん。出来てるよ、出来てる」


 忘れていたな、こいつ。まあ、良い。出来ているなら。


「なんだ? その手は」


 ヘルヴィムに向かって差し出したてを見て、彼は鼻を鳴らした。


「まさか、タダで貰おうっていうんじゃあないだろうな」


「金はないぞ」


 ヘルヴィムが笑った。


「金なんていらん。この島でどうやって使うんだ」


「じゃあ何だ」


「俺のために働いてもらおう」


「船を作るんだったか」


「そうだ。この島から出たいんだ」


「わからないなあ」


「何がだ」


「この島から出たいっていうのがさ。なんでだろうなって。僕はこの島から出たくないけどな。なんでもある。平和に暮らしたいという願いが叶った」


「願いが叶った、ね」


 含みのある言い方だ。


「じゃあ、あんたにとってこの島は何なんだ」


 馬鹿にされたように感じて、ムキになってしまった。


「俺にとってこの島は……牢獄かな」


 寂しそうな顔をするヘルヴィムを、なぜだかどこかで見たことがあるような気がした。


「わかるよ」


「なにが?」


 ヘルヴィムが鼻を鳴らす。怒っているのだろうか。彼が何を考えているのかわからない。


「人生っていうのは牢獄みたいなものだと思うんだ。世界に囲われた部屋の中でしか生きられない。そこから外に出たいと願うことさえ許されない。もし、外に出てしまったら、二度と戻れない。恐ろしくて、自ら牢獄の中にとどまるんだ」


「君はとどまった?」


 僕はとどまったか?


 また頭痛がした。

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