第20話




 暗い海の中で、僕はもがいている。


 どうしてだろう。溺れたことなんて一度だって無いのに。


 やたら鮮明な夢だ。


 これは夢だとわかっているはずなのに、苦しくて死んでしまいそうだ。


 めちゃくちゃにもがいて、手を伸ばす。水面がどの方向にあるのかさえわからなかったが、僕の伸ばした手に、何かが触れた。


 猫の尻尾だった。




 ヘルヴィムの村にも、当然だが人がいた。いや、彼らが人間かどうかわからない。モノリスがある村に住んでいるのだ。人間の形をした天使なのかもしれない。


 僕は物珍しげに村人の姿をジロジロ見たが、村人は僕に対してまったく興味を示さなかった。それに、見た目が随分、僕が流れ着いた村とは違っていた。


 便宜的に、僕が流れ着いた村を『哲学者の村』、ヘルヴィムの村を『天使の村』と呼ぶことににした。なぜかと言うと、彼らは自分の村に名前をつけていないからだ。それぞれが、『村』と呼称した。彼らに交流はない。だから、それで困ったことは一度もないらしい。


 なぜ、この村を天使の村と呼ぶかと言うと、村人の名前がすべて天使の名前だからだ。哲学者の村は、村人の名前が哲学者と同じだった。


 こんな偶然ありうるだろうか。薄ら寒くなってくる。


 天使の村の村人たちは、哲学者の村人と違って、肌の色が真っ白だった。肌の色だけではない、髪の毛まで白い。瞳はかろうじて灰色であるが、何処を見ているのかわからない。


「全然喋らなくなったじゃないか」


 ヘルヴィムが言う。


「まだ、僕の質問に答えてもらっていない」


「何だっけ」


 ヘルヴィムはとぼける。


「君は天使なのか?」


「さあね。でも、これだけは言えるよ。君は本質的なことが何もわかっていない」


「そうやって逃げるつもりか」


「そう思いたいならどうぞ」


 まだ反論したかったが、ヘルヴィムが知人らしき村人に話しかけられたので、僕との会話は中断された。


「この村にも、君と同じ様に難破した船から流れ着いた人間がいるらしい」


 ヘルヴィムが長々と立ち話をしたあと、僕に向かっていった。彼ら村人同士は、僕にはわからない言語で話をした。聞き覚えのない言語だった。


「こっちに流れ着いていたから、村には僕と妻しかいなかったのか」


「へえ、君は結婚していたんだ」


 ヘルヴィムが意外そうに僕を見た。


「馬鹿にするなよ。……実は、記憶喪失っていうのは僕の妻のことなんだ。記憶を戻す方法を何か知らないか? 天使様の科学力なら何かわかるだろう?」


 尋ねると、ヘルヴィムは顎に手を当て、少し考えるような仕草をした。僕の皮肉には何の反応も示さなかった。つまらない。


「どういう理由で記憶喪失になったのかわからないが、考えられる手立てはいくつかある」


「本当か!?」


 僕は思わず興奮して彼に寄った。あまりに近付きすぎて、頭突きするところだった。ヘルヴィムは気持ち悪そうに「まあ、期待してないで」と言って後ずさった。


「何だって良い。もし方法があるなら試してくれ。もし僕の臓器や血が必要なら遠慮なく使ってくれ」


 今にもすがりつきそうな僕から、少しずつヘルヴィムが距離を置く。


「気持ち悪いことを言うな。そんなもの必要ない」


 なおも彼に何か言おうと距離を詰めた。


「ヘルヴィム」


 突然、僕の視界が陰った。振り返ると、身の丈二メートル以上ありそうな大男が立っていた。ギリシャ彫刻のような、がっしりした体つきの真っ白な大男だった。


 僕は驚いた。体格こそ違うが、その男の顔つきは学生時代の研究室の指導教授にそっくりだったからだ。


「デュナミス」


 デュナミスと呼ばれた大男は、チラと僕を見ると、ヘルヴィムに威圧的に話しかけた。なんと言っているのかわからなかったが、二人はどうも何か言い争っているようだった。その勢いに圧倒されてしまって、僕は萎縮した。それでも、デュナミスが僕の指導教授とは別人であることにほっとした。


 徐々に、二人の言い争いはヒートアップした。今にも殴り合いを始めそうなので、少し離れた。そうすると、僕たちが立っているのは、村の他の建物と雰囲気の違う建築様式の建物の前だということに気付いた。


 天使の村の建物は、哲学者の村と違って、石を切り出して積み上げられたものだった。哲学者の村に比べて文明的である。


「君もこの島に流れ着いたのか」


 村人が僕に話しかけてきた。突然のことでびっくりしてしまったが、村人がそれに驚くことはなくて、僕が答えるまでジッと僕の顔を見つめていた。この男の顔もどこかで見たことがあるような気がした。デュナミスの顔が衝撃的過ぎて、そう思い込んでいるだけかもしれないが。


「そうですが」


「そうか。君みたいな人が何人かこの村に流れ着いたよ。君も早く、この島から出ていけると良いな」


 つっけんどんに言う。どうして彼らは、そんなに僕を島から追い出したいのだろうか。異分子だからか。


「どうして、そんなに島から追い出したいんですか」


 つい、口から出てしまっていた。


 村人は不思議そうに僕を見て、首を傾げた。


「だって、君が言ったんだよ。早くこの島から脱出しなくちゃって」


「ちょっと待って、誰かと勘違いしてますよ。僕は貴方とは初対面だ。ここに来たのだって、初めてなんだ」


 そう言うと、更に不思議そうに彼は首を傾げた。


「そうか。君たちはみんな似ていて、見分けがつかないから間違えてしまったようだ」


 どことなく、冷たい雰囲気がした。


「漂着者はどこにいるか知っていますか?」


 僕以外の漂着者はどう思っているのだろうか。その意見を聞いてみたくなった。


 村人がスッと指さしたのは、ヘルヴィムとデュナミスが言い争っている建物だった。彼らはまだ言い争っていた。


 ハア、とため息をついた。空を見上げると、太陽が真上に来ていた。やはりおかしい。どうして、太陽がまだ真上にあるのか。腹のヘリ具合から、もう夕方くらいでも良さそうだ。現に、僕は遅い時間に起きて、村長や子供たちと話して、洞窟まで歩いて、それからここに来た。随分時間が立ったように思う。それなのに、まだ昼だなんてことは無いはずだ。


 腹をさすってみると、タイミングよくグウと鳴った。そういえば、今日はまだ何も食べていない。


「あそこなら、食べ物もあるはずだぞ」


 村人が言う。そう言われると、猛烈に空腹を感じてきた。


 僕はヘルヴィムたちの横を素通りして、建物の玄関を押した。ノックでもしたほうが良かったろうか。扉は真っ白な石を彫刻のように彫り込んで作ってあった。取っ手は真鍮のようだ。扉を開くと、中は中世のヨーロッパのように、大げさな柱と、真っ赤に絨毯が敷かれていた。村が真っ白だったせいか、絨毯の赤が鮮やかに見えた。建物の中を電灯が煌々と照らしていた。


 中は大使館のような雰囲気だった。入ってすぐのロビーには、パンフレットのようなものも置いてあったが、なんと書いてあるかは読めなかった。船と海が書いてあって、島から出ていこうとする男たちが描かれている。


 ロビーを抜けると、病院の待合室のような大きな部屋だった。漂着者はすぐにわかった。どう見ても、人種が違うからだ。着ている服も違う。


「あの……」


 話しかけると、彼らは一様にぼんやりとした様子で振り返った。


「ここから出てはいけない……」


「え?」


 何度話しかけても、彼らは誰もがそれしか言わなかった。何か、大きなショックを受けたように見える。


「パパ」


 ロビーをキョロキョロしながら歩いていると、何か小さいものが走ってきて、僕に飛びついた。それは人間の子供で、僕を「パパ」と呼んだ。彼女の顔は妻に似ていた。ふんわりとした柔らかそうな黒髪に、ツンとした鼻、薄い唇はまるで生き写しだ。彼女は小さい人形を片方の手に持っていた。何処かで見た人形だ。


「な、なんだ君は」


 僕には子供がいないはずだ。僕は子供が嫌いだったし、妻と結婚するときにはっきりとそう言った。それでも、妻と似た顔の子供が、僕のことをパパと呼ぶことに混乱してしまった。


「ああ、よかった。見つかったんですね」


 子供が来た方向から、看護師のような服装をした女が歩いてきた。


「お会いできてよかった。覚えてますか? 一緒に船に乗っていました。あなたはこの子の父親だと言っていましたよ」


 女は心底安堵したような顔を僕に向けた。しゃがんで、子供の頭を撫でながら「良かったね」などと言っている。


 そんなこと、絶対にありえない。


「う、嘘だ……」


 僕は後ずさった。


「パパ」


 子供が僕を見上げた。


 パパと呼ぶな、僕を見るな――。


 天使の村、僕のことをパパと呼ぶ子供――いったい、ここはなんだ。


 背後で僕を呼ぶ声が聞こえたとき、あんなに不信感を持っていたはずのヘルヴィムに、僕は恐らく、迷子の末に母親を見つけた子供のような顔を見せた。

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