第17話


 またどこかで猫の声がした。


「大丈夫か?」


 我に返ると、目の前にヘルヴィムの顔があった。猫面なのでびっくりしてしまう。


「ああ、心配かけてすまない」


「いや、心配はしていない。大丈夫じゃないなら、すぐにここから出ていってほしいだけだ」


 一瞬でも、彼に共感した僕が馬鹿だったようだ。


「言われなくてもこんなところ、長居はしないさ」


「そうか、それはよかった」


 ヘルヴィムが大きく頷く。


 彼は先程汲んだ水を、部屋の奥の方へ持っていった。そこは部屋が向こう側へ張り出していて、住居的に言えば、隣の部屋、だった。なにか少しガサゴソしていたかと思うと、すぐに香ばしい香りが漂ってきた。


「コーヒーか」


 間違いなかった。この香りを嗅いだのは久しぶりだ。


「おお、同志よ。この芳しさがわかるか」


 ヘルヴィムは大層機嫌が良かった。デカルトは顔をしかめている。コーヒーが苦手なのだろう。


 同志だなんて、数分前まで早く出て行けと言っていた人間の言葉とは思えない。


「この島の人間はコーヒーを飲まないのだ。信じられない。コレがなければ、頭が少しだって回らない。ああ、そうか。この島の人間は頭なんて使わないんだったな」


 精一杯のシニカルを込めた語調だった。


 デカルトが聞いているのに――と思って見ると、彼は部屋の隅に転がった何かの機械に夢中で、こちらの話は聞こえていないようだった。


 しかし――。


「そのコーヒーはどうやって調達したんだ? 見たところ、ここは暖かいがプランテーションがあるようには見えない」


 僕が言うと、ヘルヴィムは何だそんなことか、とでも言わんばかりに鼻息を吐き出した。


「俺は神から食べ物も何もかももらっている」


「神だって?」


 何かの比喩だろうか。神がいるというのなら、僕が流れ着いたあの村にだって、コーヒーがあっても良さそうなものだ。


「外と交易があるのか?」


 ヘルヴィムは答えるかわりに、音を立ててコーヒーをすすった。どうなっているのかわからないが、能面の口の部分から、器用にコーヒーを飲んでいる。


「それで、君は何をしに来たんだっけな」


 ヘルヴィムが美味そうにコーヒーをすする。当然のように、僕に振る舞おうという気配はまるでない。どうやら、村については話すつもりはないようだ。それならそれでよい。僕はそれよりも、妻の記憶喪失を解決することの方が重要である。


「ちょっと訊くが、君はものしりなんだろう? 記憶喪失を治す方法を知らないか?」


「記憶喪失だって?」


 ヘルヴィムは素っ頓狂な声を上げた。唸りながら顎の辺りを摩る。面がぐらぐら揺れた。それにしても、面が気になる。あの下にはどんな顔があるのだろう。やけどでもしていて、人には見せられないとかそういうことなのだろうか。


「出来るかわからないが、ちょっと考えさせてくれ」


「方法があるのか」


 僕もまた彼と同じように素っ頓狂な声を上げてしまった。それに対して、ヘルヴィムがこちらを牽制するように掌を向ける。


「期待するな」


 可能性がないよりはずっとマシだ。ここは、彼の機嫌を損ねないように精一杯気を遣う必要がある。


「わかった。それと、さっき、あんたは早くこの島を出て行けと言ったが、どうしてだ。こんな楽園みたいな島から出たい理由はなんだ」


 確かに僕がいた場所に比べたら不便かもしれない。しかし、こんな風に自家発電も出来てコーヒーも飲めるなら、この島よりも良い場所なんて思いつかない。


 ヘルヴィムは、コーヒーと間違えて泥水でも飲んでしまったみたいな、つまりとてつもなく嫌な声を出した。きっと、あの猫面の下も嫌そうな顔をしているのだろう。


「君はそれを本気で言っているのか?」


 完全に侮蔑の籠もった声色で彼は言う。


「本気だ」


 きっと、ヘルヴィムは知らないのだ。今、この島の外がどんなにひどいことになっているのか。あそこに戻るくらいな死んだほうがマシだとさえ思える。


「信じられん」


「そもそも、船はあるのか?」


「船はない。まだな」


 含みのある言い方だ。


「当てはあるということか」


「船を出してもらうことは出来ないが、船の部品はある。組み立てているところさ」


 なるほど、この器用そうな男なら人間一人分を運ぶ船くらいは作れるかもしれない。


「豪華客船は作れないがな」


 僕の心を読んだみたいに、ヘルヴィムが言う。


「その部品や材料も、村から配給されたってわけか」


 ヘルヴィムは答えない。


「君は、村人の様子がおかしいと思わないか?」


 たしかに、大麻やらアヤワスカやら、当たり前のように蔓延している。健全ではないだろうが、そういう国もあるだろう。その国や部族の文化なら否定は出来ない。


「おかしいと感じないならいいんだ。君はこの島にいればいい」


 彼の言い方に、僕はムッとした。


「あんたは知らないだろうが、世界中でこの島だけが天使に攻撃されていないんだ」


「はあ? 何を言ってる」


 彼はまた、素っ頓狂な声を上げた。


「知らないんだろう。世界は天使に攻撃されているんだ」


 真面目な顔で言うと、彼は怯えるどころか破裂したように笑いだした。まあ、そうだろう。あの惨状を見ていないものに言ったところで、僕の頭が狂っていると思われるだけだ。僕だって、彼の立場だったらそう思っているだろう。


「君はここなら安全と思っているのか」


 ひとしきり笑い終えると、ヘルヴィムは言った。


「どういうことだ」


「君は何も知らないんだな。よし、君をひとつ、俺がいた村に案内しよう。真実を見せてやる」


 ヘルヴィムはカップに残ったコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。

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