第16話


 僕の父は暴力的な男だった。いつも、母や僕を殴った。


「あなたはお父さんとは違う、優しい男になってね」


 母は殴られた後、いつも僕の頬を優しくなでながらそう言った。大人になったら、絶対にあんな人間にはなるまいと、子供ながらに心に決めた。


 暴力とは無縁の人生を歩もうと思って、必死に勉強をした。僕の武器は暴力ではなくて頭脳なのだ。そのかいもあって、僕は最高学府で最高の友人に出会い、切磋琢磨していった。彼らと交わす議論は楽しかった。知性を戦わせるわけである。誰も怪我をしない。


 そのことを、同じサークルの女の子に話したら、その子は僕を馬鹿にしたように笑った。


「あなたの言葉で、心に怪我をする人もいるわ」


 大きな衝撃を受けた。フィジカルな怪我のほかにも、メンタルの怪我というものもあるのだということを、僕は初めて知ったのだ。そのことに気づかせてくれた女の子こそ、妻の天海だった。


 彼女は奔放な女だった。色んな悪い噂ばかりを聞いた。むしろ、彼女に関する良い噂なんて一つもなかった。品行方正を心がけてきた僕にとって、彼女は未知の生物だった。だからだろう、彼女に惹かれるまで時間はかからなかった。


 彼女とは喧嘩が絶えなかった。一度、彼女が僕の飼っていた猫を蹴ったことがあった。


 それから――それから、どうしたっけ。


 次に思い出せるのは、赤い拳。僕が忌避した暴力。


「結局、蛙の子は蛙ってことなのよ」


 元の顔がわからないほど腫れて、鼻も曲がった女が、天海と同じ声で言う。


 天海の偽物だ。


 きっと、天使の仕業だ。

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