第13話

 一見して、上手い絵だと思う。しかし、何が描かれているのかよくわからない。何か、魚のような、馬のような、あるいは人間のような、たしかに何某かの生き物なのであるが、見覚えのない生き物である。


 スピノザは絵を描き終えると、興味を失ってしまった猫のようにあくびをした。


「ヒッポカンポス」


 デカルトが真っ赤に染まった手をベロベロと舐め回しながら言った。


「何だって?」


「ヒッポカンポス」


 デカルトがもう一度言う。しかし、彼がなんと言っているのか聞き取れなかった。


「その、ヒポ……なんとかが、なんだっていうんだ」


「ヒッポカンポスは海の化物。知らない人間が海に入ると、ヒッポカンポスがやってきて食べられちゃうのよ」


 ルネが言った。


「デカルト、服で手を拭かないでって言ってるでしょ」


 デカルトはピタリと動きを止めると、僕の着替えとして用意された服で手を拭き始めた。それについては、ルネは注意しなかった。


「その、ヒポなんとか……」


「ヒッポカンポス」


 ルネが強い語調で言う。


「ヒッポカンポス……がいるから、僕は海に入れない?」


 にわかには信じられない話だが、島の外の世界では天使が空から降りてきて人間を殺しているのだ。ありえないとは言えない。もしかしたら、このヒッポカンポスも天使の仲間なのかもしれない。


 ヒッポカンポスの絵を眺めていると、不思議なことに、なんだか見たことがあるような気がしてきた。どこだったか――妻と行った美術館だったか。


「儀式をして、仲間だと認められないといけないわ」


 ルネは冗談を言っている風には見えなかった。デカルトも、スピノザも、至って真面目な顔をしている。


「儀式っていうのは?」


「大人に聞いて。私達はまだ儀式をしていないからわからないわ」


「そうなんだ。ありがとう」


「それとね」


 ルネが真っ直ぐに僕を射抜くように見つめる。彼女の瞳には不思議と力を感じた。子供らしからぬ、知性の力だ。頭が良いのだろう。この透き通った目に見つめられると、思考をすべて読まれてしまうような恐ろしさがあった。


「夜にね、化物が村にいるから気をつけてね」


「化物?」


 その話は初耳だった。祭りの日も、夜だったがそんな話はなかった。


「うん。人間を食べちゃうの」


「人間は食べても美味しくなさそうだよね」


 デカルトが口を挟む。


「そりゃあ一大事だ」


 僕も子供の頃そんな妄想をしたものだ。きっと、僕を怖がらせようとしているのだろう。子供らしいところもあるじゃあないか。


「あなたがそうなんだと思ってたわ」


「そうって?」


「化物」


 なるほど、だから、僕のことを人間かどうか尋ねたのか。化物と言うと、あの岩の化物のことだろうか。


「僕は違うよ。人間さ」


「本当?」


 不安そうな顔を向けた。先程まで勝ち気な顔をしていたのに、子供というのはコロコロと表情が変わって面白い。


「食べられちゃった人はいるの?」


 ルネが神妙な顔でうなずく。


「食べられちゃった人のことは、みんな忘れちゃうの。それが怖いの。みんなから忘れられるなんて悲しいでしょ」


「どうして君は覚えてるの?」


 僕が尋ねると、ルネは首を振った。


「私も、食べられたのが誰なのかわからないの。でも、食べられたことは確かなの。だって、私のパパは食べられちゃって、どんな顔だったのか思い出せないもの」


 なるほど。この子達が小さい頃に、事故か何かで父親が死んでしまって、それが化物のせいだと思いこんでしまったのか。それとも、母親にそう言われたのかもしれない。


「嘘じゃないのよ。化物の姿は見たの」


「わかった。注意しておくよ」


「本当よ。嘘じゃないの」


 ルネは必死に僕の服を握って言った。


「信じるよ」


 そう言うと、彼女はスッと僕の服から手を離した。


「あなたも、他の大人と同じなのね」


 彼女の見通す目は、僕が彼女の話を信じていないことに気付いたのだ。


 ルネはふいと顔を背けると、家から出ていこうとした。


「ねえ、僕以外に流れ着いた人を知らない?」


 彼女たちの背に向かって、僕は尋ねる。彼女の機嫌を損ねたのはまずかった。まだ尋ねたいことはたくさんあるのに。


「知らない」


 ルネが素っ気なく言う。


「物知り博士なら知ってるよ」


 デカルトが言う。彼の脇腹に、ルネは拳をめり込ませた。痛そうにデカルトはその場に膝をつく。その耳元に「黙ってて」とルネは囁いた。


「その人のことを教えてくれないか」


 物知りと言うなら会ってみたい。もしかしたら、妻を取り戻す助けになるかもしれない。なんとかして、記憶を取り戻したいのだ。


 ルネが僕を睨み「洞窟に住んでる」と言った。


「洞窟?」


「そう。すごく危険なんだから。おじさんが行ったら、すぐに死んじゃうんだから」


 ルネはそう言い捨てるように言うと、舌を出して、家から出ていった。


「洞窟は村を出て岩場の方だよ」


 デカルトが小声で教えてくれた。彼は脇腹を抑えながら、慌ててルネの後を追っていった。スピノザはいつの間にかいなかった。


 地面に描かれたヒッポカンポスの絵に視線を落とす。一体、これはなんなのだろう。何処で見たのだろう。


 ヒッポカンポスはよく見てみると、下半身が魚で上半身が馬、顔が馬面の人間のようだった。たしか、ギリシア神話でこんなような絵を見たことがあるような気がする。ケンタウルスのようなものだろうか。いや、違う。ケンタウルスは上半身が人間で下半身が馬であるが、ヒッポカンポスは上半身が馬で、下半身が魚のような尾ひれがついている。


 絵の横にヒッポカンポスと書いておいた。

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