第12話


 どこかで猫の声がして、追憶の旅から帰還すると、村長の顔が目の前にあって、思わず声を上げて驚いてしまった。


「海には入らないように」


 村長が再び言った。先程よりも、声が低かった。まぶたがたるんでいて目が細くしか見えないので、感情を読むのは難しかったが、どうやら本気のようだった。


 妄想から引き戻された僕は、慌てて返事をする。ちぇ、入ってみたいなあ、と心の中で舌を出す。妻と一緒に海に行けたら最高なのに。


 渋々了承すると、村長はひょっこりひょっこりとヒヨコのように歩きながら戻って行った。


 なんだかすっかり興がそがれてしまったので、家に帰って寝台に横になった。すると、入り口のあたりから視線を感じた。目を凝らしてみていると、小さな頭がひょっこり覗いた。村の子どもたちが、物珍しげに家の中を、いや、僕を覗いているのだ。


「入っておいで」


 僕が言うと、子どもたちは一瞬ためらった後、恐る恐る入ってきた。子供らしく好奇心が勝ったのだ。


 背が小さくて目が大きい子と、背が大きくておっとりした表情の子と、体が一番小さい女の子の三人組だった。彼らは、南の島の土産物屋に売っている手製の人形のような愛らしい格好をしていた。


「おじさん、誰」


 小さくて目の大きい快活そうな男の子が尋ねた。ボサボサの髪の毛を、パイナップルのようにてっぺんで縛っている。


「おじさんはね……誰なんだろう」


「変なの、わからないの、大人のくせに」


 パイナップルが笑う。


 三人の中で一番背が高くておっとりした子が、机の上を指さして「これ、食べていい?」と尋ねた。そこには、村長が持ってきた果物が置いてあった。初めて見る果物で、食べ方もわからなかったので、僕は「どうぞ」と言った。その子が食べるのを見れば、食べ方もわかるだろう。彼は、洋梨のような形の黄色いそれをひょいと手に取ると、そのままガブリとかじった。


 ぎょっとした。黄色い洋梨のような果実からは、真っ赤な血のような果汁が流れ出したのだ。全く予想だにしなかった光景に、僕は口をあんぐり開けたまま彼を見ていた。見ようによっては、人間の腕を食べているようにも見えた。


 僕が凝視していることに彼は勘違いしたのか、かじりかけの果実を僕の方に差し出した。中は真っ赤な果肉が詰まっていた。


「いや、いい」


 彼は嬉しそうに、それを一人で食べた。洋梨のように芯があったが、種は見当たらなかった。一体、何なのだろう。果物の爽やかな香りはせず、むしろ少し生臭さが鼻について吐き気がした。


「あんた、それ好きよね」


 女の子が呆れたような顔で彼を見る。ここに来て彼女が初めて喋った。喋らないので内気なのかと思いきや、気の強そうな様子が話し方からすぐにわかった。


「ちょっと、服で手を拭わないで。その色落ちにくくて大変なんだから」


「ごめんよ、姉さん」


 女の子は、彼よりもずっと小さいのに、姉であることに驚いた。いや、男の子のほうが大きすぎるだけかもしれない。


 先程まで、弟の後ろに隠れていた女の子は、僕が危険な人物でないと見るや、おどおどした様子を取り払って、不遜な態度になった。なるほど、女の子は小さくてもしたたかである。


「ふうん、あんた、他の大人と違う感じがするわね」


 彼女は僕の頭の先から足の先まで、たっぷり三往復ほど見た。


「そうかな。どんなところが?」


「まず肌の色ね」


 可愛らしい着眼点だ。


「あと、匂いが違うわ。あなた、人間の匂いがしない」


 彼女が何を言っているのかわからなかった。冗談を言っているような表情でもない。


「どういうこと?」


「どういうこともなにも、言ったとおりよ。あなた、人間?」


 唐突に、あの岩の化け物のことを思い出す。あれは夢などではなくて、彼は人間だったのだろうか。僕に逃げろと行ったあの化け物――気になる。


「ねえ、聞いてるの。大人のくせにぼうっとしちゃって」


「ああ、ごめん。ええと、君は……」


「私はルネ。弟はデカルト。そっちのちんちくりんはスピノザ」


 ルネがスピノザを指さす。先程までは彼もキラキラした目をしていたのに、僕に対する興味がなくなってしまったらしい。


「よろしく」


 デカルトはにこやかな表情で、小さく手を上げた。果物の芯の部分を手持ち無沙汰にブラブラしていた。


 スピノザはこちらを見ようともしない。地面を指でいじっている。


「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」


 丁度いいと思って尋ねることにした。大人に尋ねるよりは、子供のほうが教えてくれそうだ。


「どうして海に入っちゃいけないの?」


 子供たちは顔を見合わせた。そして、僕をまるで未知の生き物みたいに見た。


「おっさん、そんなことも知らねえの。大人のくせに」


 スピノザが地面に指で絵を描き始めた。この家には床板なんてものもなく、地面に囲いと屋根があるだけの住居なのだ。だから、床は当然土である。彼にとってみれば、他人の家の地面など大きなキャンバスに他ならない。


 見ているうちに、スラスラと描いてゆく。子供とは思えないほど流麗な絵だった。これが、土の上に描かれているとは思えないほど、陰影のくっきりした絵である。


「あんた、絵だけは上手いわよね。頭は悪いのに」


 ルネが呆れたように言うが、スピノザは絵に集中していて耳に入っていないようだった。


 やがて、彼は絵を描き終え手を叩いて土を払った。この住居の見えている地面の半分くらいを使って描かれた大作だった。


「これは……何?」

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