第6話
気がつくと、またあの天井を見上げていた。ひどく頭痛がする。
「起きたのね」
昨日の女医が、脇に座っていた。僕の腕に刺さっている針の先には、点滴がぶら下がっていた。点滴なんて上等なものが、この島にあるとは思わなかった。
「ここはどこ……」
「また、昨日と同じ問答をするつもり?」
島に流れ着いたのは夢ではなかった。昨日の酒のせいだ。いや、あれは酒ではなかった。アワヤスカのような、幻覚剤だったのに違いない。未開の民族の間では、未だに成分が不明の植物の樹液を酒に溶かしたものを飲むという。その前にジョイントも囓っていた。病み上がりにしては強すぎたのだ。
昨日、記憶が途切れる前に見たものを思い出した。
「そうだ」
ハッとして起き上がった。
「なあに」
「昨日、変なものを見たんだ」
「変なものって?」
「あれは何というか……岩の化け物?」
「なあにそれ」
彼女は笑った。笑うとえくぼが出来て、少女のようだった。
「あなた、お酒を飲んでひっくり返ったのよ。夢でも見ていたんだわ」
「そんな。いや、違う。僕はあの祭りから少し離れたところに散歩に行って……それで岩の化け物を見たんだ。あれ、でもどうやってここまで戻ってきたんだろうか」
「あなたは、お酒を飲んでひっくり返ったのでプラトンがここまで連れてきたって聞いたわ。きっと、夢でも見ていたのよ」
「そうか、夢か……」
あの散歩自体、夢だというのか。確かに、道に虹が架かったり虫と話したり、現実離れしたことが続けておこった。でも、あの岩の化け物の様子は――ただごとではなかった。
「逃げろ、か」
あの化け物の言葉をつぶやく。
「なあに、こんな美人が目の前にいるのに逃げ出したいの?」
彼女が悪戯っぽい目で僕を見た。
「あなたは……」
彼女の名前を聞いていなかったことを、今更思い出した。そんな僕の考えを見透かしたように、彼女は言った。
「シモーヌよ」
女医がタオルをボウルの水につけて絞った。その絞る姿がやけに艶めかしかった。
「シモーヌ……どこかで聞いた名だ」
フランスの哲学者の名前だった。僕は量子論に関する研究者であるが、量子論は哲学であるという者もいる。そのため、哲学に明るくなってしまうのだ。
「随分、高貴な名前だ」
「そうでしょう」
彼女は口の端を持ち上げて笑う。自分に自信のある人間の表情だ。僕はこういうタイプの女性は苦手だった。その点、妻は――。
「妻はどこに?」
唐突に、昨日、妻が僕に向けた表情を思い出す。彼女がどうしてしまったのか、それを確かめたかった。
「彼女は……」
シモーヌの表情が曇った。何か言いづらそうにしている。
「良いんだ、何を言われても驚かない心づもりはしてある」
昨日の妻の反応を思い出していた。僕のことがわからなくなってしまったのだろう。いきなり、知らない男が夫だと言い出したら、困ってしまうのも仕方のないことだ。
シモーヌがチラと僕の表情を盗み見るように、視線を上げた。
「あのね、気を悪くしないで欲しいんだけど、彼女もきっと、ショックだったんだろうと思うけど……」
歯切れが悪い。
「なんですか、はっきり言ってください」
早く結論を聞きたかった。いや、すっきりしたかったのだ。彼女が、この先に何というか、腹の底ではわかっていたのだ。どう転んでも、僕が望むような結末にはなり得ないことを。
「彼女……結婚なんてしていないって。貴方のことも知らないって言うの」
やはり――僕は深くため息をついた。覚悟していたことだが、落ち込んでしまう。吐きそうだ。
「酒をくれないか。できれば強いやつを」
彼女は何も言わず、茶色い瓶からグラスに酒を注いだ。僕が手を差し出すと、彼女は一瞬それを引いた。
「それとね」
先程から彼女は歯切れが悪い。
「何だよ。いっぺんに言ってくれないか」
僕はイライラして言った。彼女は逡巡するように視線を揺るがす。
「うん、あのね。彼女、記憶をなくしてなんかいないって……貴方のことは本当に全く知らないって。事故にあったっていう船のことも、知らないって」
「何だって?」
僕は動揺した。どういうことなのだ。もしかして、記憶がおかしいのは僕の方なのかと思ってしまう。
彼女からグラスをひったくるように奪うと、中身が半分以上零れてしまった。気にせず一気に飲み干した。昨日、正体不明の薬物のような酒を飲んでしまったことを反省したばかりなのに、全くその反省を生かせていない。呑んでから、アッと思い出した。
コレは酒だ――安堵のため息が出た。
頭痛が和らいでゆく。馴染みのある脳の反応と、食道が熱くなる感覚。空になったグラスを眺めてホッとする。昨日、失敗したのに、また中身を確認せずに一気に飲んでしまった。なんと学習しない男なのだろうか。
ラベルも何も貼っていない茶色い瓶から、グラスに酒を注いだ。手が震えて上手く注げない。ほとんどこぼしてしまった。シモーヌが代わりに注ごうと手を出してくるが、それを断った。もどかしくて、瓶のままラッパ飲みした。
「ほどほどにね」
彼女は憐れむような目で僕を見ると、家から出ていった。
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