第7話
妻は身勝手な女だった。何度、彼女の浮気を咎めても、一向に改める気配は無かった。
身勝手というより天真爛漫と言った方が良いかもしれない。彼女のやることには、善悪の区別はないように見えた。
彼女のそう言う気質は精神病の一種で、少女性が暴走させているに違いないと考えた。僕は精一杯彼女を支えたつもりだったが、時に彼女は僕を激しく拒否した。そうして、夜の闇へと消えて行ってしまう。
一度は、他人の赤ん坊を盗んできたこともあった。なんとか警察沙汰にはならずに済んだが、彼女は全く悪びれる風もなかった。今回もきっと、そういう彼女の気まぐれに違いない。
だからといって、僕にダメージがないわけではない。つい酒をもう一口、もう一口と続けて飲んでしまう。シモーヌが持ってきた酒は、日本酒とも、洋酒とも違う。特に鼻腔をくすぐるようなフレーバーも感じない。エタノールよりも少しまろやかな、焼酎に近いような酒だった。
ポケットを探ると、昨日の女にもらったジョイントが一本出てきた。それを咥えたが、火がない。わざわざ火を借りに外に出ていくのも面倒なので、ジョイントを咥えたまま寝転がった。
ここは一体、何なのだろうか。ここが、我々の船が目指していた楽園なのだろうか。どうして、僕と妻以外は流れつかなかったのだろう。
確かに、船が事故にあったことだけは覚えている。
詳しく思い出そうとすると、猛烈な頭痛がした。あまりの痛みに、吐いてしまった。
酒が鼻から垂れる。痛くてたまらない。飲み過ぎだろうか。上手く体が動かせなくて、寝台から転がり落ちてしまった。
「おぉい、間抜けのお家はここかなあ。お前は船だけじゃなくて寝台からも落ちてるのか。間抜けだなあ」
不快な声が聞こえた。涙目で見上げると、あの蛇男が断りもなく家に入ってくるのが見えた。
「おいおい、汚えなあ。人様から借りてる家で何してくれてんだよ」
「うるさい、出ていけ。お前の家じゃないんだろ」
蛇男が下品に笑う。
「俺の村のものは俺のものだろ」
ため息をついた。余計頭が痛くなる。寝台に戻りたいが、上手く体を起こせない。
「調子はどうだい、兄弟」
家の入口から、野太い声が聞こえた。プラトンだ。彼の名前を呼ぼうにも、上手く声が出なかった。
「あ、おいソクラテス。またお前はいたずらしてるのか」
プラトンが慌てて僕に駆け寄って、体を起こそうとしてくれる。
「いたずらじゃねえよ。俺はこの新参者に村のことを親切にもおしえてやってるのさ」
「何が親切だ。お前は、昔からどうしてそうやって、他人に意地悪ばかりするんだ。いい加減大人になれ」
「うるせえな、クソジジイ」
「じ、ジジイだと。同い年じゃないか」
プラトンが僕を離して蛇男――ソクラテスを捕まえようとすると、蛇のようにするりと逃げて家から出て行った。この二人が同い年とは思えない。プラトンは髪の毛もヒゲも真っ白だ。老人だとさえ思っていた。それに比べて、ソクラテスは二十代の後半か三十代の前半くらいに見える。
「まったく、あいつは……」
プラトンがイライラした様子で頭をかく。
「すまなかったな。あいつはソクラテス。一応、村長の息子だから、誰も強く言えなくてな。次期村長になるっていうのに、あいつはいつまで経っても子供のままで」
言いながら、プラトンは僕を抱えて寝台の上へ戻し、背中をさすってくれた。また床に吐いた。それを嫌な顔一つせずに掃除してくれる。本当に、彼は親切な男なのだろう。きっと、下心なく妻を保護しているのだと言うことに、ひとまず安心する。
「ほら」
プラトンは僕が床に落としたジョイントを咥え、マッチで火をつけた。そのあと、火のついたジョイントを僕の口の突っ込んだ。
「二日酔いにはこれが一番だ」
そんなはずはないだろう、こいつも大概やばいやつだな――と思いながら深く煙を吸い込んだ。肺に煙が満ちる。肺に触れる煙は煙草とは違った感触だ。
最初の数秒間は、意識がどこかの穴に吸い込まれるようだったが、すぐに気分が落ち着いてきた。先程まであった不快感は、僕の胴体とともにどこかへ消え去った。今、僕には頭しか無い。首から下は無の空間だ。
「曲がってきた」
息も絶え絶えだったはずなのに、スルリと声が出る。
「そうだろう」
言いながら、プラトンは僕の口からジョイントをかっぱらって、自分で咥える。何度か深く吸い込んだ後、再び僕の口に戻した。あのモジャモジャのひげと何度もキスをしているような気持ち悪さがあったが、それよりも無量の憩いが僕を癒やした。
いつの間にか、ジョイントはもう指でつまめないほど短くなっていた。まるで線香花火の終わりを見るような、悲しい気持ちになった。上等なものではないので、クラッチ(紙フィルタ)もついていない。本当に、ただ紙で巻いただけのものだ。プラトンが、木の枝に刺して最後まで吸おうとしていたが、落っことしてしまった。
「元気になったかい、兄弟」
お前の兄弟ではない、と何度心で思ったことかわからないが、僕を心配して来てくれたことには感謝をせねばらない。
「おかげさまで。ところで、僕の妻はどうしている?」
牽制のつもりだった。昨日の感じからすると、妻は、現在の僕よりも彼の方を信頼しているように見えた。
「元気にしてるよ。少なくとも兄弟よりは」
プラトンはニカっと笑うと、黄色い歯が見えた。
「僕のことをなにか言ってた?」
「いんや、なにも」
悪口を言われるよりも、話題にすら出されないほうが辛かった。
「まあ、いずれ思い出すさ。焦らないことだ」
プラトンが力いっぱい僕の方を叩いた。肩の骨が折れて飛び出しそうだった。
「本当に、あんたの奥さんならな」
小さく呟く声は、僕の耳には届かなかった。
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