第4話
あの女医が言いふらしたのだろう、すっかり怪我が良くなって元気になった僕を歓迎するための宴を、村人たちが催してくれた。元来の陽気な人たちなのだ。
主賓だと言うのに、僕は放置されてぼんやり座っていた。遠くに山の陰が見える。一つ、ひときわ大きくて存在感のある峰が見える。
大きな炎が、僕の顔を照らした。炎に目玉を焼かれているみたいに、まぶしい。
「あんたか、流されてきた間抜けって奴は」
不躾な声が聞こえてきたほうを見ると、手足がひょろりと長い、狡猾そうな顔の男だった。切れ長の釣り上がった目と、長い舌をチロチロさせる姿は、蛇を彷彿とさせた。いや、蛇のような筋肉はなさそうで、ガリガリに痩せている。
面倒くさくて黙っていると、それが気に喰わなかったのか、彼は僕の前に並べられていた果物を一つ取り上げるとかじった。そしてそれを僕に向かって吹き出す。顔をねっとりとした果汁が垂れる。目に入って滲みた。それでも無視していると、もう一つ果物をかじって、また吹き出した。
「やめてもらえますか」
睨みつけるが、彼はニヤニヤした顔を崩さなかった。
「喋れないのかと思ったよ」
馬鹿みたいに大きく口を開けて、下品に笑う。こういう輩は苦手だ。
「やめなよ。可哀想じゃないか」
髪の毛の長い、やたら色気のある女が、彼をたしなめた。
「なんだよ、あんた、こういうのがタイプだったっけ?」
男が馴れ馴れしく触ろうとするが、うまくかわされた。
「けっ、白けたぜ。じゃあな、間抜け」
ご丁寧に、男が僕の料理に唾を吐いてからどこかへ歩いていった。女が笑顔で手を振っている。彼女が手を振るたびに、良い香りがこちらに漂ってくる。
僕が座っている前のテーブルには、果物がこんもりと盛られていた。先程の男が食い荒らしたとしても、充分な量がある。あとは肉と魚と芋と豆が不格好な皿に載せられていた。一見シンプルではあるが、多彩な調味料があり、東南アジアっぽい香辛料のきいたものが多かった。豆は粉っぽく、目を覚ましたばかりのせいか、あまり食欲がわかなかった。だから、彼が唾を吐いたとしても僕にはあまりダメージがなかった。
男が何処かへ行って、料理も食べる気がない、手持ち無沙汰に炎を見つめてぼんやりしていると、隣に座っていた先程の色気女が、僕の顔をじっと見つめていた。彼女はいつの間にか、花魁が持っていそうな、長い煙管をくわえていた。先から紫煙が揺らぐ。しばらく煙草を吸っていないことを思い出して、鼻がヒクヒクと痙攣した。
「あんたも喫みたいのかい?」
彼女が僕の顔に煙を吹き付けた。普通のたばことは違う臭いに、咳き込んでしまった。
「くれるのかい?」
尋ねると、彼女は大げさに笑って胸元から紙巻き煙草を一本取りだした。手作りの不格好な紙巻きで、先端をねじってあった。
「さっきはあの馬鹿が悪かったね。これで気分を変えておくれよ」
「ありがとう」
受け取ると、僕はそれをくわえた。女が煙管をくわえたまま僕に顔を寄せてきたので、煙草の先端を彼女の火種に近づけた。吸い込むと先端が一瞬燃える。
煙を吸い込んで気がついた。これはジョイントだ。一般に売っているたばこではなくて、紙巻きの大麻だ。
普通のたばこだと思ってたところに不意打ちを食らったので、むせてしまった。
「あらまあ、お坊ちゃんかい?」
嘲笑われたような気がして、むっとした。
「ただの煙草じゃなくて驚いただけだ」
独特の香りだった。スタンダードな大麻と言うよりも、それよりもっと野性味のある――松脂のような生臭さがある。
ムッとしたのもすぐに忘れた。生臭ささえ我慢すれば、上等なハッパだ。すぐに心地よくなってくる。脳がジンと痺れる。指先まで痺れてくれば上等だ。体の力が抜けてくる。
「良いだろう? こうやって作るのさ」
悪戯っぽい目で、女は僕を見た。僕が何か答える前に、彼女はまたしても胸元から何かとりだした。紙とハッパと――松脂のようなもの。いや、これはハシシだ。ハシシを細長く整形してジョイントに巻き込んでいた。
彼女はジョイントを巻き終えると、僕のズボンの中に突っ込んだ。そして、咥えていた煙管を口から離すと、不意に僕にキスをした。僕が目を回していると、彼女が胸いっぱいに吸い込んだ煙を口の中に流し込んでくる。それを今度は僕が胸いっぱいに吸い込むと、やり返すように彼女の唇にむしゃぶりつき、煙を返した。お互いの唇から、唾液が止めどなく垂れた。周囲の誰も、僕たちを咎めたりしなかった。
再び彼女が煙を送り込んできたタイミングで、僕は咳き込んでしまった。彼女は勝ち誇ったような目で、僕を見た。僕は涙目のまま彼女を睨め上げた。
いつの間にか、指に挟んだジョイントがどこかへ消えていた。
唾液まみれの口元を拭うと、目を閉じた。まぶたの裏に幾何学的模様が見える。鼻から抜ける自分の息が生臭かった。
広場の中心には、まだ煌々と火が焚かれていた。火は空気を暖めて、黒い煙を空へ送った。それが天にいる何者かへの信号のように思えた。
煙を目で追っていくと、星の天蓋が頭上を覆っていることに気付く。これほどの星を見たのは、生まれて初めてだった。
女が、とろけたような目で僕の頬をグイと自分の方へ向ける。先程の続きがしたいらしい。女の匂いをプンプンさせていた。しかし、僕は彼女の誘いには乗らなかった。なぜなら、視界の中に探し人の姿を捉えたからだ。
「天海あまみ」
彼女の姿を認めると、僕は慌てて立ち上がり、自然と彼女へ走り寄っていた。すっかり頭がシャッキリしていた。
「無事だったのか」
座ってボンヤリしていた彼女の両肩をつかんで、こちらを向かせると、その表情に怯えが走った。首に赤黒い痕がある。
「どうした、天海。どこか悪いのか? 怪我してるのか?」
自分でも思っていたよりも、強く彼女の肩を掴んでいたらしい。彼女は苦痛の表情を浮かべ、距離をとるように後ずさった。
「どうしたっていうんだよ。僕がわからないのか」
追いすがるように、四つん這いになって彼女を追う。すると、男が僕と彼女の間に立ちはだかった。
「どいてくれ」
「落ち着けよ、兄弟。どうしたってんだ」
白い口ひげを蓄えた、大柄な男だった。僕では喧嘩で勝てそうもない。それに、彼と兄弟になったつもりもない。
「彼女は僕の妻なんだ。一緒の船に乗っていて、僕はずっと彼女の安否を心配していたんだ」
男は天海を振り返って「そうなのか?」と尋ねた。しかし、彼女は僕が期待したような反応をしなかった。僕を見て、曖昧に首をかしげただけだった。
「まさか、記憶喪失?」
「そのようだ。彼女は、海辺で見つけたんだが、目を覚ましたとき、何も覚えていなかった」
妻の代わりに男が答えた。苛つかせるやつだ。お前になんて訊いていないのに。
「だとしても、僕がそばにいればすぐに思い出すさ。さあ、おいで」
手を伸ばしても、天海は怯えた顔を見せるだけだった。その手を、男が優しく押し戻す。生暖かい体温が、嫌に現実的だった。
「本当に君が夫だったとしても、彼女が怯えている。安心するまでは距離を置いてあげないか。それに……」
男がチラと妻の首元の痕を見た。こいつ、僕をDV夫だとでも思っているのか。
「お前に何がわかる。僕は彼女の夫だぞ。これは覆しようのない事実だ。お前なんぞに意見される筋合いはない」
カッとなって、僕は彼に殴りかかった。恥ずかしいことに、僕は生まれてこの方、喧嘩なんてしたことがない。兵役で少し戦闘訓練をかじった程度である。そんな僕の拳は、柔和な笑みを浮かべた男に優しく包み込まれ、押し戻された。男として侮辱されたような気持ちだった。
いつの間にか、僕たちの周りに人だかりが出来ており、村人が下品に僕たちを煽っていた。見ると、先程の蛇男が扇動していた。
「わかったぞ、僕の妻を奪うつもりだな」
震える指を彼に突きつけ、僕は素っ頓狂な声を上げた。もはや、自分でも何を言っているのかわからないくらい興奮していた。すっかり大麻の成分は抜けたと思っていたが、そんなことはなかったようだ。ろれつが回っていないことさえ、自分ではわかっていない。
「おいおい、やめてくれ。俺は、君達にとって一番良い方法を考えているだけだ」
「だから、彼女は僕と一緒にいるのが一番……」
「どうしなすった」
僕が叫んでいるところに、村長がのんびりした足取りでやってきた。老犬のような出で立ちにも関わらず、彼には風格があった。今すぐ口から飛び出しそうな言葉が、胸の内へと留まった。
「こ、この男が、僕の妻を奪おうとしているんです」
僕は口から泡を飛ばしながら村長に訴えた。そんな様子とは反対に、村長はニコニコしながら歩いてくる。このままだとぶつかる、と思って目をギュッとつぶった。
果たして村長は僕にぶつかることはなかった。恐る恐る目を開いてみると、鼻息がかかるくらいに顔を近づけて、村長が僕の顔をのぞき込んでいた。
「な、なんですか」
一歩、また一歩と後ずさる。
「大丈夫、大丈夫」
村長が言う。何が大丈夫なのかわからない。それより、吐き気を催すほどの激烈な口臭に意識を失いそうになった。実際、足の力が抜けてその場に尻餅をついてしまった。途端に、大麻の成分が体から抜け出してゆくような感覚がした。憑依していた生き霊が体から出ていったような、そんな不思議な感覚だった。
ハッと顔を上げると、男が手を差し出していた。僕がその手をつかまないでいると、無理矢理僕の腕をつかんで立ち上がらせた。
言い争っているうちに、妻はどこかへ行ってしまっているようだった。彼女の姿がみえなくなると、先程までの強烈な怒りも一緒に消え去っていた。
「さっきは……申し訳ない」
ばつが悪そうに言う僕に、男は磊落に笑った。
「ははっ、男は女のことになると馬鹿になるからな。仕方ない。俺はプラトンだ。よろしくな」
プラトンだって? 何の冗談だろうと思ったが、冗談を言っている風には見えなかった。
「僕は……あれ?」
おかしい。自分の名前が思い出せない。
「僕は……僕は……」
頭の中がグルグル回っている。一体どうしたことだ。何が起こっている?
「気にするな。事故に遭ったんだ。不思議はないさ」
プラトンの言葉には力強さがあった。それだけで、不安が吹き飛ばされるような、そんな気持ちにさせた。
「ありがとう。僕はなんて馬鹿なことを」
「まあまあ。今日は祭りだ。飲もう」
あっという間に、僕たちは長年にわたる親友かのように仲良くなった気分だった。プラトンは焚き火の近くへ僕の手を引いていった。村長も、老犬のような歩みでついてくる。火の回りでは、年のいった男達が輪になって座っていた。冗談みたいに大きい杯をみんなで回し飲みしている。
「お、プラトン。やっと来たか」
みんながプラトンを歓迎した。同時に、プラトンが連れてきた僕も歓迎された。
「まあまあ、まずは一献」
そう言って、杯を僕に押しつけてくる。暗くてよくわからないが、酒のようなものが入っているようだ。進められるままに、僕はそれを一気に飲み干した。男達から「オーッ」という声が上がった。
杯を返そうと思ったが、手に力が入らなかった。自分の体ではないみたいな気分だった。そのうち、視界が極彩色に染まってゆく。
これは、酒ではない――気付いたときには遅かった。
「いきなり一気に行くなんて……」
プラトンが焦ったような顔で僕を寝かせた。周りに何か言っているが何を言っているのか理解できなかった。
「大丈夫か? 聞こえてるか?」
プラトンが僕の頬を叩きながら言う。確かに叩かれているはずなのだが、肌の感触がまるで違った。自分の肌がゴムになったような感覚だった。彼の顔はピカソの絵画のように歪んでいった。夜のはずなのに、太陽がでている。顔の横には、小人が並んで行進していた。いつからが妄想で、どこからが現実なのかまったくわからない。まぶたを閉じているのに眩しい。極彩色の世界が、僕を指先でつまんで離さない。どこまでも追いかけてきて、頭からバリバリかみ砕いて、僕の最後の一滴までを啜る。魂が解放されて、超高速で僕の体がすっ飛んでいく。
天使が攻めてきた日のことを思い出す。あの日も、空は極彩色に染まっていた。思えば、あの日、すでに世界は終わっていたのだ。
人類が空を見上げている間に、世界人口の半分が蒸発した。文字通り、白い煙になって消え失せたのだ。
自分の隣にいたはずの人が蒸発しているのを見ても、多くの人はそこを動けなかった。彼らの顔は、一様に安心したような、幸福なような顔をしていた。
死を望む人ばかりではなかった。一目散に逃げだした人たちは走った。あの空が見えなくなる場所まで。まるで、アリの行列が一目散に逃げ惑うみたいに。僕もその一人だった。
「ちょっと酔いを覚ましてくる」
急に立ち上がったから、めまいを起こして倒れそうになった。プラトンが支えてくれたが、僕はその手を振り払って歩き始めた。
「一緒に行こうか」
プラトンが言う。僕は背後の彼に向かって手を振った。
とはいえ、この島のことは何も知らない。それでも、人がいなくて静かなところへ行きたかった。
歩く道は、真っ暗なはずなのに、僕の歩いている道だけ虹が架かっているように見えた。次第に遠のいてゆくはずの音楽や太鼓の音も、なぜか耳元をかすめるように大きくなったり、逆にあたりの虫の音が鮮明に聞こえたりする。
「虫さん、こっちは大丈夫な道かい」
草むらに向かって話しかけると、虫が答えた。
「その虹の上を歩いている限り平気さ」
何が平気なのかわからなかったが、僕はその答えに安心した。不意に草むらから飛び出してきた虫を踏み潰しながら、僕は虹の上を歩き続けた。
猛烈な尿意が僕を襲った。その場でズボンを脱いで放尿する。開放感が気持ちよかった。
そのとき、尿の着弾点からうめき声が聞こえた。
「逃げろ……」
うめき声は、よく見るとまるで岩の化け物だった。真っ黒な肌で、顔の真ん中に目が一つしか無かった。
「早く逃げろ……手遅れになる前に……」
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