海の毒薬
花森ちと
人魚漁
わたしは人魚漁をして生きている。
人魚は特別な生きものでこの地球上にちょっとしかいない。だからわたしはそんな貴重な人魚を傷つけてしまわぬようにやわいシルクの網で包み、怯える彼女たちにやさしい言葉をかけながら、よく切れる包丁で肉をはがしていく。
人魚の肉は長寿の薬で重宝されていて、とおい昔は不死の薬とも噂されていた。しかしその噂は真っ赤な嘘だった。だからわたしは嘘つきな彼女たちを殺すことに対して罪悪感を感じていなかった。
いや、罪悪感どころかこれが当たり前だと思っている。
わたしのひいおばあさんが若いとき、彼女の妹は重い重い病気に罹って瀕死寸前だった。
妹は十九歳にして一流のピアニストだった。
有名な先生からは「きみを
『
医者からその言葉を受け止めたあと、何度も何度も泣いて、何度も何度も絶望しながら妹はそれでも「食べる」と決断をした。まだ若く幼い妹には身を切り裂くような決断だった。
青く澄みきる八月の正午、妹の机に透明な桃色の肉が置かれた。人魚の肉だった。最高級の、若い娘の頬の肉。計らずもそれは妹と同じ十九歳の人魚の肉だった。
妹は恐怖で頬を歪ませながらそれを口に入れ、咀嚼し、飲み込んだ。
その瞬間、妹の脳裏に赤い光景が広がった。喘ぎながら吐く娘の断末魔、娘の泣き声、娘の肉が落ちる音。妹は絶叫した。まぼろしの人魚と同じように。この身の儚さを嘆くように。
それから妹は眠りについた。これが人魚の呪いだ。幻聴に幻覚、終わりの見えない昏睡状態……。妹――ないし曾祖叔母は今でも眠っている。十九歳のすがたのままで、か弱い寝息をたてながら。
それからわたしの一族は人魚への復讐を立て人魚漁をしている。
これが道理にかなっているのかはわからない。それでもわたしたちは惰性的に、もう何十年も人魚を殺し、売っている。
ある日の早朝、わたしはいつも通り沖に出ていた。昨晩は甲板の血を遅くまで拭っていた。少しでも血が残っていると人魚たちは匂いに敏感だからすぐに逃げてしまう。
瞼の裏がぴりぴりして、今にも夢の世界へ溶けてしまいそうだ。
人魚は娘から女に変わる時、猛毒を吐いて眠りにつく。
それはあたらしい命に生まれ変わるためなのよ、とわたしのおばあさんが話していた。しかし人魚はニンゲンに食べられるともう魂の循環に加われないらしい。だからおばあさんは生まれてから死ぬまで人魚漁を反対していた。
しかし人魚漁が生み出す魔力は一族をとりこにして、二度と離そうとはしなかった。人魚の肉を「えらい人」に売ると、普通のニンゲンが一生はたらき続けても貰えないほどの莫大な利益をたった百グラムで手に入れることができるのだ。だからわたしたちは「えらい人」の機嫌を何十年も伺っている。そのお金でわたしたちは生きている。その「お金」で人魚たちは死んでいる。
船を走らせて潮風のよく薫るポイントへ着くと、岩陰をじっと眺める。
『人魚の気配を感じたら、すぐに網を降ろすんだ。鱗がきらり光ってからでは遅い。だからよく感覚を鍛えていくんだよ。おまえの意識の網を海に張るように……』
中学生の頃、漁に連れて行ってくれたあの日の母の言葉を思い出しながら、じっと集中する。わたしの意識の網を青く深い海へ張るように……。
リン。
三回夜が明けると鈴のなるような刹那の中で身体のずっと奥が一瞬こわばった。わたしは鷲よりも速く網を投げ入れる。何よりも速く網を投げ入れる。何よりも、何よりも。
それから人魚を引き上げる作業に移った。これがいちばん手がかかる。叫び暴れる人魚を人の世へ引きずり込むのはいつでも心が痛かった。辛かった。
しかしこの人魚は暴れなかった。
ちがう生きものを掬ってしまったかと思った。
しかし網のなかに居るのは青い瞳に藍の足鰭。紛れもなく人魚だった。
人魚は気を失ったかのように網の中から動かない。
わたしは安堵した。暴れられない方が解体が楽だ。
さばき包丁を握りしめ、人魚へ近づく。
甲板がキシキシ音を立て、シルクの網は消えていく。
こぽっ、こぽっ。人魚は喘ぎながら液体を吐き出している。
人魚は気を失っているのではなく、生まれ変わりの準備をしていたのだ。
「く、くるしい。だれか、たすけて」
人魚のゆたかな胸がゆっくり溶けていく。これでは売り物にならない。
「ねえ、どうしたら楽になれるの?」
魔が差した。言葉を飛ばしたその直後、ただ後悔が身体の奥で藻掻いていた。
「キスして。おかあさま、が、そう、したら痛いのおさまる、って、いってた」
それから人魚は虚ろな瞳で遠くを見遣った。
「あたしね、地上を、あるくのが、ゆめ、だったの。だから、おかあ、さまも、おねえさま、たちも、誰もしらない、とおい、この、海まで、来てしまった。でもね、まさか、ここで『うまれる』、なんて、ゆめ、にもおもわなかった、のよ……。それに人さらいに、つかまる、なんてね。あたし、これから、どうなっ、ちゃうのかな。いたいよ、くるしいよ」
人魚の毒はゆっくり広がっていく。
「きみはもう売り物にならないよ。もう身体が少しずつ溶けてしまっている」
「そう。いっそ、このまま、殺してくれるほうが、いいのかな、って、思っちゃった。ねえ、人さらい、は、人魚のこと、どれくらい、知って、いるの? 最期、に、ききたい」
「きみたちの肉は長寿の薬だということ。『とくべつな処理』をしないと呪いにかかること。そしてきみたちは毒を吐いて生まれ変わること、かな」
「へえ、それしか、知らないんだ。あたしたち、はニンゲン、のこと、よく識って、いるの。『生き残るためには敵をよく識るべき』おかあさまが、よく、いっていたわ。もう、会えない、けれど」
こぷっ、こぷっ。
あれから長い沈黙の間、人魚は船を、網を、身体を溶かし続けた。
「くるしい、くるしい、こぷっ、くる、こぷっ、いたいよ、いたい、いたい」
悶える人魚は涙を流しながら毒を吐く。
「ねえ、どうして人魚は毒を吐いても声が枯れないの?」
「人魚、の、いのちは声に、ある、のよ。だから、声が、なくなる、のは、死ぬ直前、声が、出るのは、生まれたちょくご……」
人魚は我に還ったようにハッと水平線をみつめた。
そして海へ歌うように叫びだした。そして声を生み出した。この生に別れを告げる最期の歌を。次の生へ繋ぐはじまりの歌を。
「ねえ! あたしのなまえは『しぃー』! また、来世で……」
すると今まで吐き続けてきた毒が膜を張るように人魚を包んだ。
それから命が燃える音が海に響き、人魚を食い尽くした毒が役割を終えたかのように消えると、まん丸な『卵』がそこに落ちていた。
夢から醒めるとわたしは甲板で横になっていた。冷ややかな夜風がわたしの頬を撫でると、もう海に居てはいけないような恥ずかしい思いが胸を押し潰していた。
幸い、あれはただの夢だったのだから、『しぃー』はどこにも居なかった。
しかしわたしはもう人魚漁から目を背けてしまいたかった。
気晴らしにラジオの電源を入れる。
流れてきたのは神秘をはらんだ揺蕩う旋律――皮肉にもそれはツェムリンスキーの人魚姫だった。
わたしはどうして人魚漁をしていたのだろう。
泣き叫びながら命乞いをする彼女たちを殺して、売って、そのお金でわたしたちは生かされている。わたしは人魚によって生かされている。今まで殺した命にわたしの命は生かされている。
『一族の、人魚に対する復讐のため。だからしょうがない。おまえは何も考えなくていいのだ。だからまた漁をはじめなさい』
ただ惰性的にわたしは人魚漁を続けていけば良いのか? そこまでひいばあちゃんの妹の死が惜しかったのか? きっとあの人も辞めるべきだと言うはずだ。
でも、どうして今までわたしは人魚を殺すことに対して何も感じていなかったのか……? ああ、自分が恐ろしい、自分が憎い、自分が嫌いだ……。
ラジオから鳴る、深く儚い管弦の海の音色に『しぃー』はどこかで息づいていたのだろうか。かのヒロインのように陸地に住む王子さまに恋をしていたのだろうか。
いや、『しぃー』だけじゃない。わたしが今まで殺してきた人魚たちにもきっと夢とか恋とか思い出があって、それを一途に想う最中にわたしはすべて握り潰してしまっていたのだろう。
それからわたしは生きていることが恥ずかしくなって、おおきく深呼吸をすると、青いこの世界へとびこんだ。
頭上に輝く水面にはまん丸の命がたゆたっていた。
海の毒薬 花森ちと @kukka_woods
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