第5話

「オ゛エェェッ・・・!うっ・・・。」

オレンジに染まる海水の上で、緩やかに揺れる船の一角。窓一つもないトイレの個室に私は一人閉じこもっていた。

コンコン!

「ねぇ、ちょっと大丈夫?」

指先で弾く軽いノックと鈴の憂いに満ちた声色。いつまで経てども戻らぬ私に様子を見に来てしまったのだろう。

「うっ・・・。大丈夫・・・。ウエェエ!」

自分自身で口にしながら、それが愚かな強がりであると再認識する。口の中身は胃液の酸味で不快感ばかり。体全体が言葉に出来ない喪失感へと誘われて行く。

「いっ、いや、本当に大丈夫?それって船酔いなん?それとも・・・。」

鈴の言葉が一段大きく外で響いた。人生で初の船だと言うのに、私はこれが”船酔い”ではないと、そう確信する。体の底の更に奥深く、本能にも似たそれがこの場を拒絶していた。

「こっ、これは・・・。これは船酔いじゃない・・・。かもしれん。」

必死の思いで這う様にしつつ、扉の向こうへ想いを伝える。

「博多に着くまでは後大体三十分位かかる。何とかそこまで・・・。」

「うっ、何とか頑張る・・・。」

背中を伝う冷や汗と共に、私は小さくそう答えていた。



「そんで、海好ちゃんはどんな感じやった?」

座席に戻った鈴へ素早く島津が尋ねる。

「多分、恐怖とか緊張とかで船酔いが激しくなってるんじゃないですかね。知りませんけど。」

彼女は咄嗟に窓の向こうへと目線を逃すと、淡白なまでの空気を作って言葉を紡いだ。すると、

「そうか・・・。僕ね、もう何十年ってこの辺の海と付き合ってきとるけど、あの子を見とるとうまく言えんけど、”海に嫌われとる人間”って感じがするんよ。」

島津が突然渋い顔をし口を開いた。

「はぁ・・・。それってつまりどう言う、もしかして、何か今の所の解決策とか・・・。」

鈴は思わず困惑を示す。冗談混じりの言葉だろうか。比喩と取るには少し具体的すぎる。まるで海には自我がある様に妙な言い回し。当然、聞き返さずにはいられなかった。しかし、

「いや、まぁ悪いことやけど、試練か何かと思って苦しんでもらうしか無いやろうな・・・。今のところは。」

返って来たのは含みを持って曖昧な答え。言い終えた後で島津は不気味に歯を出して笑う。「分からない。」引き攣った顔で、鈴の心にはそれだけであった。



「あ、あの・・・、岬さん。ちょっと今よろしいでしょうか?」

日の気配が消え、街の窓には照明灯がちらつき始める。夜の始まりだ。そんな時の事、ベッドカーテンの向こう側から怖気ずくような看護師の声。

「はい、何か用ですか?」

岬は少し気を張ったような態度で答える。薄くではあれど勘付く部分があったのだろう。

「実は、お孫さん?の”海好”と名乗る方が受付の方に・・・。」

「はぁ、会いたくないと事前に言っていた筈ですが・・・?」

彼女は額に手のひらを当てて、大きくも深い溜息を漏らす。

「いや、そうなんですけど・・・。」

看護師はそれに愛想笑でどうしようも無い旨を伝えた。恐らく彼女も上と下からの板挟みであり、苦しいのだろう。

「つまり、あなた達は私に自分で話を着けろと、そう言いたい訳ですよね?」

岬は半分諦めるように視線を向けては、腹を括って言葉を吐き出す。

「十七年間、あの子を私は騙し続けた・・・。今回の事で私もいつか簡単に死んでしまうと、そう分かってしまった。」

感傷の波に少しばかりか心を預けて、彼女は呟く。



「出てこんな。」

島津が不意に溢した。まるでホテルに見紛う程まで、装飾に凝った大学病院正面玄関。

「ちょっと海好、こっち寄って来んで。重いわ。」

「うぅ・・・。」

完膚なきまでに体をやられた私を含めて、三人は未だ受付係に言われた一言。「お繋ぎしますので、少々お待ち下さい。」ただそれに釣られ、椅子の背もたれへ移動の疲れを吸い取らせていた。だが、

「もう20分は経っとる。流石に遅すぎんか?」

腕の時計を凝視しながら、痺れを切らして立ち上がる島津。

「何かあったんですかね・・・。」

すかさず鈴もそれに続いた。するとその時、

「まさかあんたまで来とるとは想像しとらんかった。なぁ、会長さん。」

聞き覚えのある、柔らかな中にハリのある声。

「ばっ!婆ちゃん・・・!?」

私は思わず辺りを見回し、その元を探す。そして中二階、上へふらふらと首を上げた時、吹き抜け部分で瞳が止まった。

「とうとうあんなに怖がっとった海ば越えてしまったんか。海好・・・。」

言葉に合わせて、祖母は憐れむ目線をひと匙こちらへ振り撒く。しかし、

「よかった〜。で?もう体調はだいぶん良くなっとると?」

私はそれに気づく事無く、あっけらかんとし問いを返した。

「そういうのは、もう辞めてくれんかいな?」

直後、ほんの小さな音で一言。面食らっていた。

「えっ・・・?」

またも聞き返す勇気がないまま。私は体の動きはもちろん、思考さえもが一時停止する。



「あっ、あの!どういう事なんですか?もしかして海好と何かあったんですか?」

暗がりの中へスポットライトを当てるかの如く、間髪を入れず鈴が切り出す。

「やかましいわ。鈴ちゃん、あんたには関係ない事やろうが・・・。いや、まぁでも、ちょうどいいけんはっきり言うちゃる。」

まるで知らない他人の様だと、私はこの時祖母に初めて怖気付いていた。向けられる眼。鋭さを帯びた言葉の端々。

「初めはね、憎くて憎くて気が狂いそうやったわ・・・。でも、」

手先や肩を小刻みに揺らし、彼女は淡々語り始める。そして次の瞬間、

「光さんを・・・夫を奪った筈のあんたに芽生えていく情、それがどうにも我慢ならんかった・・・。」

「えっ・・・。」

奥歯が擦り合う音に伴い、投げてつけられる荒くれた台詞。私は不意にも声を漏らすと、次こそは何か返してやろうと言葉を探した。だが、

キンッ!

突如としそれが牙を剥いて来る。耐え難い痛み。言葉にするなら、脳の内側で火薬が弾ける。そんな感覚。

「うぐぁっっ!」

私は素早く右手で頭を庇うと、床へ両膝を突いて縮んだ。

「ちょっと!海好!だいじ・・・お・・・みず・・・い!」

すぐさまに駆けて寄って来たのは、鈴であろうか。鼓膜へと届く音や視界に映る全てが、空気の中へと溶け出して濁る。

ドサッ!

その数秒あと、鈍い音がして体の全てが地面へと触れた。何も感じぬ暗闇の中だ。



「鯨やと?」

「おぉ、なんでもこの辺の海に迷い込んで来とるらしいって。」

時は遡り2004年の8月9日。舞台は朝日も未だ起き抜けの、玄界の港。

「お〜い!お前らはよ準備ばせんか!もうそろそろ光の船が帰って来るけん!」

この日も漁港はありとあらゆる、活気に溢れた声が湧き立つ。とても小さな島のそれとは考えられない。立役者は昨年整備を終えたばかりの定期旅客船。博多から島へ観光目当ての客足を増やし、日が上り切ればメインの通りは息つく暇さえ無いほどであった。

ブッブー!ザザザザ!

そんな時である。一隻の船が汽笛を鳴らして波止場へと付けた。青を基調に白線が二本。

「あっ!光さんの船や!」

誰かが叫んで、水揚げのためか。男が数人側へと駆け寄る。すると、

「いやぁ!今日も今日とて雑魚ばっかりやなぁ!全然や!」

乾燥していて艶のない声。同時に、運転席から蹴り飛ばす様に扉を刎ね開け、一人の男が波止場へと上がる。

「おぉ、よう帰ったな光さん・・・。」

それは見るからに不健康な程、焼きっぱなしの薄黒い肌。髭は襟元で風にはためく。「何や、島津か・・・。暇ならちょっと手伝っていけや。」

"柴井光"彼は正しく漁師そのものの風貌をしては、そう言い白い歯を見せて笑う。



つづく

この度は『この海の底まで第5話』をご愛読いただきまして誠にありがとうございました。もしこの物語が気に入っていただけましたら応援やフォローもよろしくお願いいたします。今度の更新はまだ未定となっております。

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