第4話

窓を覗けば太陽は下り、景色全てが黄金に染まる夏の夕暮れ。

「この度は退院おめでとうございます。あぁ、でもすぐに過度な運動とか、無理に記憶戻そうとかはやらないでね。」

看護師からの柔らかな言葉に背中を押されて、私は病院の玄関をくぐった。スマホの時計は午後4時を示し、島特有の海の匂いが体へと絡む。

「早く行かんと・・・。」

恐怖という名の強大な敵に、気持ちは正しくグラディエーター。私は大きく一歩踏み出し、鈴の待つだろう波止場の方へと足を進めた。



「このまま上手くいったら、この前の病院での約束、お願いしますよ。」

「何が約束や・・・。あれはもう殆ど脅しやったやんけ。納得しとらんよ僕は・・・。」

玄海港から少し外れた定期船専用の波止場。そこでうごめく二つの人影。鈴と漁業組合会長の島津だ。彼らは何やら遠くの沖を見つめながらに怪しい話を惰性で転がす。「しかし、本当に海好ちゃんはここに来るんか?もうそろそろ着いとってもおかしくない時間やと思うんやけど。」

「確かにそうですね・・・。何かあったんですかね?ここまで来て、まさか来ないって事はないと思いますけど。」

島津のぼやきに、鈴はそう答えながら時計へ目をやる。午後五時二十三分。最終船の出港時刻が十分先に迫り来ていた。

「少し遅れているだけ」

自分の心にそう言い聞かせて手の平にかいた汗を感じる。

「不安そうやね・・・。そもそも海に近寄れもせん様な子を船に乗せるって、あんたも結構無茶なことしよるわ。」

「いや別に、海好が言うからそれを手伝ってやってるってだけで・・・。無理やって思ってるんですか?」

少しムッとした顔色をしつつ、鈴は咄嗟にそう聞き返した。だが、

「何を姉貴ぶっとん?そんなことは言っとらん。ただ、見とったら分かる。あんたもあの子の、海好ちゃんの家族事情知りたいんやろ?下世話やな。」

想定の外から飛んでくる様な、島津の言葉に鼓動が早まる。それは何とも形容し難い。自身の下品な深層心理が表皮を剥がれて曝け出された。そんな感覚。

「そ、そんなことは・・・。」

彼女は背中に冷や汗を感じ、恥じらいと共に目線を泳がす。確かに言われた通り思い返せば、自分の好奇心を満たしたいがため、いつしか海好を誘導していた。それも嫌々付き合う年上の様な、嫌な態度を交えながらに。

「まぁ、そんな何も興味ない奴がわざわざ17年前の事なんぞ調べてくるはずが無い。その時点でバレバレや。ハッハ!」

豪快に笑う老人を前に、頭の中はすっかり純白。反論一つも考えつかずに、下唇は痙攣している。その時であった。

キィィッ!!!

道路に面した高台の方で、突然車が急停車をする。

「何や!」

「おわっ!?」

二人は不意に声が漏れ出し、慌てて振り向く。見るとそこにはシルバーのワゴン。砂煙がまい、運転席はあまり見えない。しかし、中の誰かはこちらを見ている。そう直感した。次の瞬間、

ドンッ!

力任せにドアが開く音。それと同時に中から一人、男が降り立つ。サングラスを掛け、作業着を上下。鈴と島津は以前怪訝な顔付きのままで彼を見つめる。直後、

「あれ?爺ちゃん?」

波音の中に間抜けな声が転がって落ちる。

「えっ、ど、どういう事ですか・・・?」



「何ね、岸斗か。何しとる?こんな所で?」

数秒間の静寂を挟み、島津は気にせず話を切り出す。三者三様、状況がうまく飲み込めていない。

「いやぁ・・・、俺仕事終わってからさ、病院の近くで人拾って。その子がここまで来たいって言うけんさ。連れて来たんよ。ってか爺ちゃんこそ・・・。」

男は名を岸斗と呼ばれ、恐らく島津の孫か何かと推測がついた。彼はいかにも理解不足な顔をしたまま、顎に手を当て思い出す様顛末を語る。

「あの、その連れて来たっていう子・・・。」

のんびりとして話す彼らに、弱った口調で鈴が割り込む。

「えっ、あぁ、連れて来るよ。ちょっと待っとって。」

岸斗は困惑にも似た面持ちをしつつ、急いで車の後方へ周る。

「素直に降りて来ますかね・・・?」

「さぁな・・・。」

不穏と緊張。島津も鈴も顔を顰めた。すると突然、

「間もなく、十七時三十八分発、定期運行ホワイトフォエール三十二号が、到着いたします。本船ご利用のお客様にご連絡いたします・・・」

併設された年代物のスピーカーから、機械音声のザラつくテンプレ。後ろの方では見る必要すら感じない程、波達が騒ぎ船を知らせる。

「やば、船来とる・・・。海好!はやく!」

傷の入った自尊の心を立て直す様に鈴は叫んだ。兎にも角にもこの状況から抜け出したい。その気持ちだけが先行していく。しかし、

「うわぁぁぁぁぁあ!」

聞こえて来たのは鼓膜をつんざく荒くれた悲鳴。途端に岸斗を跳ね除ける如く、一人の少女が車を飛び出す。瞼を閉ざして、耳には指栓。一目瞭然、”私”こと柴井海好だ。

「来たよ鈴。でもごめん・・・。こうやって一生懸命音とか、景色見らんようにしとるのに、もう全然怖くてたまらん。やっぱ私には無理やったんよ。やけんもう辞めるってだけ言いに来た。婆ちゃんは帰って来るまで待っとく。」

高台の上でうずくまりながら、私は少し早口になって弱音を吐き出す。鈴も島津も、岸斗さえもが哀れみにも似た微妙な表情。

「あぁ・・・。分かった海好。分かったけんさ。でもほら、船にさえ乗ってしまえば、海の見えん席取っとるし。イヤフォンとかもすれば、指とも違って全然波の音とか聞こえんけんさ・・・。」

思わず鈴がそう言いなだめる。先日、病室の中で口にしていた「手がある」の真相。聞いてしまえば、それは意外に簡易的かつ単純であった。

「おい、まさかさっき言っとった方法って・・・。」

すかさず島津が耳打ちを挟む。そもそも海上を進む船というのが畏怖の対象。その様なことで解決出来る道理などない。

「仕方無いやないですか。三日三晩悩んでこれしか・・・。」

「はぁ・・・。そうか。」

絶望にも似た冷たい空気が、足元を伝い体へ流れる。

「ごっ、ごめん・・・なさい。違う。違うんよ。私が間違えとった。そりゃ、そうよね・・・。」

次の瞬間、私はそんな雰囲気の中で押し出される様口を開いた。

「本当は鈴に任せとけばどうにかなるって思っとった。岸斗さんが来た時、このまま車乗っとけば何とかなるんやないかって。さっきも、ここからどうするんやろうって何も考えんで、座席から立とうともせんやった。」

自分はなんと浅ましいのか。罪悪感とはまた少し違う、羞恥にも似た複雑な気持ち。「やけん・・・。もう、」

最後の一言。これで全てを白紙に戻そう。そう覚悟をして口を開くも、喉の奥底、引っかかる様にそれは止まった。すると、

「なら私は、もっと酷い。」

その間を奪って一言静かに、鈴が発する。

「えっ?」

「私も、海好と病院で話した時くらいかな。そん時くらいから何か、もしかしたら非日常の中に一歩踏み入れられるんやないかって。自分が小説の中のそう言う・・・。主人公の相棒みたいな・・・。」

淡々と語る彼女の頭は、次第に重く前へ垂れゆく。

「やけん、海好に無理な事言って・・・。私がこの退屈から連れ出してもらおうって・・・。恥ずかしいよ、ほんと。」

鈴の言葉は終わると同時に私へ食い込む。同じだったのだ。島と現実。互いに何かへ縛り付けられ、そこから出たいと懇願していた。このまま頼り切ることはもう出来はしない。強い何かが胸の内から全身を駆ける。

「やっぱり私、乗る。」

船の着港。それは太陽を遮り、波止場には長くその影を落とす。そんな光景と共に私の短く、されど確かな強さを纏った音が周囲を静寂で包む。



「えっ・・・。」

三人の顔が一挙にこちらを見返し驚く。

「やっぱりこの船に乗って、婆ちゃんのとこに行く。そんで全部の本当の事をを教えてもらう。」

啖呵を切っては目を開きながら指栓を抜くと、震える足で階段を降りる。

「は?海好あんた、何で・・・。」

鈴は狐につままれる様なそんな顔をし、溢れた涙を袖で拭った。

「交換ってやつ?ここから先は私が鈴を連れていかんとって・・・。」

「何それ・・・。やっぱりあんた訳分からんわ。」

二人し顔を見合わせながらに、鼻から小さい笑いが溢れる。七月の下旬。暑さの余りか。振り切れ麻痺した脳の中では、恐れも次第になりを潜める。

「じゃあ取り敢えず、行ってくる!」

私はゆっくり島へ向き直り、拳を突き上げそう言い放った。目一杯の笑顔を添えつつ。



つづく

この度は『この海の底まで第4話』をご愛読いただきまして誠にありがとうございました。今回は大変遅れての更新となってしまった事心からお詫びいたします。私自身、少々忙しさのある日々であったためこの様なことになってしまいました。今後はより一層、読者様を大切に思い執筆の方を続けて参りますので何卒よろしくお願いいたします。


もしこの物語が気に入っていただけましたら応援やフォローもよろしくお願いいたします。今度の更新はまだ未定となっております。

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