胸中の思い
胸を針で突かれた痛みが走る。ドポンと音がすると、石の上にいたカメは既にいない。
「なんで私と一緒にいるのに、いない人のこと考えるんですか?」
彼女の雰囲気はがらりと変わり、重苦しい空気が流れ始めた。風が止み、鳥一匹の鳴き声すら聞こえない。世界が死んだように静かになる。
「死人のことなんて考えても戻ってきませんよ?」
「....知ってたの?」
「知ってました。こっちに来てすぐに、小学校の同級生に聞きました」
「アオイは....まだ...」
「死んだんですよ。今から5年前、あなたの家の近くの交差点で」
脳みそがぐるぐると回ってうまく考えがまとまらない。呼吸が荒くなっていく。
「...信じたくない。受け入れられないんだ、今でも」
「そうやって、いつまでも現実逃避して行くんですか?」
シオンは呆れたように言った。いないのは分かっている、それでも嫌だ。好きなんだ、アオイが。あの夏の日のように、また彼女が現れてくれるんじゃないかと願って4年。未だ、彼女を見たことが無い。
「私じゃだめですか?」
悲しそうに、彼女は呟いた。
「アオイちゃんの代わりに、私は成れませんか?」
震える声で懇願してくる。
「小さいころから好きだったんです。お兄ちゃんみたいに接してくれるあなたが」
「僕もシオンが好きだけど...そんな...」
「見てください」
上着をめくって腹を見せた。細く、白い腹には痛々しい痣と傷跡がある。
「あの頃、父から暴力を受けてできた傷です」
彼女の家は母、父、彼女の三人家族だった優しそうな両親だったのを覚えている。
「父は...私と母に暴力をふるってました。それで離婚したんです。母に付いていくことになった私は、母の実家である東京に引っ越しました」
引っ越しの本当の理由。
傷があったのは知ってた。何度も彼女の裸を見てきたから。遊んでできたモノ、それぐらいにしか思ってなかった。小さい体に痣まみれの腹、切れた唇、絆創膏まみれの足と腕.....。
「急に引っ越したので、友達もうまく作れなかった。いつも一人でした。アオイちゃんとたっちゃんが私の心の支えだった」
”たっちゃん”。タクミを略してたっちゃん。遊んでいた時は、ずっとこのあだ名で呼ばれていた。シオンの幼い笑顔が、脳裏で再生される。
「中三の時、父が急死したのを知ってこっちの高校に行こうと決めました。そうすれば、二人に会える。また楽しい日々が始まる」
震えた声のトーンが少しずつ上がっていく。
「三人でいる時が一番楽しくて、満たされていた。兄と姉がいるみたいで。家族よりも家族みたいで....でもアオイちゃんが居なくて...正直嬉しかった」
涙を拭いて、口角が上がって笑顔になっていく。
「あなたを...たっちゃんを独り占めできるから」
「ねぇ、たっちゃん。私ね、たっちゃんしかいないの。お母さんもお爺ちゃんもお祖母ちゃんも、私を大切にしてくれるけど...」
「たっちゃんが一番なの。一番私を愛してくれたの」
目はうつろで、力なく歩いて近づいてくる。
「もっと愛して。あの頃よりも、アオイちゃんよりも、この世の何よりも」
神にすがる信者のように、懇願してくる。可哀そう、まるで僕みたいだ。いや、僕よりかマシなのかもしれない。幻を追いかける僕よりも。
アオイ...。僕はいつまた、君に会えるのだろう。このまま5年、10年、待っていたらいつか飽きてしまうかもしれない。君を置いて、新しい心の拠り所を探しに行ってしまう。つかめない手、抱きしめられない体を追うよりも。
「一人に...しないで...」
僕に縋り付いて、シオンは泣いていた。小さな嗚咽を漏らしながら、僕の服を掴んで。
森で迷子になって、見つけたときもこんな感じだった。泣きつかれたシオンをおんぶして帰ったのを覚えている。泣き疲れて背中で寝ている彼女に呆れながら、ずっとこのままだったらいいな、なんて考えてた。でも、シオンは引っ越し、アオイは死んで僕は一人になってしまった。
孤独で、毎朝アオイとの写真を見て満足していたけど、もう耐えられない。一人がつらい。漠然とした不安と孤独でいる寂しさが常に襲い掛かってくる。
「シオン....」
自分の気持ちが分からなくなってきた。アオイか、シオンか。少なくとも今はこれしかできない、抱きしめることしか。
腕の中で泣く彼女。昼下がりの陽気と、春風が僕たちを包んだ。
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