屍桜夫婦心中(かばねざくらめおとしんじゅう)

お題:桜

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 ――文永七年。

 江戸は化政の町人文化華やかなりし頃、その賑わいから些か遠い、さる地方。ときは日暮れの少し前。

 人里離れた峠道に、薄紅の雨が降っていた。


 詩情を誘う花吹雪の中を、獣のように音もなく疾駆かける一団がある。野良着姿ながら、各々反りのない短刀を手に、身のこなしも只人ではない。

 暗褐色の男衆――否、男装ながら女髷おんなまげの者も幾人か――は、いわゆる忍びの者である。


「――見つけたり。観念せい、〈トコシエ〉」


 さきがけらしい男が叫ぶ。同時に残りが素早く四方八方に展開し、一つの人影を取り囲んだ。

 その中心に佇む『トコシエ』なる者は一見、ただの町人らしい丸腰の若い男だが、突然のことに驚いた素振りもない。ただ呆れたように微笑んで「しつっこいな」とぼやきながら、懐に入れていた手を抜く。


「だいたい大仰だ。俺は戦忍せんにんじゃねえってのに」


 言いながら放られた何かが、激しい音を立てて炸裂した。あたりはたちまち濃い煙に包まれたが「怯むな」と魁がふたたび怒鳴る。

「ただの目くらましだ」


 煙玉は芥子や毒を含むらしい。幾人かは位置取りが悪くまともに浴び、眼鼻を押さえて悶えた。首尾よく切り抜けた者は、邪魔だとばかりに仲間を突き飛ばして男を襲う。

 その光景にトコシエはまた呆笑した。どこか寂しげに、しかし感傷を弄ぶ暇はないと、懐から次は短刀を抜きかけ――


 刹那、彼の笑みは凍り付くような驚愕にとってかわる。


 花吹雪に混ざって緋色が舞った。艶やかな赤はこの時期に不釣り合いな彼岸花を想わせ、あたりに揺れる淡い山桜の花弁さえ、梅や木瓜ぼけと見紛う真朱まそおに染め上げていく。

 トコシエは呆然とそれを見た。――血飛沫の中で踊る、一人の女を。


 褐色の野良着に白柄の忍者刀。トコシエを追う他の忍と変わらぬ装いの女が、迷いなく自らの仲間を切り裂き、次々と血祭に上げていく。散った朱が額やまげを汚すのを気にも留めずに。


千代ちより!? 貴様、血迷うた……がッ」


 とうとう一人も残らなかった。煙玉のもあったが、何より女の武はこの場の誰より抜きん出ていた。

 終始無言で凶行を終えた女は、トコシエに歩み寄り――途中まだ息のある者の呻き声を黙らせ――ながら、やおら着物を脱いでいく。

 死装束のような白の襦袢姿になった千代なる女は、ふいに屈みこんだ。トコシエと呼ばれた男に向かい、地面に両手を衝いて、深々と頭を下げて曰く。


「――トコシエ様にお願いがございます。私を、あなたの妻にしてくださいませ」




 トコシエ。終わりなき時を生きる者。死してなお立ち上がり、語る屍。


 森羅万象の探究に務める忍を鑽忍さんにんと云う。かつて、ある忍宗に属するその者が、掟を破り禁忌を冒した――死人を蘇生する術を組んだのである。

 あまつさえ呪わしき理論の完成は、彼自身の肉体であかされた。

 それがトコシエの始まり。存在そのものが道理に背く、ゆえに男はかつての仲間から追われる身となった。


 逃げ続けてもう二十年以上になる。すでに死した身は老いることもなく、若々しい姿を保っているが、彼の心は死を前にした老人よりも侘しかった。

 誰も男の隣には留まらない。そも、永遠の時をともに歩める者など、この世で他に居るはずもない。戯れにも、只人は追忍おいにんに嬲り殺される。


 このまま無限の刻を独り過ごすのだと、そろそろ諦めのつく時分だ。

 まさか今頃、自ら花嫁になることを願い出る女が現れようとは、夢にも思っていなかった。



 ひとまず一時のねぐらとしている荒屋あばらやに連れ帰る。千代は道中俯き加減で、一言も口を聞かず、粗末な小屋を見ても何も言わなかった。

 それこそ、床に転がしてあった明らかに人骨と判る破片を蹴ったときですら。

 意が汲めない。新手の罠かと思いもしたが、たかだか一人のトコシエを捕らえるためだけに身内を十近く手に掛けるのは、それこそ大仰だ。幾ら無情な忍宗のお偉方でも、そこまで手駒を無駄には使うまい。


 千代は折り目正しく正座してこちらの言葉を待っている。あるいは住処に招いた時点で、申し出は聞き遂げられた腹だろうか。

 彼女の前に片膝を衝き、トコシエは眼の前の白い頬に触れた。顎を摘まんで上向かせると、女は淀んだ目で――ともすれば彼女こそがまことの死人であるかのように――こちらを見据える。


「望みは何だ?」

「……貴方様に嫁ぐことです」

「俺と連れ合いになるには一遍死ぬ。それを承知で言ってんのか?」


 トコシエが彼女にやれるものはそう多くはないが、代わりに他の誰も真似ができないものばかりだ。

 そしてもちろん、どんなものにも、必ず代償はある。


「……自由が欲しいの」


 千代は言うなり腰紐を解いた。襦袢をはだけ、そろりとトコシエに身を寄せる。どうぞよしなに、という甘い囁きを熨斗のしに、女は我が身ひとつを結納とばかりに差し出したのだ。

 触れた指先で心音を聞いたトコシエは、その静かさを秘かに冷笑する。――眉も引かずにこの手管か。


「そりゃあ俺と添おうって訳にはならん」

「……里を抜ければ、どのみち追われます。どうせなら一人より二人と……」

「わざわざ死んだ男とか?」

「いいえ、いいえ。……永く生きられる御方がいいの……忍なんて死人しびとと同じだもの。今まで死んでいた分、これから何倍もうんと生きなくちゃ……。

 ――それに、貴方いつも、お寂しそう」


 そのうち夜の帷が下りた。天井の破れから注ぐ月に照らされる、淡い桜色をした女の身体を、生ける屍はまんじりと眺める。

 千代は不思議そうに彼を見返した。彼女の乱れた髷にべっとり香る血臭が、トコシエにはひどく甘い。


 結局その夜は無為に過ぎ、気づけば朝陽が笑い声を立てた。屍の時間は終わり。むしろに横たわって漫然としているトコシエに、寄り添うようにしていた千代が、ふと身を起こして尋ねる。


朝餉あさげをお作りしましょうか。お掃除も。これまで殿方お一人で、さぞご不便なさってたでしょうね」

「……俺の食う物が何か知ってるか? 人の血肉や骨だぞ」

「存じております。私も追忍でしたもの」

「そうか。……お前、随分けろりとして言うな」

「人を喰らうより惨いことなんて幾らでもありますから」

「……、そうだなぁ」


 かつての、己が鑽忍としての任務の数々を思い出し、トコシエは浅く笑って首肯した。目的のためなら獣より冷酷になるのが忍だ。

 そのくせ死者を蘇らせる程度のことすら受け入れない、狭量で小心な連中。


「あ……そうだわ。私の肉は毒ですから、それはお出しできません。ごめんなさい」


 何かと思えば千代はそんなことで頭を下げる。耐性をつけるために日ごろから弱い毒物を摂食して慣らすのは忍の習いだし、人喰いのトコシエを狩る任を負っていたなら、尚のこと自らの血肉も武器だ。わかりきっている。


「いい、……嫁になろうって女を喰うほど落ちぶれちゃいない」

「娶ってくださるの!?」

「待て待て、まだ候補、候補としてだ」


 昨晩手出しをしなかったのを、拒絶と受け取っていたのだろう。千代はその中途半端な肩書にすら満足げだった。



 それから千代はせっせと働いた。臆することなくきては三度の煮炊きをし、洗濯掃除につくろい物と、甲斐甲斐しくトコシエの世話を焼く。

 初めは面食らったが、そのうちに慣れた。

 日ごと、さながら月の満ちるように、彼女の顔つきも明るくなっていくようだった。


 ある日ふと、いつまでも襦袢姿でいるのが不憫に思えて、トコシエはなんとなしにから衣を剥いで渡した。着古された接ぎだらけの襤褸ぼろでも無いよりはいいだろう。


「とりあえず着とけ」

「まぁっ……ありがとう!」

「……今度町に行くか。そんでもう少しましなのを……、なあ、喜ぶような代物モンじゃねえぞ?」

「うふふ。いいえ、旦那様のお心遣いが温かいのです」


 千代はそう言いながら古着を羽織ってくるくる回っている。幼子のように屈託なくはしゃぐ彼女に、トコシエも思わず頬を緩めた。

 凍えているはずの屍の身がとみに温もりを帯びる。されど足りない。もっと欲しいと願うまま、女を我が手に抱き寄せる。

 生者の肉体は、死者にはあまりに熱かった。くちびるを寄せてその炎を吸い上げると、にわかに熱はゆるりと下がる――千代は生気を失って、けれどしおれるどころか、細い手足は宿生木やどりぎの蔓のごとく絡む。


「……もっと……」


 潤んだ瞳に「なぜ抱かないのか」と問われている気がした。トコシエもその答えを探しているところだ。

 訳を明かさなければ、それを否定することもできないのだから。



 そうして幾日か過ぎ、町へ行こうと山から下りたところで、二人は久方ぶりに追忍の襲撃を受けた。しかも先の一団は皆殺しにしていたゆえか、あちらは捻れて解したらしい。

 つまり「千代を返せ」と宣う彼らにトコシエは呆れた。まるでこちらが攫ったように言ってくれるじゃあないか。


 弁明は必要なかった。言葉の代わりに血飛沫を返し、屍が動くより先に駆け出した女が、また容易く惨劇を演ずるからだ。もう散りすぎて葉ばかりの山桜を背に。


「指一本だろうと」


 トコシエも匕首あいくちと小道具を手に、彼女のわずかな取り零しを引き受ける。

 そう、ほとんどは、千代の凶刃のほうが幾倍も速く屠った。血の花が葉桜を赤く紅く彩っていくのを、生ける屍は嘆息を込めて眺めていた。


 ――この女は、人を殺すときが一等美しい。


「……触れさせないわ。私の旦那様よ」


 今の千代の眼差しに、あの腐った泥沼のような淀みはない。まるい瞳には虎のごとく冷徹な光だけが宿っている。

 恍惚の笑みさえ浮かべ、かつての仲間をもはや単なる獲物と見做し、白刃の牙で喉笛を食い破る。零れさせたはらわたを蹴散らし、身を血化粧に彩って躍る様はまさにけだもの


 トコシエは笑い出したくなった。

 何故なら訳が判った。己はこれを待っていたのだ。人間の女が屍の妻になどなれるはずもない、化物には化物の連れ合いが相応しい!


 斯くて、追手はあと一人というところになって、トコシエは千代を後ろから抱き寄せた。女は振りかぶった腕はそのままに「旦那様?」と、小娘のように無垢な声で訊ねる。

 両腕で生気の熱を貪りながら、追忍に向かって告げた。


「見逃してやる。里に戻ってお偉方に伝えろ――この女は俺がもらい受けた。今宵から〈トコシエ〉はコウ千代ちより、二人は夫婦めおとになった、とな」


 すでに仲間をなますに刻まれ、己も死の寸前にあったから、相手は腰を抜かしている。追忍は返事もできず呆然と二人を見上げるばかり。

 劫は――そう名乗った屍は、白い耳許をかじらんばかりに「少し痛いが、我慢してくれな」と囁いた。死人の冷たい息に晒された細い身体が震える。千代が喘ぐように頷いたのを見とめると、――短刀を、心の臓に突き立てた。

 びくりと痙攣して息絶えた身体から刃を引き抜けば、血桜が胸に咲き零れる。


 なるべく息の根は一瞬に奪うのがよい。

 すぐに印を組む。ほんの僅かでも、この美しい女を腐らせたくはない。


木印きのいんもち水穢みずのえこくす。

 紫電径命けいみょうを刻みて黄泉より還れ』


 天地から雷霆の牙が喰む。同時に金遁で傷を塞いでやった。女はにわかに息を吹き返し、水責めの後のようにむせぶ。

 怪物は花嫁を抱き上げた。蘇生されてすぐは呆然とするものだ、と経験で知っていた。


「ぁ……あ……ッ、ま、……待て……どこへ……ッ」


 なんとか声だけ絞り出した追忍を振り返って、屍の夫はにやりと笑む。


「邪魔すんなよ。夫婦の初夜だ」



 *



 ――それから二百余年を経て、時は令和。

 春の柔らかな陽射しの下、とある公園の片隅で、とくとくと酒を注ぐ音がする。「いい天気」と笑う女は、カールさせた茶髪に薄桃色の花びらを飾っていた。

 今は洋装が主流ではあるが、前世紀の貴婦人めいたクラシカル・ロリータファッションは、少々人目を引く。


「やっぱり桜にはワインより日本酒ね」

「そうだな」


 思い出の山桜は半世紀前に伐られた。昭和期に開発されて一帯の景観も様変わりしてしまっている。今は高速道路が走り、サービスエリアに人がごった返しているという。

 桜もすっかりソメイヨシノが代表らしい。

 というわけで、ここは何の変哲もゆかりもない街中の公園。それも敢えて、時期を過ぎて葉を出すのを待ち、遅がけの花見に興じている。


 この国は何もかもが変わった。多くの命が生まれては絶えた。


 けれど彼らは昔のまま、少しも歳を取っていない。


 二人は肩を寄せ合い、木洩れ陽の中から葉桜を見上げた。

 時の流れに逆らい、森羅万象の理を捻じ曲げ、道を外れた化け物の夫婦。だからこそ桜の下で交わした契りは、偽りなき真の誓いとなった。


 ――死すら分つことのない、永遠の愛を。



 ←



*補足


・ソメイヨシノは江戸末期からしか存在しない

メジャーになったのは明治以降なので、それ以前に桜といったらたいてい山桜を指す


・江戸の襦袢はだいたい柄物だったらしい

千代はわざわざ白い襦袢を用意して着てきたので、それを見た劫は『死装束のよう』だと思った

花嫁衣装と死装束は同じ色ですからね

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