キザミノコトワリ

ブラッディ・ファミリア // 亥刀弾指郎

 私が頓子とみこと出逢ったのは昭和六十三年の夏。ひどく蒸し暑い日だった。


 平凡ないち学生だった私は炎天下の帰路を急いでいた。母が冷たい麦茶を作っていることを期待して、途中にある馴染みの商店に寄り道するのを我慢しながら。


 奇妙なことだが、私は門柱の前で、かすかに言いしれぬ違和を感じた。非科学的な話だが、虫の知らせとか第六感というものかもしれない。

 ともかくガラガラとうるさいガラス戸を開けて「ただいま」と声を張ったが、誰からも返事がなかった。

 耳に触れるのは妙に冴えざえとした風鈴の音のみ。さっきまでしつこく喚いていたはずの蝉さえも押し黙り、静寂だけが冷たく私を出迎えた。


「母さん? じいちゃん? なんだ、みんなして出かけてるのかい……」


 その日は休日。学校に行ったのは、たしか友人とカセットテープの貸し借りをするためだったかな。

 だから家には両親と祖父母、それから妹と弟――私は長男だった――、つまり自分以外は家にいるものとばかり思っていたし、事実


 廊下を数歩もいかないうちに、靴下が濡れたのに気づいた。見れば白かった生地が赤黒く染まっていて、私はとうとう些細な違和感ではなく、異常をはっきり知覚した。

 血痕を辿ると、いつもみんなで食卓を囲んでいた六畳間に行き着く。


 そこに……それがいた。


 落ち窪んだ眼窩、濁った瞳。ところどころ黒ずんだ皮膚。床に転がるを踏みつけにしている、肉が削げて骨ばかりになった脚。

 穴だらけの衣服だけが嫌になるほど鮮やかな赤色に染まった、化け物が。


 ヒトの輪郭を留めてはいるが、ひと目で生きた人間ではないとわかった。そのとき私は悲鳴を上げたのか絶句したのか、……何しろ初めてトコシエを見た時のことだ、恐ろしすぎて、記憶がない。

 そいつは私を見て即座に躍りかかってきた。彼らはより新鮮な肉を好むからだろう。

 私はというと、当時は武道の心得もなかったから、手にしていた鞄を振り回して抵抗するのが精一杯だった。


 只人にあの怪物を退けるのは難しい。たちまち壁際に追い詰められ、間違いなく、あの時の私は喰い殺される寸前に至っていた。

 もうだめだと思った瞬間、かすかに足音を聞いたように思う。恐慌状態で確信はなかったが、それより確かなのは、直後に人喰いの屍を貫く刃があったことだ。


「――火印を以て金穢を剋す」


 眼の前で、トコシエの身体が燃え上がった。

 それはそれは恐ろしい光景だった。


 屍は私に向かって倒れかかってきたが、炎をまとった白刃が素早くそれを防ぎ、かつ誰かが私の学生服の背を掴んで横に引っ張った。いささか勢いが良すぎて、ひっくり返って床に頭を打ったっけ。

 あれは痛かった。まあ、当時はそんなこと思う余裕もなかったけれど。


「……大丈夫?」


 呆然とする私に、白い手が差し伸べられる。反対側には燃え立つ短刀。

 救い主の正体は私とさして変わらぬ歳頃の少女だった。実際は彼女のほうが歳下だが、大人びた娘だったから。

 化け物を炙る炎を後光のように背負い、照らされた長い黒髪の縁が、ぬらぬらと朱く輝いていた。


 眼が逸らせなかった。いわゆる吊り橋効果が働いたのかもしれない、あの時の彼女はこの世の何より美しかった。

 それが、私と頓子とみこの出逢いだ。



 後片付けは彼女の仲間に任せ、私は庭で手当てを受けながら頓子に教えてもらった。トコシエやきざみ衆のことを。

 私が家族構成についての質問に答えたら、数は合う、と誰かが言った。……死体の、ね。


 あのトコシエは隣家の人らしい。彼の自宅は小動物や虫の死骸でいっぱいだったそうだ。

 初めはそういうもので食い繋ぐが、自我の喪失とともに餓えが拡大するとより大きな獲物、つまり人を求める――それで、手近な隣人を襲った。


 私には選択肢があった。

 この日の記憶を消し、ほとんど交流のなかった遠方の親戚を頼るか。これまでの人生を捨てて忍になるか。

 結論としては後者を選んだから、今こうしてここにいる。


 初めは復讐を考えた。トコシエをおぞましいものだとしか思えなかったからだ。

 けれど時とともに理解した――彼らは自然に生じるわけではない。まして自ら望んであんな姿に落ちぶれたわけでもないのだと。

 刻衆は、哀れな殺戮者に堕とされた人びとを救うため、業を断つために刃を振るうのだ。



 残念ながら、刻衆での暮らしは心地よいものとは言いがたかった。

 ここでは家族とは形だけ。新人を迎える養子縁組を円滑に進めるために、実態のない書類上の夫婦を作り、そこに部品として身寄りのない子を引き取っている。

 親子の情や愛着は不要なもの。場合によっては邪魔にしかならない。


 私たちの最大の不幸は愛し合ってしまったことだろう。

 何より頓子は優しい人だった。忍になるべきではなかったと思えるほどに、愛情深く、そして強かったのだ。

 後悔している。私が……私さえ想いを打ち明けたりしなければ、黙ってきざみことわりに従っていれば、彼女や子どもたちを苦しませることにはならなかったろうに、と。


 私は亥刀いわき弾指郎だんしろう。亥刀頓子の夫である。

 亥刀の他の形式上の夫婦と違い、私たちは養子縁組のためではなく、頓子の妊娠を以て結婚した。


 当然ながら『上』には激しく反対された。

 婚姻を、ではない。出産のために頓子が半年以上も活動を休止すること、何より血の繋がった子を生すことが、彼らにとっては『合理的でない』行いだと断じられたのだ。


 一人前の忍を育てるのは容易くない。とくにトコシエを相手にする我々は、任務のたびに死者の尊厳を踏みにじらねばならず、そうした非情さを身に着けさせるための訓練も存在する。

 実の子相手ではその手が鈍る、というのが『上』の言い分だ。私は正直それを聞いて、確かにそうかもしれないと思った。

 我が子に刃を握らせて「人の形をしたものを殺せ」と教えねばならないことを、憂えぬ親などいないだろう。――とくに頓子のような優しい人は、どんなに胸を傷めるだろう。


 けれど頓子は抗った。堕胎はもちろん、産んだあと外部の児童養護施設に預けるという妥協案も突っぱねて、自分の手で育てることを譲らなかった。

 その我を最終的に通してしまえるほど、彼女は優秀なくのいちだった。


 彼女の苦しみは娘が生まれてからだ。『上』に盾突いてわがままを言った以上、子どもを完璧な忍に育てねばならない、まかり間違っても「やはり実娘には甘い」などと言われてはならない――……心を鬼にして、玉響たまゆらを過剰なほど厳しく鍛えた。

 実子ともらい子で差があると思われてはならないからと、そのあと引き取った片時かたときもまた同じようにしごき抜いた。子どもたちが身体中を痣や火傷だらけにして、もう耐えられないと泣いてすがっても、冷たく突き放して木刀で殴り飛ばした。


「お母さんは、あたしが嫌いなの?」


 娘は幼いころ、よく私にそう尋ねた。そんなことはないよと答えるたび、信じられないという顔をして、静かに涙を流していた。

 片時に至ってはそんな言葉さえ聞かせてくれなかった。あの子はいつも部屋の隅にいて、ここは自分の居場所ではないのだと言いたげに俯いていた。


 頓子はというと、いつも夜中、子どもたちが寝静まってから、静かに泣いていた。


 ここは地獄だ。親が子を、気絶するほど痛めつけなければ、一緒に暮らすことすら許されない。

 諸悪の根源は私なのに、いつも宥める立場だった。憎まれ役は頓子が引き受けてしまった。

 そうでもないと、最低限の家族の形すら保てないからと、頓子自身が強く望んだのだ。


 ――私は、あの子たちを抱き締めてはいけないから。

 だから弾指郎さん、貴方が子どもたちを包んであげてください。私の分まで。



 私は忍に不向きな人間だ。冷酷非情になりきれず、哀れなトコシエを直に手にかけることを恐れるがゆえ、罠を組むことばかり得意になった卑怯者。

 こんな男が人を愛してはならなかったのだ。だから愛する者たちが、揃って鬼になってしまった。


 妻よ。娘よ。息子よ。

 不甲斐ない父を、どうか許さないでくれ。



【My dearest bloody familiar -

 愛しきは家の内にぞ血染めなり】



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