あけぼのの憧像
お題:記念写真
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浜辺を一人の少女が歩いている。潮風に揉まれる真っ白なワンピースの裾から、まだらの傷痕を覗かせて。
背景は見事な朝焼けだ。それを切り裂くようにしてなびく、まっすぐな長い黒髪の隙間に、ピアスか何か、小さく光を反射しているものがある。
表情は逆光で潰れてほとんど見えない。唯一うかがえる口許は、朝陽の紅を載せていた。
――その一瞬は小さな四角形に切り取られて、今は己の手のひらの中。
「……何時のだ?」
市外の海に出かけることがあったら覚えていそうなものだ。何しろ、ここはそういった娯楽が限りなく少ない環境で、しかもこの被写体は。
「何見てんの。……んな古い写真、どっから引っ張り出してきたんだよ」
「
肩を竦めた女は、写真の少女との共通点をほとんど残してはいない。
清楚に唾を吐きかけるような、毒々しい濃赤の
面影を見い出せるのは性別と黒髪くらいだ。……それと、
シュンマと玉響は書類上ではいとこ同士にあたる。ただしシュンマは養子だし、そもそも親同士にも血の繋がりはないからほぼ他人だ。
管理の都合で同じ姓を名乗るだけで、この枠組みは家族ではなく、組織にすぎない。
――二人の職業は、いわゆる忍者である。
六歳のときに養護施設から引き取られてここに来た。そして玉響に出逢った。
彼女は血の繋がった実の母親がくのいちで、生まれた時からこの暮らしが運命づけられていたという。
同じ歳で男と女だから、あんたたち将来は夫婦を組まされるよ――こともなげにそう言ったシュンマの養母も、夫とする人とはただの同僚の域を越えない間柄だ。なんなら養子に迎えた子どもたちにも一度だって自身を母親と呼ばせたことはない。
幸か不幸か、シュンマは実親に関する記憶がなかったためか、養父母との関係についてはさほどの違和を感じなかった。
むしろ悩みの種はずっと、隣にいた傷だらけの少女だ。玉響と初めて会った日のことは今でも覚えている。
たった六歳の女の子がにこりともせず、小さな手のひらで腕の傷を隠すようにして、大きな瞳からは憐れむような視線をこぼしていた。
何も知らずに忍の一員になったシュンマのことを、まるで生け贄の羊でも見るような眼つきだった。
で……その彼女は今や不良然としたゴツいパンクロックファッションに身を包み、おもむろにシュンマの隣に腰を下ろしたかと思うと、全体重をこちらに放ってくる。
「いつだったか隣町で
「重い。……あったな、あん時か」
「日の出が綺麗だったけど、あんた爆睡してたから、一人で散歩して……そしたら父さんが撮ってた」
「起こしゃよかったのに。あと重てぇっつってんのは無視か」
「重くて何が悪いんだよ」
開き直ったような言葉とは裏腹に、玉響の上体はシュンマから離れようとする。それを引き留めるには彼女の肩を抱き寄せねばならなかった。
戦いのための筋肉を纏っているが、その下の骨がどんなに細いかは、手のひらの中で軋むような感触でわかる。
身体と一緒に心まで傷だらけになって上の
「誰か来たら、どうすんの」
先にもたれかかったのは自分だったくせに、玉響は今さらそんなことを言って、背後を気にする素振りを見せた。
ここは現代忍者集団・
ここに用のある人間は多くはないが、絶対に人が来ないとも言い切れない。玉響がわずかに身をよじって、畳とジーンズがこすれ、ざりっと耳障りな音がした。
――あんたたち将来は夫婦を組まされるよ。
その言葉を聞いた日から彼女を意識するようになってしまった。当時のシュンマは幼くて、まだ意味を正しく理解できてはいなかったからだ。
「……来ねえだろ」
「おい、無責任なこと言――……ッ」
避難の言葉なんぞは要らない。挑発的な赤に齧りつき、反射的に引かれた腰を抑えつける。
鍛えたところで男女の差は覆せないし、ましてこちらも彼女に並び立つべく努力してきたのだから、言うまでもなくシュンマのほうが腕力は上だ。玉響には逃れる術はない。
あの日、幼く無知な少年は考えた。『夫婦になるってことは、その前に、この傷だらけの女の子を愛さなくちゃいけない』と。
まったくの逆だったのだ。情を抱いてはいけなかった。
ここでは養父母のような形だけの関係こそが望まれるのだと、あのころのシュンマは知らなかった。
なぜなら――玉響がかくも『重い』有様なのは、まさしく彼女の両親が恋をした結果授かった命であったからだ。
彼らは……とくに母親は娘を必要以上に甚振らねばならなかった。我が子であろうと無用な情けはかけない、そう証明しなければ、親子であることすら許されなかったから。
“満ち足りてはならぬ。
此の二条を以て〈亥刀〉とす。”
その
最初に先に触れたのは玉響のほうだったけれど、それは見抜かれていたからだ。拒まれることはないと――シュンマがそういう性格で、かつ、玉響をただの同期とは見做していないことも。
彼女の目論見どおりシュンマが誘いに乗ったから、二人して道を踏み外してしまった。
……わかっていたのに。玉響が必要としているのは慰めで、彼女自身が男としてのシュンマを好いているわけではないことくらい。
けれど、それすら、どうだってよかった。
「重くて上等だ」
「……何言ってんだよ、馬鹿……。これ以上すんなら部屋戻る」
「ああ、
「そういう意味じゃな……、いいけど晩飯作れよ。あと、あたしの部屋の風呂掃除、排水溝も」
「こき使いやがって。まあ構わねえけどよ……」
いつか組織そのものの存在理由が失われたら、そのとき初めて個人として向き合えるのかもしれない。
あるいは養父母と同じように形だけの夫婦になって、血の繋がらない誰かの子を道具として育て、一生を歯車のままで終えるのかもしれない。
どちらに転がっても、シュンマの意思には関係がない。どこだろうと、名目があろうとなかろうと、それがどんなに不条理で冷たいものだったとしても。
たとえ玉響が永遠にシュンマを愛することがなかったとしても。
すでに心は、彼女の傷に初めて触れた瞬間に、定めている。
「――そうだ。この写真もらうぞ?」
例のスナップ写真をちらつかせて尋ねると、玉響は複雑そうな顔をして「嫌味?」とぼやいた。
今と違いすぎる清楚系の服装を名残惜しんでいるとでも思ったのだろうか。たしかに、たまに懐かしくなることはある。
あのころの玉響は、なんというか儚げで、独特の趣きがあった。今はきつめの化粧と言葉遣いのせいでそれが隠れている……というか、実際そのための武装なのだろうけれど。
尤も、彼女の
「そうじゃねえよ。……これ、口許しか見えねえけど、珍しくおまえが笑ってる。だから
「……、あっそ。好きにしろ」
呆れたように息を吐いて、玉響は物置部屋を出て行った。長い黒髪を翻して。
細い足は今はダメージジーンズに包まれているが、その下の傷が消えたわけではない。身を守るために鎧をまとっただけで、今も心は真っ白なワンピースを纏った、傷ついた少女のままだ。
その背を見送りながら、シュンマは祈る。誓うように。
いつかこの不条理の夜が明けて、玉響がもう一度、春の海辺を気ままに歩く日が来ますように。
その時は自分も隣で、はっきりと拝んでやるのだ。人工的な毒々しい赤ではなく、あけぼのの紫に彩られたくちびるが、写真の中の彼女のように柔らかな笑みを浮かべているのを。
そうして二人で記念写真を撮ろう。
叶うなら、夫婦として。
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