第7話-④

 病室を出て亀の如くのろのろと歩く。

「あの、功児先生でしょうか」

 突然話しかけられた。三十代半ばだろうか。この夫婦は、どこかで見たことがあるような。

「はい、そうです。申し訳ありません、歩くのが遅くて」

「いえ、他の先生方から事情は伺っておりますので無理はなさらず」

「そうでしたか、すみません」

 なぜ医師たちは教えたのだろう、と心の中で首を捻りながら、別に困るものではないのでいいか、と思い直す。

「こちらこそ、いつも娘がお世話になりまして」

 娘? 改めて夫婦を見て、ああ、と声が出た。

 不健康なまでに白い肌の父親、黒い髪と目の母親。

「兎本心音さんのご両親ですか。こちらこそいつも楽しくお話させていただいております」

「とんでもない、いつも娘は先生とこんな話をしたんだ、と楽しそうに教えてくれるんです。一人で小説を読んでいるだけよりなんだか生き生きしていて。こちらも嬉しくなります」

 なるほど、この二人が彼女に心音という名を付けた人たちか。

「……一つお伺いしたいのですが、心音さんの先生役にと私を選んだのはお二人ですか?」

「はい、そうです。こんな症状を持っている人で、他の患者さんに勉強などを教えている人がいる、と聞いた時、真逆とはいえなんだか合いそうな気がしまして」

「そうでしたか。あの、こう言っては何なのですが、症状などが似ているとはいえ、やはり心音さんと私は全く違う考え方を持っています。こうしてほしい、というものも違います。それで、いつでも心音さんやお二人が望むような対応ができるとは期待しないでいただけますと……」

「ああ、確かにそうですね。でも、心音から悪い話は聞いておりません。心音は最近楽しそうです。短い期間ではあるかもしませんが、どうか今後とも、心音をよろしくお願いいたします」

「はい、ではこちらこそよろしくお願いいたします」

 一礼して別れる。

 心音。彼女の心音は確かに、一つの音楽のようなリズムを刻んでいる。楽しげで、心を打つ音楽だ。


 なんとか自分の部屋に着いた。

 変動が激しいこの病院の中で僕の病室だけは、何年も変わらず一番奥にある。ドアの横のプレート、「亀山功児」をちらりと見てドアを開けた。

 彼女の部屋にあるものよりはやや旧式だが、同じように心音を刻む機械が目に飛び込んでくる。入り口で立ち止まって呟く。

「僕のリズムは、あまりにも遅すぎる」

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