包丁女と自殺少女
キノハタ
包丁女と自殺少女
どうしてカバンに包丁なんか入れてたの?
これがあれば誰か殺せるかなって。
……殺したいほど憎い相手でもいたの?
……ううん。
じゃあ、なんで。
…………。
………………。
……ただ。
……ただ?
……ただ、その気になれば人も殺せるんだぞって想いたかったの。
…………。
……そう想えたら、こんな私でも何か……何かは分かんないけど変われる気がさ……したんだ。
………、―――。
※
理不尽な言葉は残念ながら世の中にはたくさん蔓延ってる。
避けて通ろうにもそれはどこにでもあって、山道にある段差くらいどこにでもある。ない道を探すよりそれをどう乗り越えて進むかを考えた方がよっぽど建設的なんだろう。
そんな話、耳にタコができるほどたくさんの人から聞いてきた。
この理不尽は耐えてしかるべき。
こんな悪口の受け流し方。
こういう風にすれば理不尽の標的にはされない。
こうやって生きれば理不尽とうまく付き合っていける。
まるでもってその通り、そういう風に頑張ったことも何度も何度もあったけれど。
私の人生において何度目かの罵声はいつもと同じように降ってきて。
いつもと同じように、干からびた小枝みたいな私の心を踏み砕いた。
ああ。
ああ。
ああ。
ダメだ、死にたい。
おびえるような恐怖も、震えるほどの心も、壊れるほどの価値観も。
何もかも。
抱えてそのまま死んでしまいたい。
そうすれば、そうすればきっと。
何も悩まなくて済むんだから。
明日のことも、明日言われる罵声のことも、減らないミスも、壊れていく心も、何よりそれを生み出してしまう自分の弱さも。
何もかも。
全部消えてしまうんだから。
そうしたら。
もし、そうできたのなら。
この痛みも、この辛さも、この息苦しさも。
何もかもなくなってくれるだろうか。
もし、私に人が殺せたのなら。
そしたら何か変わるだろうか。
※
行き場所のない人間というのはどうして、こうも辿り着く場所が限られているのだろう。
少しさびれた海岸沿いで、うだるような海風に吹かれながら、ぼーっと佇んでいたら、なんだか見知らぬ女の人がやってきた。
ここは地元でもちょっと有名な自殺の名所。
バス停をこえて数分歩けば、断崖絶壁、眼下に広がるのは派手に音を立てる波の姿。覗き込むだけで背筋が想わず冷えてしまう、そんなところ。
一応、観光名所ってことになってはいるけれど、さすがに平日は人もまばらだ。訪れる人たちは、どことなく黄昏ていて、バスの運転手のおっちゃんもどこか悲しそうな目で私を見ていたっけな。
そんな場所で、潮風を感じながら、日ごろのストレスを呼吸に乗せて吐き出していたら、目の前にいた女の人が唐突にカバンから包丁を取り出した。
え? て感じ。おいおい、て感じ。勘弁してよ、とはさすがに口には出さなかったけれど。
たくさんの人がそこを訪れては去っていくけれど、さすがにその場で包丁をスラッシュしたり、崖にフライハイした例は地元民の私でもなかなかお目にかかったことが無い。というか、しっかりと初体験なわけでして。
「ちょ! えっ!! あ……? あの!」
焦るとまあ、気の利いたジョークも場を和ませる言葉の一つも出て来やしない。
至極まっとうに私は慌てて、至極まっとうに包丁片手の女の人に不思議そうな顔をされて。
いやいや、そこでそんなきょとんとした顔、なしでしょう。私が浮かべたいはそんな無邪気な疑問。
と、しばらく虚空で阿波踊りみたいなのを繰り返してから。
焦ったまま絞り出した第一声は。
「どうしてカバンに包丁なんか入れてんの……?」
という、どこまでも在り来たりなものだった。嫌だねえ、こういう時まで気の利いた言葉が出ないやつは。
物語の登場人物なら、もっと気の利いたことを言うんだろうな。
うるせえ、ああいうのは、作者がそもそも何時間も下手したら何日間もかけて考えた一言を、さも一瞬で考えたように言ってるからすごく見えるだけだよと、謎のツッコミが頭の中で木霊する。
でも、そう。私がもっと、たとえ気が利かないにしても、もっとマシな何かなら―――。
と、そんなことを考えていたら、ぼーっとした顔のまま、女の人は軽く首を傾げると自分の包丁を見据えながらゆっくりと口を開いた。
「これがあれば誰か殺せるかなって」
あれ、と思わずずっこけそうになった。ついでに、肩にかけていたカバンがガタリと揺れて、私の頭みたいに中身の軽い音がする。
てっきり、自分の首元にあてがう用かと思っていたが、違うみたい。
ええ、ということは殺人犯予備軍?
いや、しかし女の人はどう控えめに言っても、包丁持ったところで誰かを殺せるようには見えなかった。
細いし、儚げだし、動きも全体的にゆっくりしている。
正直、日本刀をもったところで、うちの同級生の男子たちの方がまだ怖いぞ。一回、じゃれて男友達と握手から本気で逃げるゲームやったけど、全く逃げられんかったし。私はあの時、初めて男子が別の身体を持った生き物だと言うことを実感したもんだ。
なので、まあ、恐らくこの控えめに言って私より力のなさそうなこの女の人では、ろくな人も殺せない。死にかけのおばあちゃんにすら、抵抗されそうな予感すらする。
というか、人を殺す何て言ってる割には、その女の人の眼には怒りも憎しみもないように見えた。
ただ、悲しさとどことない痛々しさだけが見えているだけな気がした。
「……殺したいほど憎い相手でもいたの?」
どうにか間を持たせようと、口を動かしながらふと慌てて、視線を周りに巡らせる。
もし、今の様子見られたら一発通報物じゃない? と思って見てみたわけだけど、幸い、この区画には私と女の人しかいなかった。
ちょっとだけ息を吐いて安心するけれど、いつ他の誰かが来るかと気が気じゃない。
早めに仕舞ってもらわないと。
と、焦る私を置いておいて、お姉さんは相も変わらずゆっくりとした所作でため息をつく。
「……ううん」
いねえのかよ。
そこまでしてたらさ、凄い具体的に誰か殺したいのかなって想うじゃん。違うんかい。
「じゃあ、なんで」
冷や汗が止まらない。おそらくこんなに神経を使って会話を続かせようとしたのは、父親がリストラされて帰ってきた日以来だろう。いやあ、あの時もしんどかった、さすがに普段は反抗期まっさかりでも気は遣うっての。
いや、まあ、そんなことはどうでもいいのよ。
「…………」
「………………」
今だけは沈黙がただ痛い。
うぐう、何か喋らねばとは想うけど、如何せんこっちは話題の少ないティーンエイジャー、最近見たツイッターのトレンドとユーチューブくらいしか話題がない。いや、世のティーンエイジャーは多分もうちょっとマシな話題があるだろうけど。
「…………ただ」
あ、会話続いてた。
「…………ただ?」
はー、助かったと胸をなでおろしかけて。
「……ただ、その気になれば人も殺せるんだぞって想いたかったの」
そんな言葉を聴いた。
「…………」
言葉は何も出て―――こなかった。
女の人は少し伏し目がちに、笑いながら。どことなく悲しい眼で包丁を眺めながら。
「……そう想えたら、こんな私でも何か……何かは分かんないけど変われる気がさ……したんだ」
そう、口にした。
私は思わずため息をつく。
それってっさ―――。
やっぱりさ、
女の人は、ぼーっとしながら、包丁の切っ先を眺めていた。
「…………、―――じゃあ、殺してみなよ」
それから、諭すようにそう告げた。
「―――え?」
歩を進める。
距離を詰める。
「だけどね、それだと向ける先が違うよ、自分に向けたって憎い相手は刺せないよ」
眼を見開く女の人の目の前まで、私の足をそっと延ばす。
それからそっと震えそうになる喉を使って、くじけそうになる腕を伸ばして、私は女の人の前に立った。
「
おびえるような目をじっと見て、真っすぐにその瞳孔の奥を見つめて。
「
こじれた感情というのは時に、自分に牙をむく。
「ねえ、本当は怒りたいんでしょ? 本当は憎みたいんでしょ?」
怒りとは外敵を倒すためのもの。憎みとは傷つけてきた誰かに反撃するためのもの。
そう、生み出された感情は、本当は自分を守るためのものなのに。
「でもそれをずっと我慢してたんでしょ? 憎んじゃいけない、怒っちゃいけない、そんな想い抱いちゃいけない、ってな感じに」
誰かに教え込まれた良識が、あるいはこの人自身の優しさが、心の行き場の邪魔をする。
膿のような感情を心の中に、ぐつぐつと煮詰めて溜めていく。
「それで行き場のなくなった想いはどこに向いたの?」
誰かを殺せたらと願う割に、包丁の切っ先はずっと女の人自身を向いていた。
「自分でしょ? そんな想いだを抱く自分が悪い、憎いし、苦しいし、辛いけど。そんな想いも抱えてる自分が悪い、解決できない自分が悪い―――って、そう想い込んできたんでしょ?」
ああ、ほんとにみっともない。みすぼらしくて嘆かわしい、弱くて、愚かしくて、ばかばかしい。まるでどこかの誰かさんみたいじゃない。
ああ、ほんと――――。
「―――やめてよね、そういうの」
ほんとにさ。
「
やめてよね。
「もし、なんか悪いことがあったとしてさ、それ本当に死なないといけないくらい悪いことなの?」
「別にいーじゃん、普通に怒って。なにくそって、言って愚痴漏らしてさ。憎んでいーじゃん。嫌いでいーじゃん。別にそれで誰かに迷惑かけたってさ、そんなこともあるじゃない。人間なんだから、誰だって完璧なんかじゃないんだから」
きっと。
「それでいいじゃない。なんでわざわざ自分を責める必要なんてあるってのよ。誰に何言われたっていいじゃない、味方はどっかにいるでしょう? ちょっとくらい、どうでもいい奴らに嫌われたって大丈夫よ」
きっと、あの人も。
「大丈夫よ。別に誰も殺さなくたって、生きてていいのよ」
もし、そう想えていたならきっとあの人も。
「別に誰かを殺せなくたって、あなたは変われるんだから」
そう、きっと、誰だって。
「だから、生きていてよ。お願いだから」
「お願いだからさ」
死ななくたっていいんだから。
「生きててよ」
※
父さんが会社をリストラされた。
結構、長いこと勤めていた会社だったらしいけど、終わり際はあっけないもので、紙切れ一枚であの人の役割はなくなった。
そりゃあ、私も最初はショックだったよ。
これから生活のことどうなんの、とか。
大学いけんのかな、とか。
あの人がもうちょっと優秀だったら、こんな悩みなかったのかな、とか。
医者の家系とかうらやましー、とか。
想わなくはなかったよ、なかったけどさ。
じゃあ、だから父親死ねなんて想ったことはなかったよ。
やつれていくあの人をみるのは正直、困ったけど。
それにまいっちゃうお母さんを見るのも、苦しかったけどさ。
だから、じゃあ、父親なんて死んじゃえばいいなんて、想ったことはなかったよ。
そりゃあ、私も言葉がたらなかったかもしんないよ。
その時、熱心に書いてた小説が公募の一次審査にすら引っかからなくて、自棄になってたかもしんないよ。
そりゃ怒ったりもしたり、腹立ったりもしたけどさあ。
死ねばよかったなんて、想ったことは一度だってなかったよ。
ねえ、お父さん。
遺書、見たけどさ、なんでそんなに謝ってんのさ。
リストラのこと私が一回でも、お父さんのこと責めたこと、あったっけ。
死ねばいいなんて、一回も言ったことないじゃん。いや、私のパンツと自分の洗濯物まとめて洗った時に、一回死ねとか言っちゃったけど、あれはさ、違うじゃん。
生命保険が出るからどうとか、お金がどうとか、そういう話じゃね、ないんだよ。
命の意味とかさ、生きる意味とかさ、わかんないけど、そういうんじゃないんだよ。
リストラのこともさ、なんで自分ばっか責めてんの。
どう考えてもお父さんだけが、悪いわけないじゃん。むしろ会社とかに怒ってさ、愚痴吐きまくるなら私だって一緒になってやったのにさ。
なんで、なんでさあ。独りで死のうとしちゃったの。
私とさ、お母さん、置いてさあ。
誰より何より、自分自身を守らないで傷つけてさあ。
本当はさ、怒ったりすればよかったじゃん。
本当はさ、泣いたりすればよかったじゃん。
弱みなんていくらだって見せたらよかったじゃん。私と一緒に、近所のコンビニでさ、バイトでも始めればよかったじゃん。
そうすればさ、きっと全部笑い話でさ。
そうすればさ、いくらでも―――変われたじゃん。
本当は自分を守ってたその気持ちをさ、ちゃんと認めてあげれてたら。
きっと、私達は―――。
※
「えと……落ち着いた?」
「……ずびっ……すいません」
「うん…………」
「………………」
一時間ほど、時間が過ぎて私たちはバス停で帰りのバスを待っていた。
夏も近い風が海からしょっぱい匂いを運んでくる。うん、潮の匂いだ。これは断じて私の涙と鼻水の匂いじゃない。
「えと……それで、お父さん死んじゃったの?」
「いいえ、生きてますよ」
女の人からもらった、ティッシュでぶびっっと鼻水を想いっきりかむと、なんか女子高生が出しちゃいけない量の鼻水が噴出した。自分のこの平たい鼻のどこにこれだけの鼻水が入っていたのか、ちょっと疑問。
「え、あれ。てっきり、死んじゃった流れかと……」
「自殺敢行して、絶賛入院中です。自室で首吊ってた時に、たまたま私が忘れ物取りに帰ってて、気絶してるとこ無理矢理引きずりおろしました」
「わあ、アグレッシブ……」
女の人はなんだかすっかり落ち着いていて、包丁もちゃっかりカバンにしまわれている。周りに他にバスを待っている人がいるので、お互いそこには触れないけれど。なかなかこの人も肝が据わっていると言うか。
「大の大人なんて、初めて持ち上げましたよ。火事場の馬鹿力的な。おかげでまだ筋肉痛、酷いですけど」
「……え、何時の話? それ」
「二日前」
「わお……」
私がそう言って、ティッシュを丸めると、女の人はそっと乾いた笑みを浮かべた。本来は落ち着ける役のはずの私が、散々取り乱したからか、女の人は、すっかり落ち着いていた。
ついでになんなら、ちょっと引いている。自分も似たようなことをしてたくせにねえ。
「ま、私の話はそれでいいです、それよりお姉さんの話」
「いや、いいのかなあ、それ……」
若干引き気味のあなたに、私はびしっと指を立てる。
「とりあえず、さっさと病院行った方がいいですよ。行ってます?」
「うん、頭の病院行った方がいいくらい酷いのは知ってる……」
女の人は、少し自嘲気味に笑みをひきつらせたので、私はもう一度ちゃんとその鼻先に指を突き立てた。
おい、まてと。
そういう、話をしてるのじゃないのだ。
私はお父さんの担当の精神科医の話を思い浮かべながら、口を開く。
「あのですねえ。本気でやばいなら病院は行った方がいいです。人間の脳って悪い方向に傾くと本当に何やってもダメに考えちゃうんです。
それはもうね、脳の病気だから仕方ないんです。誰が悪いとかでもないの。
あなたは、言っちゃえば過労で足の骨が折れちゃってるようなものなの。足の骨が折れてるのに、無理に動いて肉体労働している人がいたら、あなたどう想う?」
「え……、んと、休めばいいって……」
「でしょ? だから、怪我しちゃったんだと思って、病院行ってたっぷり休めばそれでいいの。何か月か休んだら、きっと死んじゃおうなんて気持ちもなくなるからさ」
本当に、そうなのかな。
言っていて、そんな疑問が浮かばないでもない。
だってこれはただのお医者さんの受け売りだから。
もしかしたら、これは希望論かもしれない。
もしかしたら、自殺するほどまでに追い込まれた心はずっと治らないのかもしれない。
けど……それでも。
「……そうかな?」
「そうだよ!」
そう信じられる方がいいと想った。
バスが来た。
見知らぬ女の人と帰り道を揺られながら、私は自殺の名所から遠ざかっていく。
まあ、今更それをする気にはなれなかった。
二時間ほど前の自分に、まさかこんなことになるなんて言って聞かせてやりたいくらい。
はあ、ほんと思い込みって酷いよね。
すこし自分の心から離れたら、こんなにも簡単にわかることが、本人だけはどうしようにも気づけない。
ため息をついたころ、女の人が、バスの停車スイッチを押した。
私が降りる場所とは違う所、最寄りの電車の駅前のバス停。
最後に私達は連絡先だけ交換して。
手を振って、そっと別れた。
スマホの画面に浮かぶ名前を見て、初めてその人の名前を知る。
いやはや、我ながら何をしてるんだか。
事実は小説よりも奇なり……なんて例えもありふれたものだけど。
今日、人生の長い道の中、たった一瞬すれ違っただけのあなた。
そんなあなたが、どうか幸いに生きればいい。
眼を閉じながら、そう想った。
きっと、死ねばいい人間なんて、そうそういやしないのだから。
バスの走行音が、夏の夕暮れの中で響いてる。
私は泣きつかれた瞼を擦って、ゆっくりと眼を閉じた。
終点までの、静かな時間をそっと胸に感じながら。
包丁女と自殺少女 キノハタ @kinohata
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます