【朗読OKな小説】雨夜の蝶に、二度、恋をする

つづり

雨夜の蝶に、二度、恋をする

 祖父母のいる田舎に、旅行バック一つで行くことになったのは、七月の終りのことだった。お盆の帰省としてはやや早い帰省。しかもしばらくの滞在になる……。

 俺の気持ちは、田舎へ向かう新幹線の時点で憂鬱で仕方がなかった。


 ブラック企業に勤めていた……就業時間を短く申告させて、仕事が終わってもとにかく次の仕事がある、そんな会社だった。ただこの会社の、今となっては狡猾なところではあるのだが、皆仕事に対する意識がとても高かった。この会社を大きくしようという意思が強かったのである。実際働けば働くほど、会社は成長するし、利益も出す。

 成長は何よりすばらしいと教育された社員たち、もとい俺は、会社の仕事が楽しかった。馬鹿みたいにがんばれた、そうしてがんばってしまった結果、倒れた。あげく、あんなに大好きだった会社に行くことすら出来なくなった。そういう心の状態らしい、悲鳴を通り過ぎて、吐血していると評されたくらいだ。


「あんまり、無理するもんじゃないし……休みなさい」


 そんな負傷兵になった俺に対して会社は優しく言った。休暇も長く取らせてくれるらしいが、もし復帰したときには、俺の居場所はないのだろうなと感じさせた。


 死んだら困るという言葉が顔に書いていた。

 そういえばと思い出す。

 会社に勤めていて、とつぜん病休をとるやつがいたが、どいつもこいつも戻ってこなかった。俺はそんなヤツラを弱いと思っていたが、俺も同じだったのだ。


 会社は慰めの言葉もかけてくれたが……俺にはどうでもよかった。慰めをかけられたからって、現実が変わるものでもない。口に出せば誰でも言える言葉が、あまりに心に届かない。だったら、現実を変えてほしい。この事態をどうにかしてほしかった。


 祖父母の家にたどり着くと、祖母は青白い顔をした俺に素直に驚いていた。祖父は表情を変えなかったが、来たばかりの俺に鍵を渡す。


「貸していた家が戻ってきたんだ……お前にそこを貸す。私達と一緒に暮らしても、気が詰まるだろう」


 しばらくそこで休みなさいと、祖父は言った。

仕事を実質的に辞めた身で、安く暮らすために田舎にやってきたものの……祖父母からどう見られるか気になっていた。静かに過ごしたいと思っていたのも事実だ。

 俺は祖父の申し出を受け入れ、家まで案内してもらった。


 熱い日だった。林沿いの道を通っていると、虫の羽音が良く聞こえる。

祖父と言葉をあまりかわさなかったが、休耕田に花を植えているところへ差し掛かると、唐突に祖父が口を開いた。


「昔、よく虫を助けていたな、お前は。蜘蛛の巣にかかったとんぼとか、家に入り込んで、出られなくなった蝉とか」


 標本用にいとこが捕まえた蝶を逃したこともあったな。


 どこか、嬉しそうな声の響きで祖父が語ってくる。祖父は俺に会えて嬉しかったのだろうか……仕事をしていたのなら、ほとんど帰ることはなかっただろう、この場所に。その事実が重くのしかかる。仕事さえしていれば……俺はぎゅっと拳をにぎった。


「昔過ぎて、よく覚えてないよ。虫を助けたことなんて」


 俺はどきまぎしていた。そっけなく言った言葉の、胸の奥の痛みに気づかれたくなかった。幸い祖父は気づかなかった様子で、小さく。


「そうか」と返した。


 セミの鳴き声が合唱と言うより、叫ぶかのようだった。

竹林が庭にある家に案内された。祖父の親族が使っていたそうなのだが、亡くなってしまい、相続したそうだ。


「この間まで賃貸で人が住んでたし、家の中は十分使えるぞ」


 祖父の言うとおりだった。家は整えられており、一人で暮らすのは広すぎるくらいだ。縁側から竹林が見ることが出来、静かに暮らせそうだった。


「あれ……」


 小さいといえど竹林のなかで、何かが動いた気がする。割合大きな影と言うべきか、田舎が故にたぬきでも入り込んだのだろうか。


「ここはウチとも近いし、何かあったらすぐに連絡しなさい」


 祖父は借りてきた猫のように大人しくなっている俺にそう言った。そして、案内をし終えると、早々に帰ってしまった。


 家にいるのは、俺だけだ。

 畳の部屋にいると、縁側から風が吹き、気持ちよかった。

移動に次ぐ移動という日でもあったから、俺はうとうとと目をつむり、そのまま昼寝をしてしまった……。


 嫌な夢だった。

 得意だと自負していたし、周囲からも認められていた仕事が急にうまくいかなくなったのだ。凡ミス、ケアレスミス、あげくのはては、自分が今何をしているのかわからなくなっている。

 周囲は俺をあからさまに責めなかったが、露骨な心配してきて、それが余計に辛かった。いつもどおりのはずなのに、どうして身体が動かない……まるで不意に底のない闇に突き落とされたかのようだ。思わず頭を抱えてしまい、そこから急に名前を呼ばれた。


 いきなりなんだと顔をあげたら、俺の前に白衣の男が座っていた。


「ストレスが大きすぎて、耐えられる容量と言いますか、それを超えてしまって……このままだともっとひどい症状が出る可能性があります……」


 医者からの宣告。何度も頭の中でリフレインした光景だった。

 医者曰く、このままの状態では仕事が出来ないということだ……否定したくても、口が動かせなかった自分。


 医者はそのまま診断書を作ろうとする……俺を病院に連れてきた兄弟に事情説明をしようともしている。


 やめてくれよ……これじゃまるで、壊れたみたいじゃないか……


 急速に遠くなる周りの光景に、俺は置いてかれたくなくて、手をのばす。

 

 やめてくれ……俺を……。


 何度も見た夢なのでわかっていた。この手を掴んでくれるやつはいない……皆が休養は勧めるが、そっと離れてしまうことも多かった。色々な事情があるのだろう、医者でもないものが、なにか出来るのかというのも事実だろう……。


 慰められたって、現実は変わらないのだから。

 わかっているからこそ、我慢しなくては。

 海の底に音もなく沈んでいくような絶望だった。


 このまま、堕ちていくまま、また目が覚めるのだろうと思った時、手のひらに温もりが宿った。


「大丈夫よ、ゆっくり呼吸して」


 上半身を抱き起こされたような感触、強く握られた手の感覚。

浅くなっていた呼吸が自然と静かに深くなった。おぼろげではあるが、目が覚めていく……俺の手を握って抱きしめている女性がいる。


 この家には俺以外だれもいないはずで……これも夢なのだろうか。目が覚めてきているのに、見ている夢があるのだろうか。

 優しい声で女性はささやいた。


「あなたはひとりじゃないから」


 女性からは花の香りがした。凛とした香りだった。

 おぼろげな意識が見せる夢……だとしても、悪い気がしなかった。女性は少しだけ泣いていた。雫が俺の頬に落ちた。


「自分を、どうか追い込まないで」


 彼女は俺がこうなってしまったことを哀れまないのか、責めないのか……ただ、手を握って抱きしめてくれるのか。


 純粋に寄り添ってくれるのか……


「俺はこれで、いいのか……終わってないのか」


「なにが終わったというの、あなたはまだずっと先があるわ」


「よかった、それなら……よかった」


 夢の延長だからこそ聞けた言葉かもしれない。

 ずっと欲しかった言葉だ、こんな言葉を人に求めるのは、よくないと思っていた。

 わがままだと思っていた。でも、言ってほしかったんだ。


 肩の力が抜けて、安らぎを感じる

……それは本当にひさしぶりの安らぎだった。俺は女性に身を預けたまま、また意識が落ちていった。


 気がつくと、畳の痕が顔に残るくらいに眠りこけていた。

こんなに深く寝入ってしまうとは……と思い、指で顔をこすると、白い汚れがついた。まるで液体の痕だ。涙とか、そういう感じの……そこでハッとした。


 俺がさっき見た女性の夢は……ホントに、夢だったのか……?


 動揺が胸の奥に広がり、俺は周囲を見渡した。


 あの女性は一体、誰だったのだろう。



 ……結果的なこと、事実をいうのであれば、家には誰もいなかった。

祖父に、借りた家について聞くと、事故物件ではなく、なにか大層な事件も起きたわけでもないらしい。

 しかし、俺は、この家に俺以外の誰かがいると思った。


 幽霊のような存在と言えば一番近いが、彼女が現れるのは俺が寝ていたりおぼろげに起きていたりのときだけで、ちゃんと覚醒してしまうと、はかなく消えてしまった。


 ……彼女との時間は段々大切なものになっていく。

 彼女は、優しかった。いつも優しい言葉をかけてくれた。

 そのことに触れると、彼女は少し恥ずかしそうに。


「あなたのほうが、ずっと優しいよ」と言った。


 俺を優しいと言うのなら、どこかで俺たちは会っていたのだろうか。

 面識があるような口ぶりだったのだが……俺には思い当たるフシがない。

 でも、もし会っているのなら、思い出したい……。


「あなたが、少しずつ、元気になるのがうれしい」


 そう、俺を優しく見守ってくれる彼女。

彼女が向ける優しさのきっかけが知りたかった。


 こんな不確かな存在の心をしりたいと思うなんて……と昔の自分なら笑う話だ。


 でも、俺は……。



 その日は雨だった。夜になっても降り止まず、雨が地面を叩いていた。夏の蒸し暑さから逃げたくて、縁側を開けていた。雨音がBGMだった。

 その日も彼女はやってきた。俺に寄り添うように隣に眠る。すっかりこの状況に慣れていた。意識がおぼろげになっている中で、ふと俺は昔のことを思い出した。


 そう言えば、あの時も雨だったなと言った。


「雨?」


 彼女は小首をかしげる。俺は小さく頷いた。

 そしてこんな話をした。


 昔のことだ、俺は祖父母の家に夏休みになるとやって来ていた。

年上のいとこも遊びに来ていて、一緒に遊んでいた。

 いとこは手先が器用で標本づくりを趣味にしていた。集めた虫を丁寧に標本にしているのだが、夏休みは虫を集めるチャンスなんだと喜んでいた。俺はいとこが好きだったが、その標本を作ることが好きということに関しては、複雑だった。


「飛んでいる虫がいちばんいいよ」


「でも、標本にしないと、キレイな羽も、姿も、残らないんだよ」


 最後は地面におちて、バラバラになっちゃうのは、もったいないよ。


 いとこのもったいないという感情は理解できないわけでなかった。だけど、俺にとってしっくりこない考えだった。

 そして雨の降る夜……俺はいとこから借りた本を返しに、いとこの泊まっている部屋に入った。するとそこで、いとこがニマニマと虫かごの蝶を見ていた。


「なあ、見ろよ。これ、すごいキレイだろ……ここらでなかなか捕まえられないのを捕まえたんだ」


 いとこに見せられたのは本当にキレイな蝶だった。紋様も色合いも、俺は見たことのない蝶だった。


「すごい……初めて見るよ」


「だろー、これを標本にしたらと思うと、笑いがとまらないな」


 俺は仰天した。明らかに子供心にですら希少性を感じる蝶を、標本にすると言うのか。俺の表情で何を言いたいのか察したのか、いとこは、少し不機嫌になった。


「あ、また標本にするの可哀想とか言い出すんだろ」


「標本にするのが可哀想というか……飛んでいる姿が好きなだけだよ」


「いつか死んで、汚くボロボロになるのに、なんでそっちがいいのかねぇ」


 いとこは俺の考えがとことん謎と言わんばかりに頭をかしげた。

そう言われても、そう思ってしまうのだからしょうがない。

 俺は虫かごの蝶を見た。蝶はふわふわ、ひらひら飛んでいる。

 虫に関しては、その頃よく蜘蛛や猫から逃したりしていたが、それはあくまで親切心に過ぎなかった。


 でもその蝶に関しては、このまま、いとこの標本箱のなかに閉じ込められるのかと思うと、むずむずした。

 もっとひらひらと色んな所で飛んでほしいと思ってしまった。


 ごはんの時間になり、みんなといっしょにご飯を食べている時もそうだった。そのあと、アニメを見ている時も、風呂の時も、ずっとむずむずしてた。落ち着かず、このままでいいのかと自問した。そして……。


 俺は蝶を虫かごから逃した。

 蝶はひらりと、虫かごから飛び出すと、部屋をくるくると飛んで、雨降る闇夜へと溶けていくように向かっていく。


 その姿が、俺の目に焼き付いた。俺は去りゆく蝶に語りかけた。


「元気でね、キレイな蝶さん」


 その後、蝶が逃げたといとこは怒り狂って暴れた。しかし標本にしようとした蝶が保護指定されていたことも判明した。いとこはそのことをわかっていても標本にしようとしたので怒られまくった。

 結果的に俺は良いことをしたらしい……でも俺にとって蝶を助けたのは、親切心というよりは。


 蝶に初恋をしたんじゃないかと思った。



 そんな俺の話を聞くと、感情を押し殺したような静かな声で、彼女は言った。


「なんで、その話を……私に?」


 彼女の疑問はもっともだった。唐突な昔話だった。

いきなりされて、面食らったのかもしれない。

俺はそうだなぁと、少し考えた。


「今の状況が昔とそっくりだったし……ほんと、印象的な蝶で……」


 俺はそこで言葉を切った。


「君に聞かせたかったんだ、なんだろうね……大切な思い出だから、君に知ってほしかったといえばいいのか……」


 どうにもうまくまとまらない。

 彼女も俺が困ってしまったのに気づいたのか、苦笑した。


「そんな、うまくまとめようとしなくて大丈夫ですよ」


 そして、彼女は呟いた。


「……あの蝶を忘れなかったんですね……あなたの心にちゃんと残ってたんですね私」


「え……?」


 それってつまり……と気づいて、俺も苦笑した。

すべてに納得がいく、なんだなんだ、鶴の恩返しみたいに、はじめから教えてくれたっていいじゃないか。


 でもそんな話を聞くだけの余裕はないか、最初の頃の俺は。

 ここまでの状態になったのも、俺が回復してきた証拠であり。

 心がちゃんと前を向けられるようになってきたのだろう。


 俺は寄り添う彼女を抱きしめた。夢を見ているのか、おぼろげに現実にいるのか、どちらかわからないけど、彼女は温かくそこにいた。俺は言った。


「俺、君のこと好きなんだけど、どうしたらいい?」


 いつも落ち着いた彼女の顔がみるみると赤くなる。

 彼女ははにかんで、俺の胸に自分の顔を押し付ける。

そうしてくぐもった声で言った。


「そういうの、ずるいですよ」

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