第26話 彼女の人生
僕は、別の世界の海に沈んでいた。
あの光が落ちてきた日と同じような、けれども別の海。
あのときは水面に浮かんでいくパノラマを見たけど、今度は何故かパノラマが水底に沈んでいき、僕自身はぐんぐんと浮上していた。
古風な袴に身を包んだ、黒髪の幼い鈴さんが、小学校の教室で授業を受けている。
ほんわかした雰囲気の鈴さんは、自分から人に話しかけることが出来なくて、なかなか周囲にうち解けることが出来ない。
ただ一人、眼鏡をかけた明け透けな女の子だけが、鈴さんと仲良くしてくれた。
彼女は川島米子と名乗った。
その子と鈴さんは無二の親友となって、長い間互いを支えとして生きていくことになる。
鈴さんは、書道に打ち込んでいた。
勉強は苦手だけど、書道なら人一倍努力も集中も出来るから。
その内、同じ書道教室の男の子と仲良くなって、一緒に帰るようになった。
互いの家にも遊びに行ったりして、一緒に家の軒先でスイカを食べた。
けれども男の子はツクツクボウシがうるさい夏の日に転校してしまって、再び会うことは無かった。
それが鈴さんの初恋だった。
時が過ぎ、終戦を経て、鈴さんは高等部に進学した。
そこで鈴さんは、一人の男子生徒に話しかけられる。
教室の隅で書道に関する本を一心不乱に読んでいた鈴さんは、最初は自分が話しかけられていることに気づいていなかった。
仕方無いので、彼は「また後で」と手紙を残していった。
翌日、鈴さんはその男子生徒にもう一度話しかけられた。
鈴さんは相手の顔を全く覚えていなかったので戸惑ったけれど、彼はまるで昔馴染みのように軽佻浮薄な態度で、鈴さんと親しくなろうとした。
はっきり言って、鈴さんは彼に良い印象を持てなかった。
それでも彼は時間が空く度に鈴さんの元へやってきた。気の弱い鈴さんは断ることも出来ない。
ある日、運動神経が悪い鈴さんは、体育の授業で転倒してかすり傷を負ってしまった。
それを遠くから見ていた男子生徒は、一心不乱に鈴さんの元へ走ってきて鈴さんをおぶり、保健室へと駆け込んだ。
大した怪我では無い、と言われて自分のことのように安心する彼を見て、鈴さんは初めて彼に心を許してみる気になった。
会う度に親しく話すようになった鈴さんと男子生徒の仲は、亀の歩みの如く時間をかけて進展していった。
鈴さんの方が引っ込み思案だったせいで会話が弾むわけでは無かったけど、それでも彼は笑いながら一緒にいた。
軽い性格の割に勤勉で、成績は良かった彼は、学者の道を志していた。
鈴さんは、彼の夢の話を聞くと、笹の葉が揺れる午前中の和室で書道をしているときのように、心が落ちつく自分に気づいていた。
卒業が近づいたある日、彼は鈴さんに告白してきた。
恋愛をすることに実感が湧かなかった鈴さんは三日三晩眠れずに悩んだけれど、勇気を出して彼の気持ちを受け入れることにした。
そうして、二人は恋人同士になった。
初めてのデートで二人は、電車に乗って花火を見に行った。
河原で初めて手を繋ぎ、茜色の空の下で打ち上げ花火を見上げる。
あまりに恥ずかしくて、鈴さんは彼の顔を見ることが出来なかった。
色とりどりの花火だけを延々と見続けていると、大きな彼の手が、鈴さんの小さい頭を慈しむように撫でてくれた。
その帰りに二人は、小さなそば屋で一緒にざるそばを食べた。
食の細い鈴さんがそばを残そうとすると、彼が勝手に平らげようとする。
自分の食べ残しを男性に食べられるのがたまらなく恥ずかしくて、鈴さんは機嫌を損ねた。
それが初めての我が侭だった。
時が過ぎて鈴さんは成長して、一人の女性になっていた。
彼は大学に入り、鈴さんは書道の勉強を続けた。
交際が続いてしばらくしたある日、鈴さんの母親が交通事故で急死した。
その数年前に父親も病死していたので、兄弟姉妹のいない鈴さんは一人ぼっちになった。
突然のことに茫然自失し、一人お通夜に泣きさざめく鈴さんの手を、ずっと彼は握ってくれていた。
自分がずっと一緒だから大丈夫だ、と力強く言ってくれた。
その日、鈴さんは彼の妻になりたいと思った。
彼の気持ちも同じだった。
大学を卒業して菌類学者になった彼と書道教室で働き始めた鈴さんは、周りに祝福されながら籍を入れた。
それぞれの道を突き進みながら、二人は幸福を噛みしめていた。
二人はいつも一緒に買い物に出かけた。
夫は自分が欲しい本を我慢してでも、鈴さんに高級な服を買ってくれようとした。
鈴さんは欲しい服を我慢して安物ばかり選んで、夫が欲しい本を買わせようとした。
互いが譲り合いすぎて、いつも手が届きそうな物よりちょっとだけいい物を買えた。
料理が苦手だった鈴さんは、塩を効かせすぎたり砂糖を入れすぎたりして、いつも夫を苦笑いさせた。夫は美味しくないものを食べたときにだけ「美味しい」と告げる、天の邪鬼な人だった。
悔しがった鈴さんが書道教室の先生をする傍ら、毎日料理の修業をして一番得意になったのがオムライスだった。
天の邪鬼な夫が、初めて本音で「美味しい」と言ったとき、鈴さんは勝ったと思った。
勿論喧嘩することだってあった。ちょっとした行き違いから、鈴さんの頬を夫が引っぱたいたこともあった。
そんなとき、鈴さんは夫の大切な資料や論文を風呂敷に詰め込んで、家出をした。
大体は同じ町に住んでいる米子さんの家に隠れて一夜を過ごそうとするのだけど、夫は必ず、仕事を放り出して汗まみれになって探しにきた。
意地を張って謝らず、けれど心底安心してホッとする夫の姿を見て、ようやく鈴さんは許す。
仕事を休ませてしまったことが申し訳なくて、次の日は美味しいご飯を作る。
それでいつも喧嘩は終わりだった。
いつ子どもが出来るのか。
鈴さんは、それが夫婦生活の中で一番の楽しみだった。
けれども悲劇はいつも、不意な通り魔のようにやってくる。
ある日、当時の医学では完治が難しい重病に、夫が冒されてしまった。
鈴さんが知ったとき、すでに夫の余命は残り少なかった。
病床の夫は、まだ若い鈴さんに新しい人と新しい人生を生きるように言ったが、日に日に弱っていく夫の前で、そんなことはとてもじゃないけど考えられなかった。
鈴さんにとって彼と過ごした日々は、どんな物にも代えられない、これ以上にない幸福な日々だった。
子どもは出来なかったけど、それでも毎日が華美な彩りに満ちていた。
数ヶ月後、予想されたより早く穏やかな顔で逝った夫の傍らで、鈴さんは一晩中泣き通した。
もうその手を握りしめてくれる、あの人はいなかった。
それから何年も月日が流れた。
さらに年を取り、鈴さんは一人の人生を生き続けた。
いっそ命を絶とうと思う日もあったけど、友人達と一緒に、鈴さんは日々を生き続けた。
一人のまま最後の時を待ちながら、米子さんと語らい、えつさんのやんちゃを心配し、菜恵さんの優しさを見抜き、純さんに新しい恋をけしかけられて。
鈴さんにとっての一番の救いは、書道教室での繋がりだった。
書道を習いに来る生徒達は、鈴さんにとってみな我が子のように愛しかった。
鈴さんが一生をかけて学んだものを、子ども達が楽しみながら身につけて、やがて大人になってくれることが何より嬉しかった。
そして――何百人目かに、鈴さんは僕と出会った。
僕は鈴さんに懐き、鈴さんといつも共に歩いた。
一緒に、歩いた。
過ぎ去った光景を見送りながら、海面へと僕は浮かんでいった。
「忠清くん……?」
鈴さんの声で、僕の意識は現実に戻ってきた。
薄桃色の唇をそっと僕から離しながら頬に紅葉を散らす、真っ赤な鈴さんの顔が間近にあった。
僕が意識を失ってから数秒程度しか、時間は流れていなかったようだ。
今見てきたパノラマが夢だったのか、幻覚だったのか。
僕には判別がつかないが、鈴さんの過ごしてきた何十年もの月日は、ただの並べられた写真では無いということは理解出来る。
僕が生きてきたたった十数年の月日と経験なんて、鈴さんが背負ってきた人生に拮抗するには薄っぺらすぎる、ということも甚だしく分かっている。
だけど今僕の手は、目の前の鈴さんが強く握ってくれている。
僕は鈴さんの背中を――
鈴さんの人生を強く抱きしめる。
鈴さんも抱きしめ返してくれる。
この温かさ。
矢張り。
鈴さんは、ずっと鈴さんだ。
僕も鈴さんも、海楼から見下ろされたパノラマなんかじゃない。
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