第25話 もう一度

 軽くなったバッグを担いで、僕はホームの門を出る。


 無理矢理鈴さんの腕を引っ張って強引に連れ出すべきだった、という意見も当然あるだろうけれど、僕にはそれが正しいと思えないのだ。


 力ずくで押し切るような真似をしても、鈴さんが着いてきてくれる気が全くしない。

 そういう若い恋愛が出来れば苦労は無いのだけど、何しろ僕は老人系男子らしいから。


 それに何十年も誰も引っ張り出せなかった鈴さんの想いを、そんな力業で変えられるわけが無い。

 僕の覚悟は、あの書の中に置いてきた。あれで駄目なら、また書くだけだ。


 命を懸けて、僕の方が、死に臨む。

 上手な方法では無いかもしれないけど、そうしようと僕は決めた。


 木漏れ日を浴びて田舎道を歩き、もう少しでバス停に辿り着く――

 そのとき。


「た、た、忠清くん!」


 叫び声に、僕は振り返った。

 ホームの方角から、鈴さんが走ってきた。


 ぜいぜいと呼吸を乱れさせて、半紙の束を大切そうに抱えながら、懸命に追いかけてくる。


「ま、待って。待ってぇ、忠清くん」


「鈴さん、無茶しないで下さい!」


 追いついた鈴さんは、銀色の髪を滝のような汗で濡らして地面にへたり込んでしまった。


 僕もしゃがんで体を支えようとするが、鈴さんはよろめきながらも自分の足で何とか立った。


「……ま、まだ、私にも、教えられることがあるかなあ」


 肩で息をしながら、必死に呻く鈴さん。


「まだ、忠清くんに書道を教えてもいいのかなあ、私」


 顔を上げた鈴さんの瞳から、ぽろぽろと滴が落ちた。

 陽光が透けて、銀色に輝いて見える。


 それは死を見据えるための涙と言うより、すがるような。


「もっと一緒に生きていいのかなあ、忠清くん?」


 あるいは、祈るような。


「いいに決まってるじゃないですか」


 それが神様の気紛れだとしても。


「本当に……? 私、もうすぐいなくなっちゃうかもしれないよ。いや、絶対に、絶対にいなくなるよ」


「――知ってます」


 そんなことは、知っていて忘れていただけのことだ。

 僕だけではなく、鈴さんだけでもなく全員が。


 この世界の誰もが、こんなことが起きなければ、忘れていたことだ。


 あるいは、そんな覚悟をもう一度人に考えさせるために、僕達の世界はこのように変貌してしまったのかもしれない。


 世代を変えることで、世界を見直すために。


「お願いだから、その時ぐらいは悲しませて下さい。思い出させて下さい」


「……それで、本当にいいのかい?」


「それぐらいの権利は下さい」


「……うん。分かった」


 憧憬にも似た目で、鈴さんが頷く。


「あげるよ、権利。だから――それまで離れないでいてくれる?」


「僕は生まれたときから、ずっと鈴さんと一緒にいたんですよ。今から離れろって言う方が、難しいです」


 息を整えて落ち着いた鈴さんに、僕は手を伸ばす。


 涙と汗でくしゃくしゃの鈴さんは、小さな手を僕の手に絡ませた。


「一緒に生きましょう、鈴さん」


 強く握り返す。

 その温もりには、もう微塵も違和感が無かった。


「――はい、忠清くん」


 鈴さんがにっこり笑う。


 その唇に、僕はそっと唇を重ねる。

 ふわりと暖かい。


 その瞬間――

 またしても、僕の意識に緞帳が下りた。

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