第24話 告白
門をくぐり、施設の玄関を通る。
中はとても綺麗だった。
病院のようなイメージを持っていたけど、それよりずっと静かで落ち着きがある。
常時の介護が必要な高齢者が入居する『特別養護老人ホーム』ならば、また雰囲気が違うのかもしれない。
入ってすぐの場所がホールで、丸テーブルや座り心地の良さそうなソファが並んでいる。
そこに座っている全ての高齢者が、男性だ。
皆、ゆったりとソファに座り込んで安穏とテレビを見ている。
彼らと一緒に、暇たそうな目を擦りながらテレビを見ている若い女性職員がいたので、僕は声をかけてみた。
「意外と人が少ないんですね、このホーム」
不意をつかれたらしく、彼女は慌てて立ち上がった。
「あ、ああ、はい。どちら様ですか?」
「入居者の家族です」
僕は平然と嘘をつく。
あながち嘘でもないし。
「そうでしたかあ。例の若返りが起きて、女性の入居者さんがたくさん自分から出ていってしまったもので……元々女性の方が多かった分、暇になってしまったんですよ」
彼女は苦笑する。
福祉施設や老人ホームは、激務のせいもあって人手が足りないとよく聞く。
暇になること自体、特殊な状況なんだろう。
「じゃあ、今入居してるのは全員男性ですか?」
「いえ、出戻りも多いと言うか――結局、戻ってくる女性もいるんですよ。何人かはまだ入居されてますよ」
「出戻り? 若返ったのに、老人ホームに帰ってくるんですか?」
僕が訊くと、彼女は周りを気にしながら口をすぼめた。
「ええ。大きい声では言えませんけどね。最近、若返った女性が老衰の症状で亡くなっているでしょう?」
「……『ぽたらか』のドラムの子も亡くなりましたもんね」
他人事のように僕が呟くと、彼女は頷いた。
「それで『自分もいつそうなるのか、分からないから』って人が何人か。ここに入ってくる方は、ご家族に迷惑をかけたくない、という人が多いですから……」
最後を、静かに迎えるために。
せっかく若返って家族の元に帰った『楼女』達の、それが決断だとすれば。
「寂しいお話ですね……」
「元々帰る場所が無かった、って言う女性もやってきます。見た目は若くても、年齢上は高齢者ですから、私達も受け入れますけど……」
彼女も話しながら、暗い表情になっていた。
めまぐるしく変化する状況に右往左往して心を痛めているのは、彼女達職員や他の高齢者福祉に従事する者も同じなのだ。
このまま話を訊いてあげようかとも思ったけど、僕の目的は残念ながら違う。
「あの、このホームに鈴さんて人が入居されてますよね?」
僕が尋ねると、突然彼女の表情が明るくなった。
「ああ、鈴さん! おられますよー! あの子――じゃなかった、あの方には、みんなお世話になってるんですよ」
「鈴さんが? 何かされたんですか?」
「はい。優しい方ですね。率先してホームのお仕事を手伝ってくれるんですよ。ああ、じゃあひょっとして貴方、鈴さんのご家族の方ですか! ……あら? でも鈴さん、家族はいないって言ってたような」
彼女が混乱しながら捲したてるので、僕は笑って。
「家族です」
断言した。
女性職員に許しを得て、僕はホームの中を歩き回った。
ホールやロビーにいなければ、鈴さんは部屋から出ない高齢者の相手をしているとのことだ。
広いホームを探索すると、稀に若い女性を見かける。
職員かと思ったが特別仕事をしているわけでもないし、緊張感も無い。
一度出ていって戻ってきたという女性達だろう。
安らかな顔で、達観したような笑顔で窓を眺める『楼女』達。
これが彼女達にとっての覚悟、彼女達の幸せなのだ。
若返ろうと、緩やかに、静かに、自分を見つめて過ごす。
菜恵さんがそうしようと決めたように。
その在り方を僕は否定なんてしないし、尊敬もする。
――けど、鈴さんは違う。
まだ違っていたはずだ。
僕はそれを信じて、鈴さんを探した。
一部屋一部屋、入居者の部屋をこっそり訪問する。
昼寝をしている男性、俳句に興じている男性、本を読んでいる男性。
みんなプライベートな時間を楽しんでいるようで、宅老所と雰囲気は変わらない。
少し安心した。
ある部屋を通りかかったときに、さらりと風の匂いが流れてくるのを感じた。
そっと僕は中を見やる。
ベッドの上に食事用のテーブルを置き、一人の高齢者男性が半紙と書道の道具を並べていた。
男性は難しい顔で筆を持ち、紙に向かい合っている。
男性の傍ら。
窓から吹き込むそよ風に銀色の髪をたなびかせて、薄桃色の唇でにこにこと笑顔を浮かべながら――。
鈴さんが寄り添うように、一緒に半紙を見ていた。
同世代の入居者に、書道を教えているようだ。
「そこの払いは一度手を止めて……そうそう、上手だねぇ。指が震えるのは仕方ないから、形になってればいいんだからね、栄六(えいろく)さん」
「おお、そうかそうか。鈴ちゃんは若いのに賢いのう」
栄六さん、と呼ばれた男性が破顔する。
「もう、私は栄六さんより年上だよ」
苦笑いする鈴さんは――
満ち足りているようにも見えた。
僕の中の覚悟が軋む。しかし戻るわけにはいかない。
やおら決然と、僕は部屋の中に足を踏み入れた。
「失礼します」
男性――
栄六さんが、すぐにこちらに気づく。
七十歳以上だと思うが、反応が早くてしっかりしている。
鈴さんも僕を見た。
驚いてはいるが、慌ててはいなかった。
僕の顔を見て、ちょっとだけ目と口を大きく開いて、すぐに寂しげに、目を細めた。
そして視線を落とした。
僕は栄六さんのベッドを挟んで、鈴さんと向き合う。
「どなたさんかね?」
不審そうに、栄六さんが見上げてくる。
「鈴さんの、家族です。藤原忠清って言います」
「おお、鈴ちゃんの! そりゃあ大歓迎だなあ。鈴ちゃんはいい子だぞ。わしみたいな爺さんの相手も嫌な顔一つせずにしてくれる」
気のいい人のようだ。
笑顔に清潔なハリがある。
「栄六さん……私は、栄六さんより年上なんだよぅ」
僕の顔を見ずに、鈴さんが悲痛な声で訴える。
若く見ないでくれ、見た目で判断しないでくれ、と請うかのように。
「いいじゃないか、若くて可愛いんだから何でも。可愛いは正義じゃ。忠清くん、鈴ちゃんの書道の腕前はすごいぞ。わしも昔やっとったが、この年でまた習うことになるなんて思ってもおらんかったわい。楽しくてたまらん」
水気のある声で栄六さんは笑う。
「知ってます。僕も習ってたんで、ずっと」
「おう、そうじゃったか! その若さで珍しい。楽しいだろう」
「ええ、とっても。書道は本当に奥が深いです。紙と筆さえあれば何でも表現出来ますもんね」
力強く、僕も笑いながら頷く。
笑いあう二人の年齢差のある男達の前で、鈴さんは沈黙している。
「それで? 忠清くんは鈴ちゃんに会いに来たんだろう? わしは席を外れるとするかい? いや、ここはわしの部屋じゃが」
「……会いに来たって言うか、一緒に帰りに」
「帰る?」
栄六さんは怪訝そうに呟く。
鈴さんが、びくりと体を震わせた。
「鈴さん。僕と帰ろう」
困惑した栄六さんが、鈴さんの顔を覗き込む。
俯いたまま、鈴さんは首を横に振った。
「無理だよ…………忠清くん。私は思い知ったんだよ」
静かに鈴さんが答えた。
「何をですか。何が無理なんですか」
「菜恵ちゃんが言った通りなの。私は見せかけだった。私と忠清くんは――世間が違う。見ている物が違う。住む世界が違う。年齢が違う。何より――」
死ぬ時が違いすぎるよ。
鈴さんは呻いた。
「……かもしれません。でも。違うことが、そんなにいけませんか」
「いけないに決まってるよ。だって、私、もうすぐ死ぬんだもの」
鈴さんの言葉には力が篭もっていた。
「すぐだなんて、そんなのまだ分からないじゃないですか」
「すぐだよ。忠清くんと比べたら、すぐ目の前。……おばあちゃんなんだよぅ私は。忠清くんは分かってるはずだよ」
張りつめる会話、空気。
隔てられた時間。
僕達に挟まれてしまった栄六さんは、居心地が悪いのか腕を組んで黙り込んでしまっている。
「鈴さんは……」
溢れてきた唾を、僕はごくりと飲み込んで。
「鈴さんは、僕のことを想っていてくれたんじゃないんですか」
「それが間違いだったんだよう。楽しんじゃいけない。喜んじゃいけない。浮かれちゃ駄目なんだよ、忠清くん。そうじゃないと、迷わせちゃうよ。不自然な気持ちで若い人を想っちゃいけないんだよ――苦しくなるだけだもの。私じゃなくて、忠清くんが。そんな益体も無いこと、しちゃいけないよ」
「桐春達を見たからですか」
僕は、問いつめるように訊く。
「純さんを失った桐春を見ていたから。そうなんですか」
鈴さんが強い悲哀に顔を歪ませる。
「純ちゃんは幸せだったと思うよ。でも、あの子は――桐春くんは、好きになった途端に相手に逝かれてしまったんだよ?」
「桐春は、本気で純さんと付き合ってましたよ。僕から見てもあいつは、幸せそうに見えた。あれが、全部間違いだって言うんですか?」
だとしたら桐春の恋愛は、何だったと言うんだ。
「……私はねぇ、忠清くん。君くらい若いときに、一番大切だった人を失ったの。それが辛くて辛くて、それでもずっと一人で生きてきたんだよ。長かった。とっても長かったんだ。誰かに、似たような思いはさせたくないんだよ。もしも……」
「もしも?」
「もしも、忠清くんが、私のこと好きになってくれたらって――そうなったら嬉しいって私も思ってた。でも、そうなったら、いずれ非道く辛い想いをさせてしまう。それだけは嫌なんだよぅ……」
「静かに、ただ側にいるだけっていう選択肢は無かったんですか。そういう付き合い方も、選んでくれなかったんですか?」
ただ、近所の子どもである僕に、書道を教える先生として。
もし、鈴さんがその方がいいと言うのなら、僕は従う。
生徒としてだけ、側にいて生きることにも耐えよう。
「それも駄目だよ……私はお婆ちゃんのくせに、駄目なのに、気持ちを変えられないんだよう。側にいるのは辛いんだ。分かって。分かっておくれ」
これは――
もしかして、告白なのか。
こんな悲痛に満ちた告白があるのか。
こんなものを見せるのが神の気紛れなのか。
「僕だって同じです。気持ちは変えようがありません」
神を呪うより先に、僕は鈴さんに答えなければいけない。
「それは、私が見せかけだけ若いから……」
「違います。僕は鈴さんが若返る前から、ずっと同じ想いでした」
鈴さんは唖然とした。
「嘘だよ、忠清くん……」
「あのころの気持ちが恋愛とか、そーゆう気持ちだったかどうかは分かりませんけど。でも、周りの誰よりずっと鈴さんと一緒にいたい、と思ってたのは確かです。鈴さんが若返ってから、それが強くなったのも確かです。と言うか、はっきり自覚しました。強くはなりましたが、変わったわけじゃありません」
「違う、違うよ忠清くん……」
「僕は鈴さんが好きです」
この言葉を告げるために僕はここに来た。
いつもにこにこ笑って人当たりが良い鈴さんが、僕は昔から大好きだった。
なのに今の鈴さんは感情を殺して目を伏せている。
「…………ごめんねぇ。それでも、私は帰れない」
「どうしても、ですか」
こくり、と鈴さんは頷く。
「もう、帰っておくれ、忠清くん」
いつもあんなにおどおどしていた鈴さんが、涙一つ浮かべない。
それだけ覚悟が深く、それだけ強い想いでいてくれた。
ならば、だからこそ。
僕は引き下がるわけにいかない。
「そういえば鈴さん、僕、お土産持って来てるんですが……」
僕はセカンドバッグを抱えて、ジッパーを開けようとした。
だが鈴さんは、俯いたまま首を横に振る。
もうこちらの目も見てくれない。何が何でも僕を拒絶する気だ。
気を遣った栄六さんが、割って入ってくれた。
「まあまあ鈴ちゃん、お土産ぐらい受け取ってあげてもいいんじゃないかね?」
「…………」
無言だ。
さらさら、さらさらと、風だけが通り過ぎる。
気まずそうに、栄六さんが僕に目配せしてきた。
「やれやれじゃなあ。どうするのかね、忠清くん……?」
「栄六さんも、書道が好きなんですよね」
「うむ。下手の横好きじゃがね」
「じゃあこれ、見てもらえますか?」
「うん……?」
セカンドバッグの中から、僕はそれを取り出した。
ここに来るまで、濡れないように、破れないように、大切に持ってきたものだ。
栄六さんはすぐにそれが何か気づいたようだ。抱きとめるように受け取ってくれる。
「これは――書じゃな。君が書いたのか?」
それは、半紙の束だった。
「はい。つまらない、下手の横好きの書ですけど」
「本当にわしが見てもいいのかね……?」
ちらりと栄六さんが様子を窺うが、鈴さんは依然として無反応だ。垂れた銀髪が瞳の色さえ隠している。
「よろしくお願いします、栄六さん」
僕は深くお辞儀をする。
この書を見てもらうとは、そういうことだ。
「うむ、分かった。拝見させてもらおう」
栄六さんは、慎重に僕の書を広げ始めた。
広げて。広げ続けた。
なかなか広げ終わらないほどに、僕の書は多い。
老眼鏡をかけた栄六さんは、厳しい目で見始め、見定めてくれている。
鷹のように鋭い年を感じさせぬ眼光。
好きというだけあって、書に関しては審美眼のある人のようだ。
長い時間をかけて焦らずに、栄六さんは僕の書を見てくれている。
その間ずっと、鈴さんは顔を上げなかった。
やがて栄六さんは大きなため息をついた。
「これは――本当に君が書いたのかい?」
「はい。拙くてすみません」
「いや。何が拙いものか。これは……大変だったろう。実に生き生きとした行書じゃ」
ホーム住まいとは思えない、強壮な笑顔で栄六さんが微笑んでくれた。
「ありがとうございます。でも、まだまだです」
まだまだなのだ。
まだまだ。
まだなのだ。
僕はまだまだまだまだまだまだ、書き続ける覚悟で、これを持ってきた。
栄六さんは半紙の束を一枚一枚見て、嘆息するようにため息を吐く。
「しかし忠清くん、鈴ちゃん、こりゃ――わしには無理だなあ」
顔を上げようとしない鈴さんに、栄六さんは半紙の束をつきつけた。
「見てやりなさい」
鈴さんは強ばって動かないが。
「見てやりなさい、鈴ちゃん。わしは読めはするが、これは分からん。鈴ちゃんにしか分からん書なのだろう。これはそういうものだ」
栄六さんが食い下がらなかった。
鈴さんは、躊躇しながらそっと、半紙に視線を滑らせて――
目を剥いて、手に取った。
もの凄い早さで、目を通していく。
「忠清くん、これは――あの子達の歌の」
写経の如くに延々と記された、数十枚にも渡る半紙。
それは、『ぽたらか』が発表した全ての曲の歌詞を、僕が書写したものだ。
僕と鈴さんが一緒に好きになった、あの混沌とした歌。
――この状況が訪れなければ、生まれなかった歌。
生まれてしまった希望の歌。
「どうして、これを書に?」
鈴さんが、少しだけ顔を上げた。まだ僕の顔は見てくれないが。
「鈴さんと僕が、一緒に好きになった曲だから。残しておきたかったんです」
「それだけで、こんなにたくさん書いたのかい? こんなに丁寧に――こんなに、上手になって……」
誉められて当然だ、と僕は自信家を気取る。
今までのどんな書より、全身全霊を込めていたのだから。
「それしかまだ曲が出てないから。実は、毎日ちょっとずつ書いてたんだ。鈴さんに見て欲しくて。いい曲ならこうして書にも出来る。僕が、鈴さんに教わった書道で、一緒に好きになった物をこの世に残せる」
「でも……あの子達はもう曲を……」
「出ます、新しい曲」
「え?」
再び沈みかけた鈴さんが、ぽかんと口を開ける。
「ドラムのアヤさんのお孫さんが加入するそうです。全員『楼女』ってわけにはいかなくなったけど、それも面白いかなって思う。若返る前からあの人達は、ずっと音楽で繋がってた。そういう受け継がれ方があったっていい。若い人も『楼女』も、一緒に生きるしか無い世界になったんだから」
「お孫さんが――そうなのかい」
鈴さんはそれだけ呟いて、再び黙り込んでしまった。
「鈴さん。僕は書道の腕はまだまだだけど、これからも書いて、残していきます。だからどうか、それを持っていて下さい。また持ってきますから。僕は、鈴さんに残し続けますから。鈴さんが何も残したくなくっても、僕の方が」
紙の上では、ずっと僕達は同じ世界にいた。せめて、その世界の上では。
「僕の方が、いつ死んでもいいように」
「忠清くん……」
僕は精一杯微笑んで、バッグを背負った。
「なんじゃ、帰るのか忠清くん?」
栄六さんが、名残惜しそうに僕を見た。
「はい。また書を書きためて、持ってきます。諦めたわけじゃないんで」
新しい曲が出れば、またそれを。
「そうか。全く、若者にしておくには惜しいなあ、君は」
「ありがとうございます」
よく分からない誉め言葉だったけど、悪い気はしなかった。
昔から、僕は年上にしか誉められない。
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