第17話 友の眠り

 無言のままタクシーに揺られて、僕と朋香は純さんの家に到着した。

 学校は早退させてもらった。


 ここに来たのは、僕も今日が始めてだ。

 鈴さんとの買い物帰りに会ったこともあり、純さんの家にはあえて訪問していなかったのだ。


 純さんの自宅はアパートだった。

 壁も鉄筋もぼろぼろで、相当に経年劣化しているのが分かる。


 ささくれて見窄らしいその印象は、若返った純さんの瑞々しいイメージとはかけ離れていた。


 二階の角部屋が純さんの部屋だ。


 玄関でベルを鳴らすと、見知らぬ女性に出迎えられた。

 中途半端にパーマがかかった髪が肩まで伸びた、恰幅のいい女性だった。


 四十代後半ぐらいに見えるが大分疲れた様子なので、実際はもっと若いかもしれない。


 どこか、若返る前の純さんに似ていた。


「今日はお忙しい所を、母のために――」


 深々と頭を下げられて、僕は畏まってしまう。


 話にだけ聞いていた、純さんの娘さんのようだった。


「……ご愁傷様です」


 自分で発してみると、妙に現実味が無い言葉だった。

 映画やドラマでしか聞いたことが無い、ただの儀礼としての硬い挨拶。


 朋香も僕の真似をして「ご愁傷様です」と抑揚無く告げて、所在無げに頭を何度も下げている。


 靴はいくつも並んでいなかった。まだ報せが行き届いていないのだろう。


 家の中は狭い。入ってすぐの場所が、乱雑に散らかったキッチン。

 その奥に、八畳ほどの和室が二部屋並んでいるだけ。


 純さんと娘さんだけの、質素な生活だ。


 親権を奪われたお孫さんは、今は遠くに住んでいるのだったか。

 片方の部屋に目をやる。


 布団に寝かされた、純さんの姿が見えた。


 顔にかかった白い布の隙間から覗く若々しい肌と、染められた艶のある髪。


 その前で、うずくまるように桐春が正座していた。

 びくりとも動かない。部屋には、他に誰もいない。


 生きているものが何も無いように見える。

 モノトーンの世界の息をしない住人。


 寝かされた人形。

 座っているのも人形。


 ここは人形の家だ。


 異物である僕達が触れたらその脆い世界観を壊してしまうような気がして、中に進むのが躊躇われる。


 けれど立ち尽くしているわけにもいかない。

 横で絶句している朋香の手を引いて、僕は部屋に入った。


 桐春の隣に座って、純さんの遺体を見つめる。


 亡くなった知人をこの目で見るのは、小学校低学年のとき、実の祖母の葬儀以来だった。

 

 あのときは鈴さんも弔問に訪れたはずだ。

 こんなに若い人の遺体を前にするのは、初めてだ。

 

 ――若い人、では無いか。


「桐春くん……」


 消え入りそうな声で、朋香が桐春に語りかけていた。 


「おう」 


 俯いた桐春が、少しだけ顔を上げた。

 目の下が真っ黒だ。


 寝ていないのか、泣きはらしたのか。あるいはその両方か。


「お前、ずっと一緒にいたのか?」


 僕の声は甲高かった。

 憐憫と動揺に、声量のコントロールを奪われている。


「ああ。亡くなった瞬間から、ずっとな。離れたらどっかに行っちまうんじゃないか、って怖くてさ」


 話しながら、桐春は純さんから目を離さない。


「純さん……何で亡くなったんだ? お前に訊くのも、変な話だけど……」


「急性心不全。俺の部屋で、居眠りしてたときにな。救急車呼んで、病院着いたときには、もう駄目だった」


 朋香が、早くも目頭を抑えて嗚咽を漏らす。


 ライブ会場での朋香と純さんは、結構気が合っていた。

 若返った純さんと朋香は、世界の受け入れ方に共感出来るものがあったのかもしれない。


「忠清。俺、結構ショックなんだよ。彼女は取っ替え引っ替えしてきたけどさ。今までで一番、純さんが放っておけねータイプだった。何十歳も年上なのに、変な話だけどさ――ずっと側にいてやんなきゃなーってタイプは、初めてだったんだよ」


 ふとこちらを見た桐春が、茫漠と僕の視線を捉える。


「俺の考え、変だと思うか?」


「まともだよ」


 即答する。


「そうか。安心した。お前ならそう言ってくれると思ってた。さすが忠清だな」


「いや――僕も普通だよ」


 漠然と。

 分かりきった計算式の回答を、確認するだけのようなやりとり。


 朋香は何も言わなかった。


「……顔、見てやってくれよ。いいよね?」


 気づくと、純さんの娘さんも部屋に入ってきていた。

 無言で頷き、全て桐春に任せている。


 面識は前からあったんだろう。


 恋人の娘が自分の母親と同じぐらいの年齢、と言うのも不思議な話だ。


 桐春は純さんの顔にかけられた布を、丁寧な仕草で取った。

 瞼を閉じた純さんのほっそりとした顔。


 青くなってきた薄い唇。


 綺麗だった。


 目が離せなくなった。


 枕元に、湯呑み茶碗と綿棒がある。

 

 僕と朋香はおもむろに綿棒を手に取って、湯呑み茶碗の水に浸す。

 それを順番に純さんの唇に当てて、潤してやった。


 末期の水。


 本来は死に立ち会った親族が行うことだが、桐春も純さんの娘さんも、僕達がそうすることを許した。


「純さん。忠清と朋香ちゃん、来てくれたぜ」


 愛しそうに、桐春が囁く。


 それを聞いた朋香が、耐えられずぽろぽろと涙をこぼし始めた。


「純さん、会いに来たよ……また、ライブ一緒に行きたかった。今度泊まりに来てくれるって言ってくれたよね。朋香ちゃんは友達だって言ってくれたよね」


 呻き、朋香は何度もしゃくりあげる。


 解離した僕はそれをどこか遠くの情景のように感じながら、朋香の手を強く握ってやった。

 朋香も握り返してくる。


 多分、僕の方が助けを求めていたんだと思う。


 ゆらゆらたゆたう僕の意識を呼び戻したのは、来客を知らせるベルの音だった。


 純さんの娘さんが、迎えに出ていく。


 空気の流れが変わり、僕は機械的に振り返る。

 玄関に立っていたのは、鈴さんだった。


 桐春が連絡したのだろう。

 僕達の姿を認めて、ぺこりと一礼しながら部屋に入ってくる。


 僕と朋香の後ろに腰を下ろした鈴さんは、泣きさざめいている朋香の頭に手を置き、優しく撫でた。


「鈴さん……」


 すがるように呻く朋香。


 寂しそうに、けれども狼狽すること無く、鈴さんは微笑む。


 いつもはおっとりとしている鈴さんが、その場で一番気丈に振る舞っているように見えた。


 朋香を撫でながら、鈴さんは純さんの穏やかな顔を見つめる。哀惜に満ちた瞳で、まばたきもせずに。


「純ちゃんも、逝ってしまったんだねぇ……」 


 呟いて、静かに深く息を吐く。


 しばらく瞳を閉じたかと思うと、鈴さんは泰然とした表情で桐春に向き直った。


「桐春くん。気を確かに持つんだよ。純ちゃんの娘さんもこれから大変になるから、貴方も手伝ってあげないとね」


「……勿論っすよ」


 桐春の固い表情が、幾分か和らぐ。


「偉いね、桐春くん」


 鈴さんは心強そうに、にっこり笑う。慣れた様子だった。


 僕は思い出す。

 

 この人はかつて最も愛したはずの相手をこうやって見送ったのだ。


 まだまだ女としても先が長い、本当の意味で若かった頃に。


 それからもきっと、何人もの相手を見送り続けているのだ。


 例えば、僕も覚えていない祖母を。


 それに慣れることは、幸せなことなんだろうか?


 僕は、たった一人でもこんなに苦しい。


「忠清くん、朋香ちゃん。貴方達も悲しいだろうけど、お友達を見守って、助けてあげるんだよ。私もこれから手伝うからね」


 優しくも厳しい目だった。強固に僕の心が、現実に繋ぎ止められる。


「はい、鈴さん。純さんは僕にとっても、朋香にとっても友達ですから」


 僕が答えると、朋香も泣きながら頷く。

 鈴さんがまたにっこり笑う。


「良かったねえ。純ちゃんきっと、幸せに思うね」


 鈴さんが、純さんの顔を覗き込んで語りかける。


 その笑顔が一瞬だけ翳るのを、僕ははっきりと見てしまった。

 そして、とても小さい声で。


「……これが、『みしるし』なんだねえ」


 鈴さんは辛そうに呟いた。

 

 僕の大切な友人の一人はこうして、眠りについてしまったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る