第15話 好きなんだよ

 あの『光が落ちてきた日』から数えて、何度目の土曜日になるだろうか。


 僕は鈴さんの家に向かっていた。

 先週はライブで潰れてしまったけれど、書道教室は出来るだけ欠かさないようにしている。


 気持ちのいい晴れが続いてたはずなのに、今日は朝から生憎の雨。


 まあ、陽が出ていないのには慣れているから気にしない。

 僅かな距離、傘を差しながら濡れる町並みを観察するのも一興だ。


 通りかかった家の庭からはみ出した紫陽花が、たっぷり水を含んでも垂れている。

 成長しすぎたミミズが道路の上で跳ねる。

 長靴を履いて大きな傘を持った小さな男の子が、水たまりをばしゃばしゃ音を立てて、破壊しながら進む。


 僕の近くの水たまりにいるアメンボは、きっとその音に怯えている。変わりない運命に沿われて生きている。


 なかなか風流で風情があった。

 これぐらい穏やかな気持ちで、落ち着いて鈴さんとも向かい合いたいものだ。

 

 玄関先で僕を出迎えてくれた鈴さんは、何だか落ち着きが無かった。


「お、おはよう忠清くん。奥の部屋、準備出来てるからね」


 僕の目を見てくれないし、よそよそしい。


 今日は僕としか会う予定が無いはずなのに、朋香達と一緒に買った一式の服を着込んでいた。

 すっかり一張羅と化している。


「じめじめしてるし、その服暑いんじゃないの、鈴さん?」


 靴を脱ぎながら、僕は訊いてみた。


「そ、そうだねぇ。うん……暑いし、変だねぇ」


 鈴さんは恥ずかしそうに頭を掻いた後、少しだけ寂しそうな顔をする。


「どうかしたの?」


「な、何でも無いからね」


 無理矢理に笑顔を作って、鈴さんは早足で廊下を進んで部屋に入っていった。


 奇妙に思いながらも、僕も鈴さんの後を追う。


 部屋に入って座布団に座り、半紙と筆を用意しながら、窓の外の竹林を眺める。


 竹が雨を弾く音が耳に心地よい。

 ただ、雨に濡れた笹は疲弊したかの如くにぶらりと垂れている。

 

 さらさらという独特の音が聞こえないのは少し物足りない。

 やがて鈴さんも僕の近くに座った――

 

 のだけど。


「それじゃ、始めようかねぇ?」


 微妙に距離を置いて座られていた。

 人が二人ほど、間に座れるほどの空間がある。


 この狭い部屋では、遠すぎる距離だ。


「……鈴さん、その場所から、僕の筆遣い見えます?」


「えっ。あ、ああ……そうだね、全然見えないね」


 弛緩したような笑顔で、鈴さんは正座のポーズのままずりずりと足を動かして、僕の隣に近づいてきた。

 そのまま、今度は僕にお尻を向けて座る。


「さ、さあ。始めていいからね」


「…………」


 ――どうしたものか。


 ずっともじもじされていると、僕にまで緊張が伝染してくる。


「鈴さん、僕、なんかしちゃったかな」


「な、何のことだい?」


「いや、なんかさっきから変だから、鈴さん」


「……変かい? 私、気持ち悪い?」


 そう言いながら、鈴さんはずっとお尻を向けたままだ。


「気持ち悪いわけないでしょう」


「……本当かい? 髪の毛の色とか、変じゃない?」


「今更何を言うんですか。とっても似合ってますよ」


 ぴくん、と鈴さんの背中が伸びた。

 名前を呼ばれた猫のようだった。


「えへへ、そうかねぇ」


 今度は誉められた猫のようだった。嬉しそうだ。

 前回不覚にも、堂々と


 「可愛い」


 と言ってしまった僕も、思い出して歯がゆくなってくる。


 もう一度その言葉を言えば、もっと喜んでくれるのかもしれない。


 そう思って口を開いてみたけれど、言えなかった。


 それを簡単に言ってしまったら、気軽に伝えてしまったら。


 何かが壊れそうな、そんな気がしていた。


 結局その日の鈴さんはずっとそんな調子で、書道の指南どころじゃなくなってしまった。


      *


 月曜日の放課後。


 梅雨の時期もとっくに過ぎているのに、連日続く雨に辟易する。

 晴天続きのときも文句を言っていた気がするけど。


 授業も終わって、後は帰る以外にやることは無い。


 ここは山の奥の学校だけあって、校門から家までの距離が異様に長い。


 そもそも校舎を出て校門を出るまでが長い。


 外が雨だと思い浮かべるだけで、帰るのも面倒になってしまう。


「忠清、ちょっと話があるんだけど」


 空模様を見ながらもたもたしていた僕は、朋香に声をかけられた。


「改まって何だよ? 桐春は帰ったのか?」


「もうとっくに帰ったよ。純さんと会うんじゃないかな」


 朋香の態度も、鈴さんとは別の意味でよそよそしい。

 棘があるようにも見える。


「そっか。仲が良くてうらやましーことだな。で、何の話?」


「……ここじゃなんだから、外の踊り場まで行かない?」


「……いいけど」


「じゃ、いこ。すぐ終わらせるから」 


 朋香が言っているのは、屋外で各階を繋ぐ非常用階段のことだ。


 非常用と言っても、常時誰でも使うことが出来る。


 休み時間になるとリフレッシュしに来る生徒が意外といる。


 僕もたまに、ここで一人でぼーっと昼食を取ることがあった。


 屋根もあるので、余程横殴りの雨でも無ければしのげるだろう。


 朋香と一緒に廊下に出る。

 生徒はまだまばらにだが、校内に残っていた。非常用階段に向かおうとする生徒はいないようだ。


 言われるがまま真っ直ぐ踊り場に出て、僕は朋香と二人きりになった。


 最近は鈴さん達『楼女』と過ごすことが多かったせいか、同世代と二人きりになるのは珍しい気がする。


「――この前、鈴さんに抱きつかれたでしょ」


「は?」


 いきなりだった。


「『ぽたらか』のライブのとき。終わった後、私達はぐれたでしょ?」


「あー……」


 将棋倒しになった客から、鈴さんを助けだしたときのことか。

 あの後すぐに朋香達とは合流出来て、事なきを得た。


「あのときは色々あったからなー」


 しみじみ僕が言うと、朋香が気色ばんだ顔をした。


「やっぱり――本当は見てたの、私。遠かったから、他のみんなは気づかなかったみたいだけど……ぴったり忠清の腕にしがみついてる鈴さんと、忠清が愛しそうに鈴さんの頭を撫でてる所」


「え……ああ、いや、それは――」


 それは、鈴さんが恐怖でショック状態になっていただけだ。

 確かにあのときの鈴さんの表情は可愛らしく感じられたけど。


 その前に、ちょっとショックな言葉を聞いてしまった分、余計に。



「別に、朋香が気にするほどのことじゃないよ」


「ふうん、私は蚊帳の外ってわけ?」


 朋香の声が低くなる。感情を押し殺している。


 何を怒ってるんだろうか。


「鈴さんだから――鈴さんだったから。私も、気にしてなかったんだけど、さ……」


 沈鬱な表情で、言葉を途切れさせる。


「忠清は気づいてないかも、しれないけどさ……」


 何を言おうとしているんだろう。何に苦悩しているんだろう。












「鈴さんは、忠清のこと、好きだよ」














 雨の音に、曖昧に誤魔化されること無く。


 文節ごとに、きっちりと僕の耳はそれを捉えた。


「好き、って……?」


 朋香は、どういう意味で言っているんだろう。


「僕が鈴さんに実の孫のように育てられたから、それが……」


「そんなんじゃくて!」


 朋香は悲痛そうに叫ぶ。


「そんなんじゃくて――女の子として。鈴さんはきっと、忠清のことを好きになってるんだと思う」


 ただの女の子。

 小さくて弱い。

 それは確かに僕も、何度か鈴さんに感じてしまった感覚だが。


「冗談――ではないよね」


「だったらいいよね」


 ふて腐れるように朋香は笑む。


 この短時間で、朋香の黒い部分を、矢継ぎ早に見せられている気分だった。


「変な話だけどね。鈴さんだって女の子だもん。あんなに分かりやすいと、私だって気づくよ。鈴さん、忠清のことばっかり見てるし」


「それは、元々俺が鈴さんの世話とかよくしてたから……」


「そういう目じゃないもん、あれは」


 朋香が僕の言葉を遮る。


「昨日さ。私、鈴さんに誘われて、買い物に付き合わされたんだ」


「と、朋香が? 珍しいな」


 いつもなら、買い物を手伝うのは僕の役目なのに、何で朋香に?


「新しい服が欲しいんだって。私や忠清から見て可愛いと思える服がいい、ってお願いされた。忠清、鈴さんに何か言った? 今の服に飽きたとか何とか」


「いや……部屋の中は蒸すし、その服じゃ暑いだろうからやめた方が、って言った覚えはあるけど」


「……それだね。ひっどいなあ」


 朋香は、大きく嘆息した。

 呆れているようだ。


「鈴さん、いつもあの服着てたでしょ。忠清と外に出るときは」


「うん。宅老所の知り合いに、自慢したいんだろうと思ってたんだけど」


 ――違うのか? 友人に見せたいんじゃないのか。


「違うよ。鈴さん、忠清がいいって言ってくれた服を、忠清に見てて欲しかったんだよ。分かんなよ、それぐらい」


「僕に、見せたいから……?」


 愕然とした。


 ――忠清くんと選んだものだから。


 いつだったか、鈴さんはそう言っていたか。


 思い出してみれば、えつさんや米子さんと会ったときも、鈴さんが自分の服装について自慢したりすることは一度も無かった。


 鈴さんは、相手のことは良く見ていたのに。


 ただ、僕に見せておきたいと言うだけで。


「鈴さん、自分じゃまだ服とかセンスに自信無いんだよ。だから、私が選んであげた服なら忠清も好きなんだろって、そう思ってずっとあの服着てたの。そんな人に向かって『止めた方がいい』は無いよね」


「う……」


 悪気は無い。

 そんなつもりじゃない。


 無いけど、鈴さんにとってそれは――。


 ――それは?


 どんな気持ちだ?


「新しく、忠清に気に入ってもらえる服を探したかったんだと思うよ。仕方なく付き合ってあげたんだけどさ……いつか自分で選びたいねえ、朋香ちゃん来ると安心だねえって、にこにこ笑ってるんだもん」

 

 笑ってるんだもん。

 朋香は、なぜか二回呟いた。


「……」


「忠清だって分かってると思うけど。『楼女』とかって世間は騒いでるし、『ぽたらか』みたいなバンドも出てきたけど……鈴さん達は、本当は女の子じゃない。中身はお婆ちゃん達なんだよ。見た目は若くても、お婆ちゃんなんだよ」


 議論をするような口ぶりで、朋香は目が血走っている。


「そんなこと、僕は……」


 僕はそう思わない――

 なんて言い切れるのだろうか。


 鈴さんの本心も、本人に聞いてみないと分からない。

 僕は本当の所、相手をどう見ているんだろう。


 あの日の、鈴さんの言葉を。


 思い出に浸る、鈴さんの陶然とした顔を。


 ――あのとき僕は、なぜ辛かったんだろう。


「私だって見て欲しいよ」


「朋香……?」


「私の方が、忠清に近いよ。私の方が、忠清のこと、ずっとずっと――鈴さんよりも前から」


 呟きながら、朋香は泣いていた。


「…………」


 また何も言えない。こんなんばっかだ。


「……いいよ、もう。忠清なんか、お婆ちゃん達とずっと一緒に生きてればいいよ」


 ぼろぼろと涙を流しながら、朋香は歩きだす。


「おい、朋香?!」


 何度呼び止めても、朋香は戻ってこなかった。


 雨がやんでいた。


 気持ちはちっとも晴れ渡っていないのに。


 濡れながら、混乱した頭を冷やしながら帰ろうと思ったのに。


 ――矢張り。


 僕は間が悪い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る