第9話 みしるし
世界各国が、『楼女』の若返りのメカニズムに目をつけて調査隊を送り込んでくる。
日本政府も定期的な検診を繰り返しながら、志願した被験者の研究に余念が無い。
この若返りが高齢者男性にも応用出来るようになって、やがて全世界の高齢者にも適用出来るようになれば、人類の悲願である永遠の若さが手に入る。
それが種として正しいことなのかどうか、僕などには到底判断出来ないことである。
――なんて、世界の行く末にも興味を引かれないわけではないけれど、実際に『楼女』と触れ合っている僕には『彼女達が若返った自分達と、どう向き合って生きていくのか』ということの方が身近でクリティカルな問題だ。
鈴さん以外にはまだたった二人だけど、出会った『楼女』達の生活の変貌は、僕自身の世界観を一変させたように思う。
さて、すっかり恒例行事となってしまった宅老所メンバー訪問だ。
今日も鈴さん宅で書道の練習を終えた僕達は、二人で町を歩く。
朋香や桐春は、最近は付き合ってくれなくなった。
楼女も今や珍しくないし、遠出してまで会おうとは思わないらしい。飽きっぽい友人を持ってしまったものだ。
今日向かうのは、宅老所メンバーの中でも一番の変わり者、黒深菜恵さんの家だ。何しろ、職業が特殊で『祈祷師』である。『占い師』でもある。
鈴さんや他のメンバーにもあまり近寄らず、ただ宅老所でお茶を飲みお菓子を食べて、時間を潰して帰っていく不思議な人。
鈴さんはたまに話すそうで、
「菜恵ちゃんは意外といい子」
なのだそうだ。
「菜恵ちゃんだけは、家にも行ったことが無いからねえ……どう過ごしてるか気になるねえ」
「元気だといいね。菜恵さんって占い師だし、こうなることも占いで分かってたりしなかったのかな?」
「菜恵ちゃんのことだから、全部分かっているかもねえ。今日私達が来ることも、ひょっとして知っているかもしれないよ」
冗談を言い合いながら、僕達は歩く。気楽な散歩だ。
かつては限られた狭い範囲内でしか鈴さんと一緒に歩くことは出来なかったけど、今の鈴さんとならどこへでも行けそうな気がする。
鈴さんの服装は矢張り、あの日買ったコーディネート。
飽きないのだろうか。自分の服装をちらりちらりと見ながら歩く癖だけは直した方がいいと思うけれど、特に口を突っ込むことはしない。
住宅街を過ぎて、見えてくるのは田園ばかりになってきた。A市は中心地からちょっとでもずれるとこんな感じだ。
青々とした草と湿って泥臭い風、信じられないほど多いカエルの合唱。
やけにでかい虫。
単純には美しいとは言い難い、けれども心は落ちつく野趣溢れる光景。
その田園道の先にあったのはボロ屋と呼んでも差し支えない程、傾いている民家だった。
最初からそうデザインされたかのように、地面に逆らって建っている。周りにはほとんど人家が無い。
「菜恵ちゃんの家、だねえ?」
鈴さんが、僕に確認するように呟いた。
「た、多分……」
胡乱に答える。
他に家が無いので疑いようは無いのだけれど、それぐらいにその家は浮き世離れしていた。
近づいてみたら『黒深』という表札があったので、間違いない。
どこを探してもチャイムボタンが無いので、仕方なく玄関のガラス戸に手をかけた。
すんなりと開く。
警戒心の薄さが田舎らしいと言えばらしいけど、今どきは田舎でも鍵ぐらいかけておく。
不用心なのか、それとも余裕でもあるのか。
僕が家の奥に向かって呼びかけようとすると。
「いらっしゃい、忠清。それに鈴もだね」
「!?」
いきなり声がしたので、僕も鈴さんも心臓が飛び出そうになった。
灯りの無い長い廊下の奥から、ことり、ことりと小さな足音と、ぼんやり黒い輪郭がこちらに近づいてきていた。
腰まで長い黒髪。細長い背丈。横たわる三日月に似た切れ長の瞳。喪服のような黒いレースの服は、以前と変わらない。生気が無い。
失礼な言いようだが。黒衣の死神に見えた。
「久しぶりじゃな。わしが誰だか分かるね?」
分かりやすい老人言葉の――若返った、菜恵さん。
「な、菜恵さん、びっくりさせないで下さいよ!」
しどろもどろに訴える。額から冷や汗が吹き出てきた。氷柱を突っ込まれたかのように背筋が冷たい。
鈴さんも同じように、こくこくと頷いている。
「はん、ここはわしの家だよ。どこにいようとわしの勝手だし、どこで話しかけようとわしの自由だ」
威圧的な態度で、腰に手を当てて見下してくる。菜恵さんらしい。
「で、でもすぐに〝いらっしゃい〟って言いましたよね? 何で分かったんですか、僕らが来ること?」
今回菜恵さんには、前もって電話連絡をしていないのだ。
僕達は書道の練習が終わってすぐここに来た。ここに来ることを、菜恵さんが知っていたはずは無い。
そう告げると。
「そうだったかい? ま、なんとなくそんな気がしたのさ――とにかく上がりな。話がしたいんだろ、わしと」
どうでもいいことのように述べて、菜恵さんは廊下の奥へと消えていってしまった。
「菜恵ちゃんはやっぱり変わった子だねえ」
鈴さんが、ぽかんと感心するように呟く。
「いや、変わった人ってレベルじゃないよ、鈴さん……」
冷や汗がまだ、止まらない。
消えた菜恵さんを追いかけて入った部屋は、菜恵さんには申し訳ないけど、とてつもなく不気味だった。
狭い和室。
古くささくれた畳。
閉めきられた障子からは陽が入らず、暗い。
そのくせ、妙に涼しくて寒いぐらいだ。どこかから冷たい風が吹き込んでくるようである。
部屋の中心には大きな祭壇があった。
神棚のような宮形を大上段にして、大がかりに段になっている。
左右には榊の葉が飾られている。
奇妙なのは、お供えものが青野菜ばかりということだ。そのせいで部屋全体が青臭い。
他のお供えは御神酒ぐらいしか無い。
恐らくこの部屋で祈祷や占いが行われるのだろう。
菜恵さんは、祭壇の前で正座しながら黙祷していた。
話しかけ辛いなあ、と思っていたら、
「勝手に座りな」
と目を瞑ったまま言われる。
僕が当惑していると、鈴さんはすでに菜恵さんの後ろにちょこんと座っていた。
「座ろう、忠清くん?」
全く怖じ気づいていない。伊達じゃない人生経験を積んでいるからか、それともこの部屋の異様さに天然で何も感じていないのか。さすが、菜恵さんと普通に話せるだけはある。
菜恵さんは、祭壇に向かって手を合わせながら、ブツブツと呟き始めた。
仏教のお経か何かなのかと思ったけれど、耳に覚えが無い。神社の祝詞なんかとも違う旋律だった。ここに祀られているのはどんな神様なのだろうか。
色々質問するのも気が引けるし、邪魔をするのも怖かったので、僕達は厳かに待つことにした。
しばらくして、菜恵さんの呟きが終わり、部屋に沈黙が訪れた。
「心配して来てくれたんだろうけど、わしは変わりないよ」
背を向けたまま、菜恵さんが唐突に告げる。
まともに面と向かっては会話してくれないのだろうか。
話しかけるタイミングを図り辛い。
「え、えーと……普段過ごしてて、困ったことは無いんですか? 楽しいことでもいいですけどね」
問いかけながら、恵さんの背中を見つめる。
レースから背骨が透けて、分かたれた黒髪の間から白い項がちらつく。
「わしは、見た目だけの誤魔化しを楽しんだりはしないよ。こんなのは神さんの狂った気紛れだあね。気紛れに付き合っちゃいけないよ」
「こんなのって――みんなの若返りのことですか?」
神様に向かって〝狂った気紛れ〟なんて言葉を使っていいのだろうか。
敬虔な信仰があるのなら、言ってはいけないことのような気がした。
「みんな、色々違う生き方を考えてたけど、菜恵ちゃんは変わらないのかねぇ? そうするべきなのかねえ……」
占いの結果を訊くように、神妙な顔の鈴さん。
菜恵さんがゆっくりと体を横に向けて足を崩し、こちらを横目に見た。
胸元がはだけている。廊下で見たときには気づかなかった、豊満な白い胸が飛び出しそうになっていた。冷ややかに、妖艶だった。
僕はどぎまぎして視線を逸らす。
「運命の数は変わってないんだよ、鈴」
菜恵さんの声音は、沈鬱さを孕んで低く重い。
「ほんのお試しみたいなものなんだよ。今起こってることは。流されるべきじゃない。浮かれるべきじゃない。楽しむべきじゃない」
僕は責められている気さえしてきた。
「……うーん。菜恵ちゃんの言うことはいっつも難しくて、私にはさっぱり分からないけど」
鈴さんはちょっと困った顔で笑う。
「それでも菜恵ちゃんは、嘘をつかないからねえ。覚えておくよ」
「鈴ぐらいさ。わしの友人で、そう思ってくれてるのは」
菜恵さんもにっこりと微笑んだ。大きく開けられた口から八重歯が見える。屈託の無い、零れるような幼い笑顔だった。
こんな顔で笑う人だったなんて知らなかった。意外だ。
「さて、忠清」
「は、はい?」
次の瞬間にはきつい目で、沈んだ真顔に戻る菜恵さん。僕にはどうあっても、心を開いてくれないらしい。
「お前は何人もの、若返った者達に会ってきたね?」
「ええ、直接話しただけなら、えつさんや米子さんにも」
「うむ。他にもおかしなことがあっただろう。誰の体にもあったはずのことさ」
「え……?」
鈴さんやえつさんや米子さんの、体に――?
何か、特別な点があっただろうか。
皆若く、綺麗で、可愛くて、活動的で。問題など無かったように思う。
「鈴の髪の色、気にならなかったわけではないだろう? 他の者も……」
菜恵さんに言われて、ハッと僕は鈴さんの顔を見た。
びくりと鈴さんが、僕の目を見返す。
流麗な銀色の髪。
神秘的で儚げで、美しい鈴さんの髪。
けれどそれは、『楼女』になる前の鈴さんの特徴でもあって。
「若返ってない部分がある――そういえば、国の発表でも言われてましたね。気になるほどのことじゃないと思ってましたが」
「うん……お国の人に集められたみんなもそうだったけど、まだよく分かってないみたいだったねぇ」
そう。鈴さんは、白髪になり損ねた銀色の髪が。
えつさんは、確か物覚えの悪さが治らない、と言っていた。
米子さんは――?
「鈴さん、米子さんは何も変わらなかったんですか?」
「米ちゃんは、目が駄目だったんだよ。老眼、進んでたからねえ」
「老眼……」
それでか。
鈴さんの家で会ったときと、この前会ったときで、米子さんは違う眼鏡をかけていた。 オシャレでかけ替えているのかと思ったけど、あれは米子さんが近視用と老視用の眼鏡を、使い分けていただけだったのか。
「わしは、鼻が前からおかしくってね。食べ物の味がよく分からない。見た目だけ若返ろうと、どこかはババアのままってことさ。そんな不自然な体を、大手を振って喜ぶべきだと思うかい、忠清?」
菜恵さんは自分を卑下するような笑みを浮かべて、僕を見る。
答えようが無かった。鈴さんも黙っている。
「今まで深く考えてこなかった……どうして、若返りきれてない部分があるんだろう。それも、みんな違う部分が」
まるで、消えない傷痕のように。深く心に刻まれた痛みのように。
「わしは、それを『みしるし』と呼んでいる。自分の運命を忘れちゃいけないぞ、って言う神さんの忠告さ。意地悪とも言うけどね。だからね。忠清、鈴」
またしても、菜恵さんは哀しそうな辛そうな顔で、僕と鈴さんを見比べて。
「バカな考えは――苦しくなるからね」
囁いた。
意味は分からない。返事をしなければいけない気がするのに、言葉が出てこない。
答えあぐねていると、鈴さんが突然話題を変えた。
「菜恵ちゃん、旦那様の具合はどう?」
「あいつかい? あいつは元気だよ。今も茶の間でのんびりテレビでも見てるじゃろ。流されるべきじゃない――とは言ったけど、あれはわしのこの綺麗な顔と体を見ても、何も変わらないのさ。それはそれで、失礼な話だろ?」
「本当だねぇ。綺麗なのにねえ、菜恵ちゃん」
二人は笑いあっていた。
僕はどうしても、その交流に入っていけなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます