第8話 米子さん

 翌日の日曜。


 僕はまた鈴さんに付き合って、宅老所のメンバーの一人の家に赴くことになった。


 今日会うことになっているのは、米子さん。


 彼女とは、異変が起きたあの日に一度顔を合わせている。

 眼鏡をかけた知的な美人だった。

 鈴さんと連絡は取り合っているようだが、ほとんど会ってはいないらしい。


 僕と鈴さんは大きな神社の敷地内にある、鎮守の森の中を歩く。

 米子さんの家はこの神社の裏手にあり、森を通ればすぐだ。鈴さんの家からも近い。


 日射しは変わらず強い。


 曇りと霧で有名なA市にしては珍しい日和が続いている。

 木々に留まる虫達も騒がしくなってきていた。


 A市は田舎だけあって蝉がでかいし、激しく鳴く。

 自分の一生の内で輝ける時期を知っていて、魂を絞り尽くして空を舞う。


 だらだら生きてきた僕には、その潔さは羨ましくもある。

 道中、鈴さんは先日の寂しげな表情は一切見せてこなかった。

 服装は昨日と同じだ。


 神社の敷地を出て日陰を辿るようにしながら、僕達は米子さんの家に着いた。


 大きな洋風の一軒家だ。

 米子さんは数年前に旦那さんを亡くして、息子夫婦と同居している。


 チャイムを鳴らすと、ドアを開けて出迎えてくれたのは、小学生低学年ぐらいの男の子だった。


「わー、鈴お婆ちゃんも美人になってる!」


「あら、ありがとう優弥くん」


 鈴さんが、優しく男の子の頭を撫でる。

 男の子は子犬のように鈴さんに抱きついて、甘え出した。


「あらあら?」


 鈴さんは、穏やかな顔で抱きしめ返している。


 優弥というこの男の子は、米子さんのひ孫だ。

 米子さんが息子さんを授かったのが遅かったこともあって、お孫さんも幼い。


 それもあって米子さんは、優弥を溺愛している。

 鈴さんも僕も何度か顔を会わせていて、鈴さんには特に懐いているようだ。


「お婆ちゃんは元気か、優弥?」


「うん、おばあちゃんすっごい美人な女の人になったよ!」


 優弥は鈴さんの胸に顔をうずめたまま叫ぶ。

 エロガキめ。


 と言うか米子さんの外見なんてこちらは訊いてないし、そもそも知ってる。


「米ちゃんに会いたいんだけど、お部屋にいるかねぇ?」


 鈴さんが撫でながら訊く。


「うん! 鈴お婆ちゃんが来たら、部屋に入ってもらってって言ってた!」


「そう、じゃあ上がらせてもらうね」


「僕も遊びに行っていい?」


 調子に乗る優弥の襟首を掴んだ僕は、鈴さんから引っぺがしてやった。


 強い抗議の眼差しが向けられるが気にしない。

 気にしてやらない。


「こら優弥、鈴さんと米子さんにゆっくりお話させてあげろ」 


「ちぇ、忠清兄ちゃんだって一緒に行くんだろ? 爺ちゃんみたいな名前だからって、ずるいよ」


 生意気に口をとがらせる優弥。

 人の気にしてることをはっきり言いやがった。


「そう、兄ちゃんは爺ちゃんだからいいんだ。だから宿題かゲームでもやってな。後でマンガ貸してやるから」


 まだ文句を言う優弥を押し退けて僕は家の中へと進む。

 我ながら大人げないかも。

 思うけど気にしない。

 気にしてやらない。


 さてと、一階の奥が米子さんの部屋だ。


「米子さん、入りますー」


 ノックをしてドアを開ける。

 八畳ほどある広めの和室だ。

 米子さんは、勉強机に向かっていた。


 黒髪を後ろでポニーテール状に纏め、あの日と同じ青いジャージに下はスカートという鈴さん以上にラフな姿で、ノートを開いている。


 さらにこの前の黒縁眼鏡とは違う、銀縁の眼鏡をかけていた。

 眼鏡を二つ持っているのだろうか? そんなオシャレをする人だったっけ。


 部屋に入っても、こちらをちらりとも見ない。

 どうやら僕達に全く気づいていないようだった

 鈴さんが米子さんの真横に歩み寄って、キスするんじゃないかってぐらいに顔を近づける。


「米ちゃーん、鈴だよ」


「こんにちは、米子さん」


「お?」


 ようやく米子さんが顔を上げた。


「鈴ちゃん、いつ来てたの? それに忠清くんも。いらっしゃいな」


 米子さんは慌てることなく眼鏡を外して机に置き、うーんと伸びをする。


 勝手知ったる鈴さんが、部屋の隅から座布団を三枚持ってきてせっせと並べる。

 どちらが部屋の主か分からない。


「あー疲れた。二人とも気楽にね。私もだらだらするから」


 礼も言わず真っ先に腰を下ろす米子さん。

 図々しいように見えるけど、米子さんと鈴さんは昔からこのように気の置けない仲らしい。


 僕と鈴さんも気にせず座る。  


「お勉強でもしてたんですか? 楽そうな格好ですね」


「ふふ、まあね。着物はお勉強には向かないからね」


 にやり、と口角を上げる米子さん。

 とんがった目つきと眼鏡には、含み笑いが実に良く似合う。


「米ちゃん、昔から集中してると周りの声が聞こえなくなるからねぇ」


「鈴ちゃんは勉強するとすぐ寝ちゃってたものね」


「そ、それはずっと昔の話だよ?」


 慌てて弁明する鈴さん。


「へえ。母さんの癇癪は叱ってたのに、鈴さんは寝てたんですか?」


 僕も少々調子に乗ってしまう。


「忠清くんまで……子どものころの話だよ……」


 体を丸めて赤くなる鈴さんに、


「そうだったっけぇ?」


 にやにや嗜虐的な米子さん。


「二人とも、そんなに虐めないで……それにしても米ちゃん、何のお勉強してるの?」


「うん。秘密にしておきたかったんだけど、鈴ちゃん達には言ってもいいわね。私、数学の勉強してるの」


「数学? 米子さん、数学が専門じゃなかったでしたっけ?」


 米子さんは、中学校で数学を教えていたはずだ。


「私が数学教えてたのは、何十年も前だよ。もう頭の中はさびついちゃってるからね。世の中も進んでるし、勉強し直さないとついていけないよ。ずっと子ども達に書道を教えてた鈴ちゃんとは違うの」


 鈴さんに向かってはにかむ米子さん。

 鈴さんが苦い顔で首を振る。


「私の書道なんて、今は忠清くんぐらいしか習いに来ないよ、米ちゃん。何か理由があってお勉強しなおしてるのかい?」


「うん。まずは孫の優弥に、ちゃんと数学教えてあげたくてね」


 米子さんは、遠い目で呻いた。


「優弥くんかあ……米ちゃん、優弥くんのこと本当に大切にしてるもんねえ」


 鈴さんがほんわか微笑むと、へっへっへ、と恥ずかしそうに米さんは笑う。


「もう一度、自分の数学がどれくらいのもんなのか試してみたいんだ。それでまだ頑張れるって思えたら、子ども向けに塾でも開こうかと思ってるの。楽しいよ、勉強出来る時間があるって」


「米子さん、旦那さんの介護で大変でしたものね」


 僕がぽつりと呟くと、米子さんは、血の気の引いた真顔でこちらを見た。


 途端に重苦し空気が部屋に溢れ、ハッと僕は息を呑む。


 迂闊だった。

 鈴さんも、神妙そうに笑顔を歪めた。


「そうね……確かに、大変だった。けど、何とか乗り越えられたんだよ、私も」


 抑揚の無い声で、米子さんが囁く。


「……ごめんなさい、言わなくていいことを」


「あーいいのよ忠清くん、いいの。あの人は家族に囲まれて、幸せに逝けたに違いないと思ってるから」


 米子さんの年上の旦那さんは、六十代後半という若さで痴呆が劇症化し、寝たきりの状態になった。

 

 以来米子さんも、米子さんの息子さん夫婦も、凄烈な介護の日々を強いられたはずだ。


 数年経って旦那さんが亡くなるまで、僕も気勢の削がれた米子さんの顔を何度か見ている。


「あのころは辛くて、日々を過ごすのも必死だったけどね。でも、あの人が死んでから、今まで、恨む気持ちなんて全然無いのよ。若いころからの楽しかった思い出が、たくさんあるから。このまま私もさっさと、あっちに行っちゃいたかったんだけどね」


「米ちゃん……」


 心配そうに、顔を曇らせる鈴さん。


「大丈夫だって、鈴ちゃん! 何でか分からないけど、私ら、こんな体になっちゃったでしょ? 『楼女』って言われてるんだったかね。若くなって、ただのお婆ちゃんじゃなくなって、頭も体も動くようになったんだから。やりたいことやらなきゃ! じゃないと損だからね!」


 ガッツポーズを決める米子さん。


 ポニーテールが踊るように揺れる。


 米子さんの目に悲壮さは無く、むしろキラキラ煌めいていた。


 大きな夢を目指す、未来への希望が溢れた若者そのものだ。


「米ちゃんは、偉いなあ――私、今から何か夢を目指すだなんてこと、考えもしなかったよ」


「鈴さんには、鈴さんの生き方がありますよ」


 僕の下手くそなフォローに鈴さんは、


「そうだねえ……」


 と空返事を返す。


「鈴ちゃん、私は優弥に、うちのお婆ちゃんは現役でぴんぴんした先生なんだぞって自慢させてあげたいのよ。今からでも成長して、孫が喜ぶ良い生き方をしてあげたい。鈴ちゃんもそうしなさいな」


「いい、生き方かあ……」


 もう、諦めてた気がするんだけどねえ。


 鈴さんの声は外の蝉の声にかき消された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る