第7話 えつさん
ぎらぎらした日射し。
嫌らしい梅雨が開けて町はすっかり初夏の様相だ。
行き会う近隣の住民も、じんわり滲む汗に耐えている。
せめて湿度が低ければ過ごしやすいのだけど、今日も空気はじめじめしている。
気候が変われど世間の『楼女』達への好奇の眼差しは消えるわけでもなく、ネット上では未だ根も葉もない噂や憶測が飛び交っていた。
噂の一つによると、『楼女』達のみによって結成されたガールズバンドがいると言う。
近々デビュー曲を動画配信するそうなので、そのときはチェックしてみようと思う。
鈴さんは朋香が選んでくれたカジュアルファッションが気に入ったようで、似たような服装で過ごすことが多くなっていた。
若々しい姿の鈴さんもいいんだけれど、割烹着姿の鈴さんに慣れていた僕は今一つ、どういう気持ちで見ていいのか分からない。
悪くはないんだけれど。
そんな日々が続いたある日、僕は鈴さんの相談を受けて、宅老所のメンバーの様子を見に行くことになった。
あの『光が落ちてきた日』以来、僕は鈴さんと米子さん以外の宅老所メンバーと会っていない。
若返って体調も周囲の反応も一変してしまったせいで、皆宅老所に集まる時間を取れないようなのだ。
音沙汰無しと言うのも心配になるし、鈴さんもみんながどう過ごしているか気になるようだ。
と言うわけで今週の土曜午後は、桐春の祖母――
えつさんに会いに行くことになった。
鈴さんは、この前朋香にプレゼントされたチュニックワンピースを着ていた。
「鈴さん、ほんとにその服好きみたいだね」
僕に手を引かれることすら忘れて、鈴さんは自分の着ている服を見つめながら遊歩道を歩く。
ずいぶん機嫌がいい。足下がおぼつかなくて危なっかしい。
「一緒に買ったものだからねぇ」
こちらを見ずに、ぼそりと鈴さんが述べる。
「僕が選んだわけじゃないけど……」
「忠清くん、気に入ってくれてたでしょ? えっちゃん達、びっくりするかなあ……」
なるほど鈴さんは、新しく若いファッションに身を包んだ自分を宅老所の仲間に見てもらいたいんだろう。
口には出さないけど自慢したいのだ。
女の子だな、と僕は思いながら歩いた。
えつさんの家は、合気道の道場を営んでいる。
と言っても直接生徒に教えているのは桐春の祖父とその門下生である師範代で、桐春の父は普通の会社員として働いているらしい。
今どき格闘家じゃ将来が不安だという、桐春の父の現実的判断を僕は責められない。
えつさん自身はかつては夫である桐春の祖父と一緒に合気道を教えていたが、腰を痛めて引退してからは内助の功として道場を支えてきていた。
えつさん夫婦は、町でも有名なおしどり夫婦なのだ。
けれども門下生の減少(と言うかA市の人口の減少)は止めようが無く、矢神流道場はこの代で潰れるのでは無いか――
と、言われていた、はずなのだが。
僕と鈴さんが道場の前に差し掛かったとき、中から聞こえてきたのは。
「ほら、次ーーーー!!」
雄々しい女の子の、気合いの叫び声だった。
「まさか……今のって?」
僕が鈴さんの顔を伺うと、鈴さんは苦笑いを浮かべて、
「多分ねえ」
と呻く。
怯みつつも、僕は鈴さんと一緒に道場の中に足を踏み入れる。
前もって電話したとき、えつさんには「道場の方に来て」と言われている。
充満する、据えた汗の匂い。
敷き詰められた畳の上に並ぶ、道着を着た中学から高校ぐらいの少年達。
野獣の群れと形容するのがふさわしい、悶々とした表情の少年達の円陣の真ん中に、鈴さんより小柄で一見小学生にも見間違いそうな、道着姿の女の子が立っていた。
「そら、どしたお前らーーーーーー!!」
おかっぱに近いショートカットが、気合いで炎のように猛り、逆立つ。
「わ。えっちゃんだ」
緊張感の無い声で、鈴さんが囁く。
あの小さな。
小さすぎる子が、えつさんか。
「い、行きまーす!」
えつさんとは対照的な覇気の無い叫び声を上げて、一人の少年が向かっていく。
延ばしたその手がえつさんの体に届くその刹那、すでに少年は宙を舞い、次の瞬間にはべたんと畳に尻餅をついていた。
放心した少年は、自分に何が起きたのか分かっていない。
「あはは、どうだ! まだまだお前らガキに負ける程衰えてはいないだろー! どんどん来い! 叩き伏せてやるねじ伏せてやるぶん投げてやる!」
外見とミスマッチな、強烈な啖呵を吐くえつさん。
挑発を聞いた少年達が、我先にとえつさんに掴みかかっていく。
傍目から見れば、小学生女子によってたかって襲いかかって返り討ちにあい悔しがる変態少年達である。
見る人が見れば噴飯物である。
それら全ての相手を最小限の動作でいなしながら、次々と床に沈めていくえつさん。
神業だった。
気づいたときには、えつさんの周りには立っている者は誰もいなかった。
僕と鈴さんは、慄然とその光景を見ているしかない。
しじまに満ちた道場の中心で、えつさんはたった一滴、流れてきた汗を袖で拭って。
「鈴ちゃん、忠清、よーく来たねー!」
元気いっぱい、太陽のような笑顔で叫んだ。
起きあがった少年達に受け身の練習を命じて、えつさんは道場の縁側に腰掛けて談笑を始めた。
僕達も差し出された座布団に座って、えつさんを近くに見る。
桐春がロリババアなどと形容するのも少しだけ分かる気がした。
肌もつやつや、目も大きくて、美少女と言うのは語弊があるけど、てかりのある焼き林檎のように全身から愛嬌が溢れんばかりだ。
付け加えるのが躊躇われるけど、極度の貧乳だった。
鈴さんと並ばれると、僕が最年長の保護者に見える。
「えっちゃん、強いんだねぇ。えっちゃんと会ったのは宅老所が初めてだったけど、あんなにかっこいいんだねえ」
出されたお茶をすすりながら、鈴さんは微笑む。
「あっはっは。いやあ、まさかまた全力で暴れられるなんて思ってもいなかったよ!」
からからと気持ちよく笑うえつさん。
「えつさんて、昔もこんなに強かったんですか?」
僕が訊くと、えつさんは「いーや」と首を振った。
「若いころはそりゃ、若いころなりの元気と強さはあったけどね。腰悪くして道場に立てなくなるまでは、あたしも練習は欠かさなかったからさ! 頭ん中に、技も身のこなし方も、全部入ってるんだよ」
「へえ。忘れないもんなんですね。その上、体も若いんですから強いわけだ」
「全盛期以上だよ! 生徒が増えすぎて、ちょっと呆れてるけどね」
えつさんは嘲るように、はん、と練習中の少年達を笑う。
鈴さんが不思議そうに小首を傾げる。
「どうして呆れるの? たくさんお弟子さんがいたら、えっちゃんも、旦那様も助かるし嬉しいよねぇ?」
「いーや。あいつら、あたしが若返った途端に入ってきた入門生達なんだよ。見たろ、あのへっぴり腰。この体で毎日道場に出るようになったら、桐春があたしのことを周りのバカどもに触れ回ったみたいでさ」
「あー……そういえば、学校でもえつさんの話してたし――うちのロリ婆ちゃん超可愛くて鬼のように強い、とか」
よく覚えている。クラスメイト達も『楼女』への関心が強かったし、それこそマンガに出てくるような強さの可愛い女の子、とあれば興味も引かれるだろう。
「ろりってなあに、忠清くん?」
「す、鈴さんは知らなくていいことです!」
無邪気に訊かれて焦る僕。
危うい。
広いこの世の中、知らなくていい知識もある。
「それでね、道場見学に来る奴が増えちゃってね。そんなにあたしを可愛いと思うなら、入門して来い、ぶっ倒してやるから、って言ったんだよ」
「そんなこと言われて、わざわざ入門する奴なんているんですか?」
「その変わりあたしに勝ったら、何をしてもいいよって言っといた。尻でも胸でもどーにでもしなって」
素っ気なく言われて、僕も鈴さんも硬直した。
「そ、それは……まずいですよさすがに!」
「う、うん……えっちゃん……それは駄目だよ」
鈴さんは顔を真っ赤にして俯く。
僕の何倍も人生経験があっても、この手の話題には弱いらしい。
「あたしは胸も尻も、自分で泣きたくなるぐらいぺったんこから、どうでもいいんだけどさ。そしたら、この始末だよ」
えつさんは練習中の少年達を指差す。
彼らは汗だくになって、ひたすら受け身を続けていた。
「まさか……全員そうなんですか? みんなえつさん目当て?」
その行動力、他に使い道が無いのか。
「普通に入ってくれた弟子もいるはずなんだけどね~。体は若くなっても、忘れっぽいのは相変わらずでねー。新しい子の名前がさっぱり頭に入ってこないんだよ。ま、勝手に目当てにでも何でもすればいいよ」
「で、でもえっちゃん、やっぱり駄目だよ。旦那さんだっているでしょうに……」
赤面したまま、真顔で窘める鈴さん。
「そう、じーさんも知ってるよ。だからじーさんも張り切っちゃって。前までは寝込み気味だったのに、全員性根から鍛えてやるってさ。アハハ。今日も午前中までは道場に来てたんだけどね。あんまり頑張るから帰らせちゃったよ。あっちは体も年だからね」
肩を揺らしてえつさんは笑う。愉快そうだ。嬉しそうだ。
『楼女』を受け入れて。
「充実してるんですね」
頷くえつさんを見て、僕まで嬉しくなりかけた。
だが隣の鈴さんは、笑顔ではあるが寂しそうに目を細めていた。
「まだまだ、えっちゃんところは仲良しなんだねぇ」
掠れた声が切なげだが、鈴さんの哀切の表情にえつさんは気づかない。
「もーちろん。長年夫婦二人で、この道場を守ってきたんだからね! なのに桐春の奴は、あんなに軟弱に育っちまって。昔は真面目に道場に来てたのに高校入ってからはさっぱりだよ。情けない。女のケツばっかり追いかけててさあ……」
語気も鼻息も荒くして、えつさんは逸るように愚痴る。
「桐春は、相変わらずみたいですね。また新しい彼女が出来たみたいだし。僕も昨日知ったばっかりですけど」
それも朋香から又聞きだ。
相手の顔も知らない。
誰と付き合おうと知ったことではないけれど、中学のころから彼女が出来ればすぐに僕に自慢してきた桐春が、何も言わないままなのが引っかかっていた。
「彼女? そういえばまだ何も言ってこないけど、そうだったの。全く、出来たなら出来たですぐ紹介しろっての。前はすぐに家に連れてきたのに!」
「へえ。えっちゃんにも言わないなんて、桐春くん、よっぽど大切にしたい相手が出来たのかもしれないねぇ。あの子は純粋みたいだから、相手を好きになるほど慎重なのかもしれないよ?」
「そんなにいいもんかねー、あのエロガキが。アハハハ」
おばさんっぽく手を叩きながら、言外に楽しそうなえつさん。
こうして話していると、桐春の童顔に不釣り合いな気の強さは、しっかりえつさんから受け継がれたものだと感じる。桐春は間違いなくえつさん似だ。
夫と長年連れ添って、子どももいて、情けないだろうけど孫もいて。それはとても、幸福な人生に違いない。
そんなえつさんの話を寂しげに、けれどしとやかに、鈴さんは聞いていた。
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