第3話 母の思い出
鈴さん達と話している間に、空は濃い橙に染まっていた。
同じ色に染まったマンションの外壁を見上げながら帰宅すると、出迎えてくれた母さんが玄関先で目を丸くした。
鈴さんの様子を見に行ったはずの僕が、なぜか可愛い女の子連れで戻ってきたのだから当然だ。
「忠清、鈴さんはどうだったの?」
「母さん。信じられないかもしれないけど――この子、鈴さんなんだ」
僕の手を握ったまま僕の背に隠れていた鈴さんが、顔を出してきてちょこん、とお辞儀する。
「……こんなときに、何をバカなこと言ってるの」
真顔で、ドスの効いた声で母さんは告げた。これも当然だ。
「やっぱりみんな、こんなリアクションになるよな……鈴さん、どうしようか?」
「祥子ちゃんは昔から知ってるけど、私の若いころは知らないだろうしねえ。どう納得してもらおうかなあ?」
僕と鈴さんが耳打ちしあっていると、母さんが金切り声を上げた。
「ちょっと、その子なんで私の名前を知ってるの!?」
鈴さんの声が聞こえたらしい。さすが井戸端会議の女王、閻魔も驚く地獄耳。
「忠清、貴方が教えたのね?! こんなときに何ふざけてるの!」
「い、いや、ふざけてるわけじゃないんだよ、母さん」
温厚な母さんが、耳まで真っ赤になっている。僕が本気でからかってると思いこんでいるようだ。
鈴さんが僕の手を離して、そんな母の前に立った。
「祥子ちゃん、癇癪を起こしちゃ駄目だよ? ほうら、何も怖いことは無いからね」
鈴さんはにこにこ笑いながら、母さんの頭にちょこんと手の平を乗せた。我が子を慈しむように、母さんの頭を撫でる。
呆気に取られて、されるがままにしている母さん。
怒りに燃える中年女性を華奢な銀髪少女が窘める、という筆舌に尽くしがたいシュールな光景がそこにあった。
「ど、どういうつもりなの、貴方……?」
呆然とはしているが、母さんは鈴さんの手を振り払わない。多分その手の感触に、思い当たる記憶があるのだ。
「中学のときに、ちゃんと私と約束したよねえ? 頭に来ても墨をひっくり返したりしない、難しい漢字でもじっくり何度も書けば上手になるんだから、って。欧陽詢(おうようじゅん)の楷書だって、何回も何回も練習してたよね。祥子ちゃん、あれから楷書が好きになって何枚も書いてたよねえ?」
赤熱化していた母さんの顔が、みるみる青白くなっていく。
「何でそんな昔のことを……それは私以外じゃ鈴さんしか知らないはずよ。誰にも言っちゃ駄目って二人で約束したのに」
「うん。あれ以来、祥子ちゃんが癇癪我慢出来るようになって、お母さんにも感謝されたんだよ? お家でも大変だったみたいだもんねえ。幾つも食器割ってもんねえ」
そこまで母さんの癇癪持ちは非道かったのか。よくここまで更正したものだ。
「す……鈴さんなの、本当に? 貴方が?」
「そうだよ祥子ちゃん。祥子ちゃんが立派なお母さんになって、私はとっても嬉しかったんだよ」
ぽんぽん、と優しく鈴さんが母さんの頭を叩いた。それは僕も苛々しているときなどによく鈴さんにされた仕草で、これだけでささくれだった気持ちがほだされるのである。
母さんは、目を白黒させて狼狽している。起こっていることを感覚では理解出来ても、理性が否定しているらしい。
「今は大ざっぱになり過ぎちゃったのかねえ、祥子ちゃんは。忠清くんも、そういう派手な筆遣いは祥子ちゃんそっくりだよ」
居心地悪そうに赤面した母さんは、もう叫んだりはしなかった。
無理矢理落ちつきを取り戻した母さんと鈴さんを伴って、リビングに入る。
慌てて母さんが倒したのであろう急須と零れ出た茶葉が、テーブルの上でそのままになっている以外は、室内は整然としている。
父さんはまだ帰ってきていない。停電の影響で電車は停まっている。無事は確認出来ているようなので、今日は会社に泊まるのかもしれない。
ひとまず座って休もうとした所で、テレビからニュースが流れてきた。
「そうそう、ついさっきテレビが見れるようになったのよ。丁度貴方達が帰ってきたから、まだ何も見れてないけど」
母さんの言葉を聞いて、僕達はテーブルについて男性アナウンサーの声に耳を傾ける。
「……今日、A市を襲った大停電に関してのニュースです。停電の原因は未だ判明しておらず、停電直前に目撃された不可解な発光現象の正体も、未だ不明です。停電の影響から、市内の交通機関ではダイヤに大幅な乱れが生じています」
気のせいか、アナウンサーの声が高揚している。これほど大きなニュース原稿を読み上げるのは初めてなのかもしれない。
「また、市民から多くの不確定情報が寄せられています。A市内全域で、高齢者女性の――」
そこでアナウンサーが、険しい顔になった。
ふんぎりがつかないと言うか、躊躇いがあるように見える。原稿を見つめて、本当に報道としてこれを読んでもいいのだろうか、という訝りに。
「――高齢者女性の姿が突如市内から消え、同じ名前を名乗る十代前半から後半と見られる少女達が現れているとのことです。この件に関しては、追って調査を進めるとの各省庁からの発表が……」
食い入るようにニュースを見ていた僕達は、唖然としていた。
――今日だけで何度、常識を揺らがされるのだろう。
「私や米ちゃんだけじゃ、無いんだねえ……」
感心したかのように、鈴さんが呻く。
「桐春の家のえつさんもって言ってたから、まだいるんだろうって気はしてたけど」
まさか全員だなんて、思ってもみなかった。
「純ちゃんも奈恵ちゃんも、私みたいに若くなってるのかな? 気になるねえ」
「宅老所のメンバーには連絡した方がいいかもね。ニュースを信じるなら、重傷者とかもいないっぽいけど……」
鈴さんと僕は神妙に目配せしあう。状況が不透明すぎて、激変しすぎて、何が起きても不思議では無い。
母さんは大きなため息を吐き、頭を抱えてテーブルに突っ伏した。
「ここに鈴さんがいなかったら、テレビの言うことなんて信じないのに……」
あまり頭が柔らかくない母は、心労にすっかり疲弊してしまったようだ。
「大丈夫かい、祥子ちゃん?」
そんな母の頭を、また撫で始める鈴さん。
銀色の髪がさらさら風も無いのに揺れる。
僕と同じぐらいの年齢に若返ったはずなら、あの髪も若々しく、黒髪に戻っているはずではないだろうか?
銀の髪が似合っているし慣れているから――気にならなかったけれど。
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