死の恐怖に生かされている
誰も信じられない。
大切な人たちがいつの間にか私のそばから消えていった。
その笑顔も、記憶の中で黒くすさんで、ただれてしまった。
何が好きだったんだろう。
何がしたかったのだろう。
もう、全てやりつくしてしまった後のような気持ち。
満足感ではない。
底知れない虚無感。
嫌がられるかもしれないと思うと、相手を求めることが怖かった。
必要以上に距離をおいてしまう。
失ったんじゃない。
もともと、手に入れる資格さえなかったんだ。
思い通りにならなくて失望したくないから、期待しないことにした。
「詩乃。次の授業──だよ。急いで」
雫の目を見たら、意識が飛びそうになって一部聞こえなかった。
「うん。わかった」
声が上ずった。
息がうまくできない
心臓が痛い。
雫は優しくて、怖いはずなんてないのに。
なんだか怖い。
中学生からの付き合いで、ずっと仲良くしているのに。
「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
私、どうしちゃったんだろう。
最近、誰に対してもこうなる。
移動教室で向かった、家庭科室に入ると悪寒がした。
たくさんの人がひしめき合っているのが気味悪く見えた。
気にしないようにして椅子に座ったとき、手足が震えていることに気づいた。
頭と体が鉛のように重い。
中学まではたまに起こる程度だったのに、高校になってから毎日になった。
どうしてこうなるのかな。
怖くてどうしようもなかった。
昼食の時間になった。
食べ物が喉を通らない。
吐き気がする。
食べたくない。
長い時間をかけて押し込んだ。
家に帰った。
自分の部屋に入ったら、少し落ち着いた。
学校に行くことが、怖い。
また明日もつらくなるんだ。
最近毎日つらくなるから、きっと。
もう学校行きたくない。
死にたい。
消えたい。
終わりにしたい。
体中から湧き上がる何かに気づいているけど、無視している。
いつか壊れて、周りが見えなくなったとき、私はまた失うのだろう。
もう持たない。
そう私の中の私は言った。
危機感が急に湧き上がって、あんなにやりたかった部活も、長年続けた習字もやめた。
でも、体は思うように動かなくなっていく。
とうとう学校に行けなくなった。
不登校。
私には関係ないものだと思っていたのに。
今日が分岐になると直感的に悟った。
休む決断をしたとき、一瞬の安堵の後に、授業に遅れることやより学校に行きづらくなることの不安が押し寄せてきた。
今までの努力を水の泡にするような行為だとも思って、寂しさも感じた。
しばらく休めばよくなると親も私も思っていたが、悪化する一方だった。
なんで、私は普通になれないのだろう。
なんで、私は学校に行けないのだろう。
嫌いだ、大嫌いだ、自分なんて。
死ねばいいのに。
腹の底からこみあげてくる自虐的な笑みをこぼす。
消えてなくなりたい。
もう生きたくない。
疲れちゃったな。
部屋に置いてあったはさみを、無造作に手に取った。
自分への憎しみを、自分を傷つけることで発散する。
自分を消したい衝動を抑え込んでいる。
これで、また生きていける。
死ぬために切っているんじゃない。
生きるために切っているんだ。
落ち着いたから、スマホで症状を入力して、解決する方法を探した。
そのとき、初めて私が精神科に行かないといけない状態だと知った。
驚きより、納得の方が大きかった。
私の苦しみが認められた気がした。
だから、お母さんに精神科に行きたいと言うことにした。
「お母さん」
呼びかけた途端、涙が零れた。
「私、精神科に行きたい」
お母さんは、絶句した。
数秒間の沈黙の後、絞り出された言葉は私を苦しめることとなる。
「そんなの、許さないから。私は、そんな子供を産んでいない!」
私は、電撃を食らったようなショックを受けた。
受け入れてもらえなかった。
認めてもらえなかった。
絶望した。
もう、生きていけないと思った。
唯一の解決への道は閉ざされた。
悲しみと同時に、死を覚悟した。
廃ビルの屋上に着いた。
生暖かい風が、乱暴に髪を揺らす。
柵から身を乗り出して、かなりの高さがあることに今更ながらに気づく。
怖い。
足が震えてきた。
生きたくないのに死ねない。
死の恐怖に生かされている。
数十分、そのまま立ち尽くしていた。
「詩乃!」
聞き慣れた声。
「こんなところで何をしているの?」
もたもたしていたから、見つかってしまったみたいだ。
振り返ると、強張った表情の雫がいた。
雫自身、訊かなくても私のしたいことがわかっているのだろう。
次の瞬間、雫は私の体を抱きしめていた。
「私と付き合ってください」
目が丸くなった。
「今まで気づけなくって、ごめんね。つらかったよね」
視界が歪んだ。
透明なしずくが零れ落ちた。
「な……んで」
「たまたま通りかかって、詩乃だって気づいたから助けに来た」
私は混乱していた。
突然告白されるし、自殺を阻止されるし。
「何があったか、落ち着いたら話せる?」
私は、頷いた。
「私のお父さんは、とても怖かった。唯一共に過ごす食事の時間は、神経が擦り減りそうだった。脳裏にこびり付く罵声。殴られてへこんだ壁。睨む鋭い眼光。自己中で愛の感じられない発言」
「お母さんはお父さんや親戚の悪口を毎日のように私に刷り込んだ。それが恐怖で仕方なかった。もうこれ以上いろんな人を悪者に仕立て上げないでと願った。一番信用できるはずの家族も、近い存在の親戚も誰も信じられなくなった」
「それから私は、いつもイライラしていた。だから、周りを見下した。友達は私から逃げて行った。家庭環境のストレスは、私の人生を破壊した。私の居場所なんてどこにもなかった」
「将来が心配だった。そして、嫌なことを忘れたかった。だから、ずっと勉強をした。周りの人に心配されるほど。習字も体調を崩すほど書き続けた」
「小学6年生あたりで、家庭環境が落ち着いてきた。そのとき、やっと我に返った。私は、今まで何をしていたんだろうって。周りの人を傷つけてきてしまったことに気づいた。この罪は、償うことのできないものとして、一生私に付きまとう。私が死ねば、罪が償われると思った。でも、それは同時に逃げることに相当すると思った。怖くて、申し訳なくて、罪悪感に苛まれながら、自分が大嫌いになった。そして、人と接することが怖くなった。また、同じ失敗を繰り返すのではないかと思った」
「嫌われるかもしれないと思うと、相手を求めることが怖かった。必要以上に距離を置いていた」
「症状は、酷くなる一方だった。でも、お母さんは、私が病院に行くことを拒んだ」
「たくさん話してくれてありがとう」
そう言って、雫は私の頭を優しく撫でてくれた。
話したら、少しだけすっきりした。
「告白の返事はまた今度でいいから。絶対にもう死のうとしないで、私を頼ってね」
「……わかった。ありがとう」
もう一度、お母さんに精神科の話をしようと思った。
「お母さん、私、やっぱり精神科に行きたい」
前は言えなかった、私の苦しんできたこと、今の状態を細かく話した。
もちろん、お母さんとお父さんのことについても。
「そんなことを思っていたのね……つらい思いをさせてしまってごめんね」
私は、泣きはらした顔で笑った。
やっと、理解してもらえたと思った。
「精神科、予約しておくわ」
お父さんとご飯を食べることがつらかったから、自分の部屋で食べた。
ベッドの上にいても、死にたくなるほどつらい状況が続いた。
頭も体も重く、重力が何倍にもなったような感覚だった。
だから、もっと早く予約が取れる病院に変更した。
先が真っ暗で、希望がなかった。
でも、私にはとても大切な雫がいた。
雫のそばにまた戻りたかった。
だから、死ななかった。
待ちに待った病院の日になった。
つらい体を引きずって、心理テストや診察を受けた。
診断名は、鬱病と社交不安症だった。
病名がついたことに対する安堵と絶望。
このつらさを認めてもらえたと思った。
でも、同時に病名を背負って生きていくことになった。
薬は怖かったけど、また雫に会うため飲む決意をした。
くたくたになりながら病院から帰り、薬を飲んでみた。
すると、いつものつらさに上乗せして副作用の頭痛が酷く、飲まないほうが楽なくらいだった。
もう一度病院に行って、診断名が鬱病から双極性障害に変更され、薬も変わった。
新しい薬は、副作用で過食気味になったから、おなかを下した。
でも、薬が効いて気持ちが明るくなった。
双極性障害とは、活動的になる躁状態と、気分が落ち込む鬱状態を繰り返す病気。
社交不安症とは、人前で強い不安や恐怖、緊張を感じる病気。
私の場合は、外出や外食ができない、お父さんと一緒にいられない、手が震える、過呼吸、動悸。
今まで、自分のせいだと思っていたことが、病気のせいだとわかって良かったと思った。
薬を飲み始めても、すぐにはよくならない。
何となく何かしたいと思って、スマホを握る。
もう、それだけで疲れてしまう。
気持ちは回復してきていて、したいとは思うのに、体がそれについてこない。
何もできない。
起きる。
食べる。
運動する。
勉強する。
話す。
書く。
考える。
当たり前にできるはずのことが、できない。
死に一歩足を踏み入れた気がした。
普通に生活できる人が羨ましかった。
雫に、病院に行った結果を伝えようって何度も思った。
でも、心配かけたくなかったし、嫌われたくなかった。
伝えるのが怖かった。
精神障害者なんて、気持ち悪い、と。
距離を置かれると思った。
だから、打ち込んだ文字を消した。
でも、雫のほうから連絡が来た。
決心して病気のことを打ち込んで送った。
すると、病気を治したいと思っている私を応援すると返信が来た。
そして、嫌いになんてならないと書いてあった。
私は驚いた。
受け入れてもらえた気がして、本当に嬉しくなった。
唯一の救いだった。
雫は、よく私の家にお見舞いに来てくれた。
心のこもったお手紙や、プレゼントもくれた。
人の優しさを、温もりを教えてくれた。
偽りのない愛を、私にくれる。
男か女かなんて関係ない。
私は、雫が大好きだ。
「告白の返事、遅くなってごめんね。私と付き合ってください」
雫は、一瞬驚いたような顔をして、花開くように笑った。
それから、私と雫は恋人の関係になった。
雫と、ショッピングセンターに行った。
手をつないだ。
雫の手はとても柔らかくて、あたたかくて、私の体に、雫の魂が流れ込んでくるようだった。
ゲームコーナーに行った。
楽しかったけれど、幾度も涙目になっていた。
世界が変わった気がした。
何か得体のしれないものが、私の体を、心を、満たしていくのを感じた。
雫の笑顔や、笑い声が愛おしくて仕方がなかった。
私の求めていたもの、失ったもの、それを、取り戻せた気がした。
何年ものつらい記憶を、この数時間の間に、あたたかい記憶で塗り変えられた。
夏休みが明けたことを知った。
焦りから気持ちは鬱状態から躁状態になった。
学校に行けると思った。
病院からは、無理でしょうと言われていたけど。
教室にいることが、苦痛でしょうがなかった。
過呼吸と動悸が私を襲った。
普通に過ごしているみんなが羨ましかった。
なんで、私だけこんなにつらい思いをしないといけないのかな。
なんで、私だけ普通になれないのだろう。
ここにいられないと何度も思った。
遅刻や早退を繰り返して、どうにか学校に通った。
しかし、限界が来てしまった。
死にたいと何度も思った。
川に飛び込みたいと思った。
窓から飛び降りたいと思った。
もう無理だと思った。
通信制高校に転校することを決断した。
それからは、少し気持ちが楽になった。
普通にこだわらなくてもよくなるから。
毎日学校に通わなくてもよくなるから。
しかし、雫と離れ離れになるのはつらかった。
転校するなんて言ったら、なんて言われるのだろう。
別れを切り出されるかもしれない。
不安を抱えたまま、転校のことを打ち込んで送った。
返事は、心温まるものだった。
一生私の味方であるって、理解者でありたいって。
転校しても恋人でいてほしいって書いてあった。
別れは切り出されなかった。
嬉しくて、雫のことがより大好きになった。
週一通学の通信制高校に転校した。
徐々に、体調が落ち着いていった。
外出してもつらくなくなった。
しばらくして、外食してもつらくなくなった。
人と目を見て話せるようになった。
衝動的に死にたいと思わなくなった。
頭や体が軽くなった。
動悸も、過呼吸もなくなった。
やっと、生きている感じがした。
将来について考えだした。
絵を描きたいと思った。
だから、絵の練習をした。
でも、うまくいかなくて、鬱状態になったこともあった。
オープンキャンパスに行った。
少しはつらくなったけど、なんとか乗り切った。
一人暮らしは心配だけど、少しわくわくする。
入学までに、病気が良くなっていますように。
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