第6章 海浜都市レオーネ編 第3話(2)

 淡い月明かりの差し込む暗い浴室に、水の流れ落ちる音が静かに響いている。

(……夢みたいだな)

 夜闇に濯ぐ水を浴びながら、新郎カイルは夢心地で今日一日のことを思い出していた。

 自分達を祝福するために集まってくれた、仲間達と、家族と、町の人達と、そして隣で微笑む愛する人――メリィの笑顔。胸を満たす熱い思いと、背筋が引き締まるような覚悟。

 それは、決して一朝一夕で辿り着けたものではない。七年前までの、方途も定まらない無法なガキのままだったなら、今日のこの祝福はなかっただろう。誰にも貢献せず、生きる使命も持てず、日々を浪費するだけだった自分達の心に変革の狼煙を上げた、あの戦火の日の記憶が、暗闇にいた照らす炎のように胸の内に蘇るのを感じる。あの日――王都を襲った戦火を、英雄達が切り拓いたあの日。あの日は、このレオーネにとって、何もなかった自分達にとって、そして自分にとって、まさに革命の日だった。

(……本物に逢えたのは、嬉しかったな)

 目に焼き付くように激しい赤色を纏った戦火の英雄の姿が、瞼の裏に蘇る。

 今日、この日――自分の新たな人生の門出に、その道を拓いてくれた当人が偶然とはいえ祝いに来てくれるなど、女神の配剤を感謝せずにはいられない。女神までもがこの先の自分の行く道を照らしてくれている、希望を託してくれていると思うと、自然と気が引き締まる。

 何より、女神以上に自分を変えてくれた『紅勇』に逢えたことは、強い勇気をくれた。彼女に導かれ、彼女の道に続く者として、今まで以上に襟を正していかねばならないだろう。そんな責任感が心を引き締めるのが、変われたことを実感できるのが、心地よい。

「これからも、今まで以上に頑張らないとな……ま、とりあえず今は、だな」

 胸を満たす充実感と共に独り呟き、カイルはシャワーの元栓を締めた。

 途端に、今まで水に冷やされていた心臓の鼓動が高鳴っているのを自覚する。

 当然だろう――先にベッドに、初夜を待つ嫁が待っているのだから。

 心を鎮めようと深く息をしようとしたカイルは、突如、ガラスの割れる音を近くに聞いた。

「……ッ⁉」

 危急の予感に駆られたカイルは慌てて下着を着け、急ぎメリィの待つ寝室へと戻った。

 月明かりの差し込むそこに立っていたのは、意識を失ったメリィを腕に抱いた、青白い髪をし、腰元に細身の剣を提げた女性だった。

「御機嫌よう、新郎さん。月の綺麗な夜ね。せっかくの蜜月、お邪魔しては悪かったかしら」

 女性――メアはぐったりしたメリィを腕に抱えながら、嘲るような口調でカイルに言葉をかける。この女性が凶兆であるということは、火を見るよりも明らかだった。カイルは下着一丁であることも構わず、メリィを救い出すための策を考えながら、メアに話しかける。

「何者だ。メリィに手を出すな」

 厳しい目を向けてくるカイルに、メアは腕の中にあるメリィの顔を眺めながら、苛立ちを募らせるように言った。

「そうね……同じ女性として、こんな不幸に遭う気持ちはわかる、と言うような所なのでしょうけれど……生憎、こちらはそんな幸せを味わえるような生き方をしてこなかったの。だから、この町一番の幸せ者の顔を見てみたくてね。夜中にお邪魔させてもらったというわけ」

 狙いを窺わせないメアの飄々とした言葉に、カイルは探るように、強い口調で言った。

「何が目的だ。メリィに危害を加えるようなら、俺が許さない」

 だが、その言葉が気に障ったのか、メアは眼差しを鋭くすると、凶悪な笑みを見せた。

「許さない? はは、だったら裁いてみなさいよ、その何の力も持たない無力な両腕で! 今から貴方のお望み通り、この娘を血祭りに上げてあげるから」

 そして、メリィを抱える空いた右手で、左腰に提げた鞘から細剣をすらりと抜き、メリィの喉元にあてがう。彼女が本気だと悟ったカイルはもはや激情も捨てて懇願するしかなくなった。

「や、やめてくれ! メリィを、放してくれ……!」

「あら、さっきまでの威勢が形無しね、誇り高い自警団のリーダーさん。愛する人を奪われるのは怖いわよねぇ。骨身に染みるくらいの恐怖……ちゃんと感じられているようね」

 狂喜にほくそ笑むメアの目に宿る赤い光が、激情を映して徐々にその色を増していく。

「けれど、まだ、まだ全然足りないわ……貴方達人間が私達魔女の血族に振るってきた仕打ちは、その怖さと苦しみ、屈辱は……貴方達幸いな二人の不幸などでは、到底償えない。貴方が今感じている、総身を震わせる恐怖……せめてそれくらいは、わかってもらわないとね」

「何だ……何を言っている? それがメリィに何の関係が――」

 メアの言葉の意味が理解できず、焦りを見せて訊き返すカイルに、メアはメリィにあてがっていた剣先をカイルに向け、挑発的に言った。

「お喋りが過ぎたようね。そういえば、貴方にも伝えておきたいことがあったわ。ここに来る前に、貴方達のことを教えてくれた、自警団員の素敵な三匹……キーンとか言ったかしら。理知的で、少しは見る目もあったけれど、ご挨拶代わりに殺しちゃった。失礼したわね」

「何、だと……!」

 告げられた事実に驚愕するカイルを目に、メアは狂喜を唇に浮かべ、剣を振るい直す。

「私の謎を知りたければ、今この町に来ている紅い髪の女を探しなさい。あの子なら、全ての答えを知っているわ。それじゃあ、少々見苦しいけれど……血祭りを、始めましょうか」

「……! やめろ!」

 メアの言葉に、必死の響きを察したカイルが、我を捨てて飛び込もうとしたその時。

 割れたガラス窓から、金色の光を撒き散らす小柄な影が部屋に飛び込んできた。煌めく影はくるくると回転しながらメアに跳びかかり、警戒したメアが一歩飛び退ると共に着地、警戒心剥き出しの猫のような張り詰めた戦意を纏った低姿勢で、メアとカイルの間に立った。

 今にも飛びかかりそうなその小柄な姿、よく見ると気付くミニスカートの侍女衣装と金色のふわふわした髪に、唖然としたカイルはややあって思い当たった。

「君は……クラウディアさんと一緒にいた……!」

 カイルに、小柄な影――エメリアは眼前の敵への警戒を解かないまま、言った。

「ここはお任せください。メリィ様はエメリアちゃんが後ほどお届けに参ります」

 そう言い放ち、エメリアは両手に携えていた小刀を構え、メアに相対する。

 それを見たメアは、異分子の参上に眉を顰めてエメリアを見た。

「貴女、確か……セルフィが言っていたクララの飼い猫だったかしら。可愛い顔して初夜の寝室に飛び込むなんて、無粋な真似をするわね」

「貴女が言えることじゃないと思いますよぉ、《十二使徒》さん♪」

 軽口はお手の物とばかりに返しながらも隙を見せないエメリアを前に、メアは、ち、と舌打ちをすると、ふいに左手に構えた剣を逆袈裟に一閃した。その剣跡を描くように水の刃が形成され、エメリアとその背にいるカイルを両断せんと襲いかかる。防御は危険と判断したエメリアが咄嗟に背後にいるカイルに跳びついて押し飛ばし、水の剣跡をかろうじて躱したその間に、メアはエメリアの読み通り、壊した窓からメリィを連れて外へ逃れていた。

「メリィ……くっ!」

 メリィを守れなかった後悔に歯を食い縛るカイルに、エメリアは冷静な口調で言う。

「後悔しているヒマがあったら、メリィさんを救い出せるよう、今できることをしましょう。大丈夫です。あの女の人は、きっとメリィさんを殺しはしません。断言はできませんが」

「君は……何かを知っているのか?」

 カイルの問いには答えず、エメリアは衣装と気勢を整え直すと、カイルに指示を出す。

「カイル様は今すぐ、ホテルにいるクラウディアお嬢様と自警団ギルド、それから市長様のお宅に連絡を取ってください。これは緊急事態です。エメリアちゃんはこれからあの女の人とメリィ様を追いかけますので、後はよろしくお願いしますねっ!」

 そして、カイルの返事も待たず、自らも壊れたガラス窓から外へ飛び出した。彼女の振り撒く金色の鱗粉とメアの撒き散らした異様な妖気が部屋に残る中、後に残されたカイルは、

「何がどうなってる……くそ!」

 謎を抱えながらも、エメリアの言葉通り、メリィを救い出すため、そしてレオーネに突如訪れた危機に対処するため、急いで服を探し始めた。


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