第3話

第6章 海浜都市レオーネ編 第3話(1)

 アスレリア聖王暦1246年8月22日、深夜。

 市長の一人娘と自警団リーダーの結婚が祝われ、誰もが祝福を浴びせた夜の更けた頃。

 幸せの余韻が夜気に融け込むその中を、潜むように駆ける、三つの影の動きがあった。


「いやぁ~飲んだ飲んだ。ったく悪いねぇ、ご相伴に預かっちまってよぉ」

「それはカイルに言うことだろ。明日の朝知らねぇぞ」

「何だよ、そういうお前だって顔が熱いぞ、ラント。何一人で火照ってんだ?」

「はいはいそこまで。自警団員が町の深夜の安眠を邪魔しちゃ洒落にならんだろ」

 宴もたけなわの帰り、深夜の街路を浮いた足で歩く、三人の若者がいた。

 ジェフ、キーン、ラント――町に入り早々エメリアにナンパを仕掛けた、あの三人である。親友の祝福ムードに酔いしれる三人は、それぞれ幸せな気分で家路に就こうとしていた。

「しっかしカイルの野郎も幸せモンだよなぁ。あのメリィちゃんが花嫁だぞ? 毎日公認でメリィちゃんとイチャイチャできるなんて……あー俺も結婚してぇ!」

「お前は願望が下半身の方に偏りすぎだよ、ジェフ。まぁ、明日の朝が一番気になるのはあいつだな。明日あいつがニヤケ面して詰所に入って来たら張り手かましてやるか」

「はは、ありえそうだな。明日どんな顔して見れんのか楽しみ……っと」

 三人の火照った肌を、海辺の夜の冷たい風が撫でていく。ふと風の過ぎ去った方角に三人が目を遣ると、そこは海岸霊園の入口だった。頭上に光る大きな月は幻想的なまでに青く、静かな波音を響かせるイリアス湾の黒い水面と、静かに佇む霊の眠る場所を照らしている。

 酔いの熱を冷ますような幻想的な光景を目に、ラントが昔を思い出すように呟いた。

「そういや、ここって昔よく肝試しつって忍び込んでたっけな」

「ああ、そういえば……懐かしいな。ふ、酒のせいで感傷的になってるのかもな」

 それに、遠い昔を思い返すような声音で応じるキーン。そこにさらに、

「なあ、久しぶりに行ってみねえか? せっかくいい夜だし、肝が冷えるならちょうど――ん?」

 陽気に息巻くお調子者――ジェフの様子の変化に、ラントとキーンは気付いた。

「どうした、ジェフ?」

「なあ、俺の目が酒でおかしくなってるだけかもしれねえんだけどよ……誰か、人いねえ?」

 ジェフの恐る恐るといった言葉に、他の二人も霊園の方に目を凝らす。

 視線の先、青く光る海岸霊園の、その一番奥に――確かに、人影が見えた。

 青い月の光になお照り映える、月光色の長い髪。腰元には一振りの刀の鞘を提げている。

 およそ、こんな夜更けに一人佇むには、あまりに似合い過ぎている――そんな、夜に映える異常を纏ったような少女の姿が、霊園の最奥、聖人の墓地の前に立っていた。

「お、おい……どうする?」

「ど、ど、どうするも何も……こんな逢引きチャンス、滅多に――――」

「お前は黙れジェフ。……そうだな、少し近づいてみよう。もしかしたら道に迷っているのかもしれないしな」

 冷静な判断を下す男・キーンの言葉に、残りの二人も頷き、彼の後に続いて夜の霊園に足を踏み入れ、夜の冷気に凍った針のような草を踏み分け、件の影の元へと近づいていく。やがて、最奥に鎮座する墓石の近くまで来ると、キーン達は足を止め、その影を認めた。

 果たして、そこにいたのは青い闇を纏った、月光色の髪の女性だった。月明かりを浴び、波の音を聞き、夜風に吹かれながら静かに墓石を見つめていた彼女は、後ろに近付いてきた三人の気配に気づいたのか、髪を掻き上げると、優雅に後ろを振り向いた。

 夜闇の中に妖しく光る、刃のように鋭い青の瞳。

 その目に光る赤い虹彩を見た途端――キーン達三人の体の中を、幽気にも似た異様な怖気が走り抜けた。動揺もよそに、向き直った月光の髪の女性は、誘いのように口にする。

「御機嫌よう。月の綺麗な夜ね……あなた達も、お墓参り?」

 口にされるその言葉の冷たい響きの一つ一つに、まるで刃を突きつけられているかのような悪寒を感じながら、前にいたキーンは努めて冷静に言葉を選んだ。

「いや……夜の見回りの途中で見かけて、気になってね。こんな夜中に女の子が一人で出歩いているのは危ないだろう」

「そう……この町は、夜に出歩くのは危ないの?」

 青い彼女の冷たい言葉に、自警団員キーンはその誇りを持って答える。

「いや、そんなことはないさ。この町の人達の平和と安全は、僕達自警団が責任を持って守っている。少なくとも、君みたいな子を危ない目に遭わせるような町では、もうないさ」

「……そう。ご立派なことね」

 キーンの言葉に、彼女は不機嫌そうな目をわずかに眇め、三人に向けて声をかけた。

「ここでは場所が悪いわ……せっかくだから、町の中まで案内してくださる? この町に辿り着いたばかりで、宿も取っていないの」

「へ……」

 その言葉に呆気に取られるキーンの後ろで、ジェフが憤然と息巻いた。

「お、おおおお安い御用さッ! 何なら、宿がなければ俺の家に――――」

「落ち着けジェフ、猿かお前は。……わかった、案内しよう。泊まる宿もないのは一大事だ」

「ありがとう。優しいのね、貴方は」

 女性の浮かべる妖艶な笑みに、キーンは胸がざわつくのを感じる。

 それは決して、この手の出逢いにありがちな、胸を躍らせる甘いものではなかった。彼女の言葉の端々、そしてこちらに投げかけてくる氷のような視線に、一瞬の内に心臓を貫かれそうな危険なものを、キーンは感じていた。

 用心しよう、と自らに言い聞かせつつ、キーンは後ろの二人に指示を出す。

「ジェフ、先に詰所に行って、宿の部屋が取れるかどうか確認してきてくれ。ラントは俺と、この子の護衛だ」

「わ、わかった」

「何で俺だけ別行動なんだよ⁉」

「お前が一番危険だからだ。それにお前、足も速いだろ。さっさと頼む。この子に風邪をひかせたくなければな」

「ちっくしょぉ……覚えてやがれよキーンッ!」

 悔しさもひとしおに叫び、ジェフは駆け出し、夜闇の街路へと消えていく。

 それを見送り、キーンとラントは視線を交わし、青を纏う女性に手を差し出した。

「じゃあ、行こうか。案内するよ」

 差し出されたその手に、女性はにこりと微笑み、しかし拒絶のように言った。

「エスコートのお誘いありがとう。けれど手は要らないわ。自分の身は自分で守れるから」

 その妖しい微笑みに、ラントとキーンは揃って、背筋を舐められるような怖気を感じた。

 

 ラントとキーンは、ひとまず自警団の詰所まで彼女を送り届けることにした。宿が取れるならどのみちそこが一番早いし安全だ。ジェフが変な気を起こしたりしなければだが。

 女性を連れて霊園を出た二人は、緊張と共にレオーネの寝静まった街路を歩く。陽気闊達で知られるレオーネの人々も、むしろ陽が沈むころには十分な睡眠をとるのだ。世界と女神の結びつきを強く意識する、《神の輝きの海辺》レオーネの人々の気性の一面ともいえた。

 緊張に口を噤む中、二人に挟まれて歩く青の麗女が、呟くように言った。

「静かなものね……てっきり、夜までお祭り騒ぎなのかと思っていたわ」

「レオーネの人間は、意外と時間に誠実なのさ。その様子だと君、ここは初めてかな?」

 努めて軽い調子を装うキーンに、麗女はつまらなそうに答える。

「そうね。あれ以来、来たくてもなかなか来れなかったからね」

「あれ以来……?」

 ラントに、彼女は失言とばかりに小さく目を眇め、気にするなと手を振ってみせた。

「こっちの話よ。それより、あなた達こそどうしてこんな時間に? お仕事かしら?」

 彼女の言葉に、ラントとキーンは顔を見合わせ、それに答えを返した。

「そういうわけでもなくてね……実は、今日は俺達の仲間の結婚式だったのさ。俺達はその帰りで、君を見つけたってわけ」

「結婚式……そうだったの。道理で浮ついた空気が出ているわけね」

 対し、彼女が返したその言葉は、どこか異様なまでに不機嫌そうだった。せっかくの幸せな気分に水を差されたように感じたラントは、平静を装って彼女にさらなる言葉をかける。

「君も結構いい女性だと思うけど……いいご縁の相手とか、いな――――」

「……黙って。もう十分よ」

 斬り捨てるような声で、女性は足を止める。その頃には三人は中央広場まで来ていた。

「あ……ご、ごめん。気に障ったようなら――――」

「もう十分って言っているでしょう。ここまででいいわ、あなた達の役目は」

 その言葉と同時――彼女の腰に帯びた抜剣の冷たい鞘走りの音が、夜気の中に走った。

「へ……」

「――ラント、下がれ!」

 一瞬の内に、事情を察せなかったラントは、彼女の纏う幽気が明確な殺気に変わったことを察したキーンに突き飛ばされ、そのキーンの体を、彼女の振り抜いた太刀が一閃していた。

「キ……キーン!」

 一瞬遅れて、まだ何が起きているのか呑み込めないラントを、血濡れた刀を一閃した麗女が、冷酷な笑いと共に見下ろしていた。

「この町の石畳は綺麗だから、貴方達の血なんて汚いもので汚したくないの。大変なのよ、切断損傷を起こさないくらいに早く精確に人を斬るのって」

「は、えっ……⁉」

 ようやくラントが事態が呑み込めた時には、青を纏うその女はラントの目の前に跪き、その突き刺すような氷の視線をラントの目に注ぎ込みながら、妖艶に囁いた。

「人を探しに来たの。炎みたいな紅い髪と目をした女性……この町に来ているはずなのだけれど、心当たりはないかしら」

「は、あ、え……?」

 混乱する頭で、ラントはしかし、その心当たりに辿り着いてしまう。

 その様子を見取った彼女は、妖艶に笑みながら、ラントの耳元に口を寄せ、

「もし心当たりがあるのなら、その子に伝えておいてくれないかしら。貴方、誠実そうだし、信用が置けそうだし……これを伝えなかったら何が起こるかくらい、理解できそうだし、ね」

 心臓も凍るような、夜魔の声音で、囁いた。

「『これ以上犠牲を出したくなければ、夜の零時にあなたの母様が眠る場所まで来なさい』って」

 途端、クスリ、と耳元で嗤う声と共に解放されたラントが瞬いた時には――彼女は、目の前からいなくなっていた。目の前に倒れたキーンを残して。

「キ、キーン……」

(大変だ……何がどうなってるんだ、ちくしょう!)

 何が起きているのかわからないまま、混乱した頭でキーンの体を担ごうとするラント。

 その様を、一跳躍で登った屋根の上から冷然と見下ろしながら、

「さて……他にも耳障りな狗がいるみたいね。始末しに行きましょうか」

 夜の静寂に舞い降りた夜魔――《十二使徒》『海』ミラ=メアは、頭上に冷たく浮かぶ青い月を見上げ、クスリと嗤った。


   ✡


 深夜のレオーネの町に夜魔が訪れ、兇刃を振るい始めた――その、同時刻。

 寝付けずにいたクランツは一人部屋のベッドに横になりながら、窓から差し込む青い月明かりを眺めていた。今夜はどうにも体の奥が火照って、なかなか眠りに就けない。

 理由として考えられることがあるとすれば、一つしかなかった。

《お気になさらず。クランツさんとエメリアちゃんの仲ですから、ね♡》

(エメリア……)

 結局、昼過ぎから夕方のほとんどを、クランツはエメリアに手を引かれて過ごした。今でも左手をかざすと、彼女の華奢で滑らかな小さい手の感触と温度が蘇ってくる。

 今思うと、それはとても貴重な時間だったように思える。エメリアはクラウディアに付きっ切りだし、自分もクラウディアにかかりきりだ。もしかすると、今日のようにお互い主人の元を離れて二人きりで町を歩けるという方が稀有になるのかもしれない。だから何だ、と言い捨てるには、彼女と過ごしてしまった時間はクランツにとってあまりにも甘美だった。

(って……何考えてるんだ、僕は)

 単なる悪戯の一線を越えさせかねないあたり、本当にあの子はタチが悪い。

 頭を振ってエメリアの甘い亡霊を振り飛ばし、寝返りを打つ。

 彼女が、主人であるクラウディアと、その相手たる自分を好いてくれているのはわかった。

 故に彼女が、自分の恋心を応援しようとしてくれているのも、わかった。

 だが――それでも、クランツの中にはまだ、解けない謎が残ったままだった。エメリアにしてもクラウディアにしても、彼女達にそうまでさせる何かに、自分はまだ触れられていない――それが、今日のデートを経た後の、クランツの率直な感想だった。

 何かが、足りない。あと一歩、踏み込みが足りない。

 せっかくのチャンスを得たにも関わらず、そこに至るための情報を聞き出せなかったことは、クランツの失策だった。

 クラウディアに関わる、自分のこと。

 エメリアに関わる、自分のこと。

 セリナに、ルベールに、サリューに、ゲルマントに――この世界に関わる、自分のこと。

(僕は……何を、どうしたいんだろうな)

 半ば諦観のような感情を胸に、月明かりの差し込む窓辺に寝返りを打ったクランツは、

 ――ヒュッ、と。

 すぐそばの部屋から何かが飛び出していったような空気の流れを感じて、目が覚めた。

(…………?)

 何事かと不審に思いながら、クランツはベッドから身を起こし、窓の外を見る。

 そこには、屋根から屋根を飛び移っていく、金色の鱗粉を撒き散らす少女の姿が見えた。

「エメリア……?」

 それが何者なのか即座に看破したクランツは、すぐに次の疑惑に至る。

 こんな時間に、外に飛び出すなんて――何かあったとしか思えない。

 クランツ以上に感覚器の性能の良いエメリアのことだ。何か無視できない異常を感知して、即座に対処のために飛び出したとしても不思議はない。

 だが、だとするとその事態は――よほどの緊急を要するほどのこと。

 その考えに至った時――クランツの胸の内が、不穏な予感にざわめいた。

 エメリアの見せてくれた色とりどりの表情が、逆再生のように脳裏を駆け抜ける。

 まるで、危地に向かう彼女が、手の届かない遠くへ行ってしまうような気がして。

(何だっていうんだ……くそ、心配かけるんじゃないよ、エメリア……!)

 クラウディアへの忠義か、エメリアへの色心か――この際、それは措いておくしかない。

 クランツは逸る思いでベッドから飛び起き、急いで外へ出る支度を始めた。

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