第1話

第6章 海浜都市レオーネ編 第1話(1)

 涼風と陽光の満ちる青い空の下を、クランツ達を乗せた一台の馬車が駆け抜けていく。

 窓の外の視界いっぱいに映るのは、街道の脇に広がる青々とした草花の広がる草原に、その向こうにさらに広がる、青天の空に浮かぶまばゆい太陽の光を反射してきらきらと輝くイリアス湾の、風光明媚もかくやという光景だった。草原は風に撫でられてさわさわと青い波のように揺れ、海に煌めく光は水の中に光る宝石のように眩しい。開け放した窓からは青い草と眩い陽と海の潮の匂いを乗せた爽やかな風が吹き込み、心に染みつく澱みすらをも洗っていくようだった。

 商業都市ハーメスでの一件が片付いた後、次の目的地である海浜都市レオーネに向かうことにしたクラウディア達は、ハーメス市長の取り計らいで馬車を用意して貰った。あわや市街への甚大な被害を食い止めてくれたことへのささやかな謝礼として、王国の名物のひとつとも言われるレオーネへと続くアゼリア街道の景色を堪能してもらいたいということらしかった。クラウディアも最初は遠慮したのだが、最終的にはハーメスとの今後の関係を好ましいものにするべく、とエメリアに囁かれ、市長の厚意を受けることにしたのだった。

 青い煌きの中を走り抜けていくような眩しい風景に目を奪われるクランツに、隣に座っていたエメリアが嬉しそうにはしゃぎながらクランツに擦り寄ってきた。

「わぁ……風が気持ちいいですね、クランツさん! ひゃっほー!」

「そ、そうだね……ってちょっと、エメリア、そんなに寄らないでって、狭いよ」

「だってぇ、お天気もいいし、とっても気持ちいいんですもん。エメリアちゃん、嬉しくなると誰かに抱きつきたくなっちゃうカラダなんですよぉ。だから人助けだと思って、ね?」

 嬉しそうな声を出しながら、エメリアはぎゅうぎゅうと小さな体をクランツに寄せてくる。密着するエメリアの身体は華奢な割に柔らかく、クランツは痛いやら何やらで困った。乗り気でないクランツの様子を見取ったエメリアが、悪戯っぽく表情を変えてみせる。

「むー。クランツさん、エメリアちゃんに攻められるのがご不満なんですかぁ? こんな可愛くて健気な美少女メイドのエメリアちゃんに抱きつかれて嬉しくない男の子なんてこの世にいないはずなのにぃ。もっとぎゅーってして味わってくださいよぉ、ほらほらぁ♡」

「いだだだだ、だから痛い、痛いって! 限度ってものがあるだろ」

 エメリアに迫られながら、クランツはちらりと対岸に座るクラウディアに目を向ける。

 クラウディアはひとり対岸に座りながら、窓の外に広がるイリアス湾の海面を、物憂げな面持ちで眺めていた。どこか影を帯びたその瞳には、彼女の晴れない心が映されているようにクランツには見えた。

 その愁いを帯びた瞳を見つめながら、クランツは彼女の心情を測る。

 ハーメスでの一件で垣間見えた、《十二使徒》達の目的と行動についての疑問。それは、アルベルトから託されたこの旅業の前提を少なからず揺るがしかねない疑問だった。対抗しているはずの相手の、まるで自分達を試すことが目的であるかのような言動や行動。

 彼らの真の目的、そしてそれに連動しているはずの自分達の目的……この旅における自分達を支えているはずのその理由が今、揺らぎかけているのだった。ハーメスで出逢った行きずりの協力者ジャックスや、謎の学生カルルの予想だにしなかった正体、そして彼らの行動の思惑に関する疑問までもが、その状況の不明さに拍車をかけている。

 それを、信頼していたアルベルトからの命を託され、クランツ達の身柄を預かる責任を背負い、十二使徒達と因縁浅からぬ関係を持つクラウディアが、気にしないはずもなかった。何度か行動を共にし、今や少なからず彼女の事情を知ることになったクランツにも、それくらいの事情は察することができた。

 事は、現状のみならず、彼女の長く抱えてきた過去の痛みにも、深く関わっている。

 そんな事情に、門外漢である自分が踏み込んでよいものなのか。

 悩みかけるクランツ。そこに、身を寄せていたエメリアが彼の耳元に顔を寄せ、甘い吐息を吹きかけて、びくりと身を震わせたクランツに、くすりと笑みながら囁いた。

「ク・ラ・ン・ツ・さん。何を弱気になってるんですか? クランツさんはお嬢様の騎士様なんでしょう? そんな弱気じゃ、いつかお嬢様を泣かせちゃうかもですよぉ。そんなことになったら、エメリアちゃん許しませんからねえ」

「それは、そうだけど……その、人にあんまり踏み込まれたくない気分の時ってあるだろ」

 弱気になりかけるクランツに、うーん、とこれ見よがしに首を傾げ、エメリアは言った。

「困りましたねえ。今、お嬢様に一番親身になってあげられるのはクランツさんなのに」

「え……」

 意外な言葉に気を取られたクランツに、エメリアはその瞳を見つめながら話す。

「たしかに、エメリアちゃんやサリューさんはクランツさんよりお嬢様との付き合いも長いですし、それだけお嬢様の事情も存じてますから、お助けになることはきっとできます。でも、たまにはそういう家族みたいな相手に事情を話すよりも、最近仲良くなってきた方に思い切って事情を打ち明けたくなる……そういう時っていうのも、たまにありませんか?」

「……そういう、ものかな」

 目を開かれたようなクランツに、エメリアは重ねるように続けた。

「今、クランツさんはお嬢様にとって、とってもいい位置にいらっしゃると思います。まだ一緒に過ごした深い時間は短いけれど、心を許せて、自分の深いトコロにまで入ってきてほしいって思えるような……お嬢様にとってそんな殿方は、今の所クランツさんくらいだと思いますよ」

「……僕が、そういう相手になれるって?」

 半信半疑で訊いたクランツに、エメリアは小さく頷くように、ふふ、と笑った。

「クランツさんは、だからこそ、エメリアちゃんやサリューさんとは違った気遣い方ができるはずなんです。今、お嬢様に必要なのは、仲の長いエメリアちゃん達だけじゃありません。今、お嬢様にはクランツさんの助けが必要だって、エメリアちゃんは思いますけどねぇ」

「本当に……そうかな」

「本当ですよぉ。お嬢様に寄って来る男の方を見極めるエメリアちゃんの仔猫の目に狂いはありませんからねぇ。今、お嬢様のお疲れ気味な心に一番近くで寄り添ってあげられるのは、クランツさんだけです。どうか、その真っ直ぐなお気持ちでお嬢様を慰めてあげてくださいませ。せっかくすぐ近くにいらっしゃるんですし、アタックチャンスなんですから♡」

「本当かよ……もし見極めがおかしかったら、訴えてやるからな」

 エメリアは、ふふふ、と楽しそうに笑むと、そっとクランツの背中を押した。

 エメリアの悪戯には辟易しつつ、その言葉に、クランツは考える。

 エメリアの言う通りだ。自分は彼女を助けるためにこの旅に同行すると、自分に、そして彼女に誓った身なのだ。クラウディアが途方に暮れかけている今、彼女を助けると誓った自分は、何か行動を起こさなければならなかった。

 現状を変えるには、今できることをやるしかない――ジャックスはそう言った。

 だとしたら、自分にできることは何か――考えながら、クランツは口を開いた。

「クラウディア……」

 クランツの言葉に、クラウディアがふとクランツに流すような目を向ける。そして、クランツがその瞳の冷たさに息を呑むのを見ると、ふっとすまなさそうに笑って、言った。

「すまない。不安にさせてしまったか」

 自分の不安を奥に隠してまで、クランツを気遣う言葉と表情。

 感情を無理やり押し隠したような痛ましい表情に、クランツの胸が軋むようにじくりと痛んだ。自分が彼女に無理をさせている――まだ守られてばかりというそのことに、以前と変わらないことの悔しさを覚えたクランツは、今度は勇気を出して口を開いていた。

「クラウディア。……あなたにそんな顔をされるの、僕は嫌です」

「えっ?」

 思わぬ返しに虚を突かれたクラウディアに、クランツは心中を吐露するように言った。

「僕は、あなたにそんな暗い顔をさせている過去をまだよく知らない。あなたをそんな風にさせている痛みを知って、それを分かち合いたいけど、僕はまだ、そこまで行けていない。だから、あなたの深い所に踏み込んでいいのか……僕にはまだ、わからない」

 クランツはそこで、俯いていた顔をキッと上げて、クラウディアの瞳をまっすぐに見た。

「けど……僕は、あなたにそんな悲しそうな顔をしてほしくないんです。あなたにそれ以上心を痛めてほしくない。心から幸せに笑っていてほしい。そのために、あなたのために、力になりたいんです。だから……何か、僕にできることは、ありませんか?」

 熱に浮かされたような勢いで話したクランツは、知らず素直な気持ちを言葉にしていた。

 クランツはクラウディアから一度も目を逸らすことなく、ありのままの心を彼女に晒すような言葉を告げた。彼の切実な視線を受け、しばらく呆気に取られていたクラウディアは目を丸くしながら、おずおずと言った。

「私は……そんなに、悲しそうな顔をしていたか?」

 心底驚いたといった様子で言ったクラウディアに、逆に虚を突かれてぽかんとするクランツ。そこにエメリアが可笑しそうに笑いながら言った。

「してましたよぉ。ご気分がお顔に表れやすいこと、お気づきでらっしゃいませんでした? ましてやクランツさんがお嬢様のお顔の具合を見落とされるわけがないでしょう?」

 エメリアの言葉に、クラウディアが驚いたような目でクランツを見、不意を突かれたクランツの背筋がびくりと震える。二人の間に甘酸っぱい緊張が走る中、エメリアがふふ、と可笑しそうに笑みを漏らしながら言った。

「お嬢様も天然さんでいらっしゃいますね。可愛いんですから♡」

「ぬっ……」

 クラウディアの顔が赤くなる。その様を見ていたクランツも、思わず笑みを零していた。

「クラウディア……」

「……もういい。もうじきレオーネに着く。やることはまだ多い。気を引き締めなさい」

 ぶすっとした声を投げ、赤くなった顔を窓の外に向けるクラウディア。拗ねる少女のような可愛らしいその様子に、クランツとエメリアは可笑しそうな笑みを浮かべていた。

 そうこうして張り詰めた空気が和んだ頃、青い海と輝く空に照らされる草道を走る馬車の行く先に、空に聳える白い尖塔を抱いて広がる町が近づいてきていた。


 グランヴァルト聖王国は、ヴァルツェ大陸の南岸に位置している。西方にはカルディオーレ帝国、東側にはフレイスベルク共和国といった大国に地続きに挟まれており、北方には大陸の天嶮とされるアムネシア山脈が連なっている。北の山脈に連なる北西部には霊谷カルデニアが煉獄のように口を開けており、その真反対にある南東部には大陸の突端となるアルネス半島が飛び出していて、王国の内地まで広がる「輝きの海」イリアス湾を擁している。

 そのイリアス湾に沿うアルネス半島の突端に位置するのが、海浜都市レオーネである。この都市は国内で唯一の海に面した町であり、光を浴びて広がる海を一望できるイリアス湾の風光明媚な光景は聖王国随一の観光名物として、国内外から訪れる旅行客が絶えることがない。町の建物は白い煉瓦石で建てられているものがほとんどで、海に反射する眩しい光と合わさって、清涼かつ爽快な空気を町中に広げている。その心が洗われるような海辺の空気に魅せられて、静養やバカンスに訪れる人も少なくない。

 そして、この町はその地風から、二つの全く異なる顔を持っている。

 ひとつは、祝福の光と風の溢れる、結婚式の名所としての顔。

 そして、死者の安息を祈る場所としての、墓場としての顔である。

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