第6章 海浜都市レオーネ編 プロローグ
深い紺青を湛えた夜空の下、燦々と降り注ぐ月の光をさざめく水に映す、鏡のような湖面を猊下に立つ、明るい闇の中にあってなお白い鐘楼の塔。
その上層に設えられた展望台のテラスに立ち、聖女は静かに煌めく深い夜を眺めていた。軽装の花嫁衣裳のような純白のドレスに、光の加減によって薄い緑に揺らめく、涼風の軌跡のようにさらりと長い髪。白葡萄の実のように透き通った
(……どういう風の吹き回し、なのかしらね)
風の星を司る聖女は心中で呟き、そっと目を閉じる。
その瞼の裏に、先程まで見ていた夢の光景が蘇る。
赤い炎。燃える大地。剣撃の音。灼熱の中を貫く、いくつもの叫び。
そして、燃え盛る炎の中、剣を手に振り向いてひとり笑った、かつての友の姿。
熱風に燃え立つような真紅の髪、鮮やかな炎の煌めきを映す紅玉の瞳。
その足元から赤い血が蛇のように体に這い昇り、火線となって、彼女は炎に包まれて――。
聖女はそこで、目を覚ました。荒い息をしていたのを、自分でも感じていた。
そして、心を鎮めるために夜涼みに出てきたのである。
「――今でも、やっぱり忘れられてなんていないってことなのね」
聖女は己を顧みるように誰にでもなくひとり呟き、小さな吐息を漏らす。
今になってもう十年以上も前のあのことを思い出すことに、覚えがないわけではない。この王国の歴史を受け継ぐ身として生まれ、共に魂を分けた友を残酷な形で失ったことは、彼女の心の内にも消えない傷として今も残っているということだった。
だがそれだけでなく――曲がりなりにも王国の歴史に連なる血脈と魔力を宿す自分がそのような夢を見るということの意味を、風の聖女は考えざるをえなかった。
荒ぶる熱風に舞う、燃え落ちる夕陽のように赤い火花が、瞼の裏にちらつく。
(何かの凶兆でなければ、よいのだけれど)
心中で呟き、彼女は再び、尖塔の眼下に広がる光景に目を移す。夜の深い青を映す静かなイリアス湾は、月の光を散りばめて、きらきらと輝いていた。
「女神様……なぜあの子は、死ななければいけなかったのかしら」
日々の忙しさを眠りに包むような安らかな闇夜に、聖女はひとり、炎の中に散った友の不運を、届かなかった女神の慈悲を、天の配剤を嘆くように呟いた。
その時、夜の中に湧いたふわりと白い風が、尖塔のテラスにいた聖女を包み込む。その息吹を感じ取った彼女は、その細く白い腕を、そっと夜の空に誘いのように伸ばした。
夜闇の中に伸ばされたその手に、どこからか舞い降りるように現れた小さな姿が停まる。それは、青い夜の光の中にあってなお淡い輝きを放つ、一羽の白い小鳥だった。
聖女の手に停まった小鳥は、首を傾げて彼女にそのつぶらな瞳を合わせ、まるで言葉を発したかのように、小さな嘴をわずかに動かした。
その『彼』が伝えた言葉に、聖女は思わず息を呑んだ。同時に、つい先ほどのあの夢を思い出す。やはりあれは、何かの予兆だったのだ。
『彼女』の娘が、仲間と共にこの町に向かってきている。
その来訪に、『あの時』に連なる何かの予感を感じながら、聖女は小さく笑みを浮かべて、小鳥に囁いた。
「そう……ありがとう。せっかく訪ねてくれるのなら、いい再会にしたいわね」
聖女の言葉に、小鳥は小さく高い声で鳴くと、彼女の手を離れて夜空の中に飛んでいった。深い青を湛える夜闇の中に、飛び去る『彼』の羽が放つ眩く白い光の軌跡が霞のように残る。
静かな夜の中に描かれる淡い光の軌跡を見送りながら、
「セレニア……」
海浜都市レオーネの聖女――『六星の巫女』の一人、シャーリィ・ミュネルネは、不安げな面持ちで、青い月夜の中に静かにさざめくイリアス湾の水面を眺めていた。
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