第2話

 さっきまで廊下で寝ていた女が、私の部屋のソファに座ってカレー風味のカップラーメンを啜っている。美味そうに食っているのが、妙に腹立たしい。

「それ食ったら帰れよ」

 と言って煙草に火を付けようとしたところで、彼女が私を涙目で見つめているのに気付く。

「泊めて?」

「嫌だ。ここはホテルじゃねぇから」

「じゃあ食堂?」

「舐めてんのか、お前」

「でもワタシ、家無い」

「そう言われても困る」

「お手伝いしますから」

「要らない。素人に邪魔されると、逆に面倒なんだよ」

「何でもしますから!」

「駄目なものは駄目だ」

「何でも!!できますから!!」

「大声を出すな! 目立つから静かにしろ!」

「泊めてくれるなら騒ぎませんが?」

「……分かったよ。ただし今日だけだ。いいな?」

 女は丸い目をさらに丸く大きくして、満足そうに首を縦に振った。

「はい! おかわり!」

「いい加減にしろよ! 図々しい」

 空になったカップ麺の容器を高々と掲げていた彼女は、途端にソファの上で小さくなった。

「すみません。確かに私は図々しかったです。代わりにお礼します! 何でもして欲しいことを言って下さい!」

「何も変なことをしなければ、それでいい。絶対に部屋の中にあるものとか勝手に触るなよ?」

 と言ったそばから、彼女は私の作業机に近付いて行った。

「おい!? 近付くな! 私の商売道具なんだ!」

 彼女は不貞腐れた顔を私に向ける。

「まだ何も触ってないのに」

「いいからソファに戻れ。朝になるまで、そこから動くな」

「あなたはプログラマーさんなんですか?」

「まあ、そんなとこ」

「だから女性なのに男っぽいんですね。髪が短いので、最初は男性かと思いましたが」

「関係ねぇだろ! いいから黙って寝てろ!」

 この調子では朝まで監視が必要そうだ。どうせ寝られないと思っていたところだから、別にいいんだけど。

「あの……」

「今度は何?」

「あなた、名前は?」

「そういや名乗ってなかったな。私は洲原だ。あんたは?」

「ワタシはココロ! どうぞよろしく!」

「はいはい、よろしく」

「で、洲原ちゃんの夢は何?」

「……『ちゃん』付けはやめてくれない?」

「それが夢?」

「……いや。私の夢は、――」

 そこまで口にしてから、ふと気付く。私の夢って何だったんだろう。

 いつもそこにあったはずなのに、気付くといつの間にか無くなっていて、どこにいったかさえ見当もつかない。

 ただ何となく、今の私の思いが答えのような気がした。一夜の夢と同じ。意識システムのバグ。ありもしないものをあることにしようとして生まれる虚像。それが夢だ。

「どこか遠くの南の島で、世界を旅して世界を感じて小説を書くAIを作りたい、かな。ドローンにカメラやセンサーを搭載すればできそうだなとは思ってる。どうせそんなの無理だけどね」

「無理じゃないです!」

 ココロが目の前に身を乗り出して、真剣な眼差しを私に向けていた。

「できると思えば、できます! 洲原ちゃんがやろうとしないだけ!」

「あー、分かったって。そんなに本気にすんなよ。適当に言っただけだし」

「叶えましょう! 洲原ちゃんの夢を!」

 そう言うなりココロは私の服を掴むと、その華奢な体からは想像できないほど強い力で引っ張った。

「ちょっと!?どうするつもり!?」

「今から南の島に行きます!」

「待ちなって! 突然すぎるだろ!」

 しかしココロは雄牛のように私を引っ張り続け、とうとう壁際に辿り着くと部屋の窓を開けた。

「おい、待て。いくらなんでもそこからは――」

「二階だから大丈夫です!」

「ヒィッ!」

 私の体はココロに抱えられてしまい、街灯に照らされた夜の路地目掛けて、私達は宙を舞った。 

 重力から解放される感覚。私はそれが怖かった。今まで私を縛り付けていたものは、私の自由を阻害する代わりに、棘だらけのサボテンの椅子を用意してくれていたのだ。そこに座っているのは苦痛だ。しかし、そこに間違いなく私の居場所は用意されている。

 世界が、私の存在価値を認めてくれている。そんな気分にさせてくれるのだ。

 それは麻薬。危険だと分かっていても、止められない。痛みの快楽に浸っているうちに、それ無しでは生きられなくなってしまう。

 私は異常だ。でも普通な人間なんて、この世にはいない。私の歩いてきた道が、ただこの板橋のアパートに繋がっていただけ。

 とすれば、子犬のように無邪気なココロが連れて行ってくれる旅路の先には、何があるのだろうか。興味が無いと言えば嘘になる。

「南の島が楽しみですね!」

 ココロは、私を抱えたまま平然と地面に降り立った。笑顔まで浮かべている。

 でも、それくらい頑丈でなければ、私をこの檻の中から連れ出すことはできないだろう。

「逃げたぞ!追え!」

 アパートの中から、男の声が聞こえた。昼間の連中だ。

 まさか私の部屋まで尾行されていたとは気付かなかった。しかし襲われる前に抜け出せたのは幸いである。

「走れ、ココロ!」

「任せて! 体力には自信あるから!」

 その瞬間、ココロはマスタングのような加速でアスファルトを蹴った。こいつ、もはや人間ではない。私の視界に映る夜の路地は、AIが生成する文章のように、険しい岩々を削る急流のように、後方へと流れていく。

 世界が物語みたいに見えた。

「ココロ! 次の角を右へ!」

「どうして?」

「力になってくれるかもしれない人がいる。一か八か、相談してみたい」 

「そんじゃ夢へ向かってゴー!」

 ギアを入れたようにココロが更に速くなる。どこにそんな余力があったんだよ、マジで。



「ここだ」

 巣鴨の町外れにあるバー「ゲイゼル」の前で、ココロを止める。

「ここが友達の家?」

「友達じゃない。上司、かな」

 ココロに降ろしてもらい、バーのドアを開ける。薄暗い店内に客は居ない。私はカウンター席に腰掛けた。

「やぁ、マスター」

 白髪交じりの初老の紳士は、私達を見るなり何も言わずに二人分のホットコーヒーを淹れてくれた。

「ここに来てくれるのは、久しぶりだね」

 マスターは私の顔を覗き見る。

「……」

「待っていなさい。店を閉めてくるから」

 何かを悟ったマスターが店の外へ出て行く。

「美味しい!」

 私の隣に座ったココロはコーヒーを堪能しているが、私は緊張でそれどころではなかった。

 気分を紛らわせるために、手近な紙ナプキンを取って、折り目を付けていく。内面を隠すように。不安を包み込むように。

 二次元から三次元が生まれ、立体構造がエネルギーを生み出す。意味を持たなかった平面が、見た者の心を解き放つ鳥へと羽化していく。

「何を折ってるの?」

「鶴。ほらできた」

「おー! 初めて見た!」

 ココロは、まるで子供のような目で折り鶴をしげしげと眺めていた。

「欲しけりゃあげるよ」

「いいの!? やったー!」

 折り鶴を手に持って店の中を走り回るココロは好きにさせておき、戻ってきたマスターに視線を向ける。

「彼女は?」

「行き倒れてたから餌付けしたら、ついてきた」

「イヌと一緒に?」

「私が尾行られてたの知ってたんですか?」

「我々の情報網を舐められては困る」

「流石はグレイブルズのボス」

「で、用件は?」

 私はコーヒーカップに両手を添えて少し持ち上げ、コーヒーの水面に反射する照明をしばらく揺らしてから、話を切り出した。

「……海外に高飛びしたい」

「ほぅ。借金は働いて返すと言ったのは誰だ? 君の口座に原稿料を振り込んでるのが誰なのか分かってるんだろうな?」

「仕事は続ける。でも捕まったら仕事もできない」

「それは君の問題だ。僕には関係ない」

「でも地下で小説執筆AIを作れるのは私くらいしかいないだろ? ミステリファンからの依頼は山のように来てる。私が居なくなって困るのはマスターだ」

 マスターの深い溜息が店内に響く。

「言っておくが、君の今の稼ぎでは海外旅行は無理だ」

「そこをなんとか」

「北海道はどうだ。幾つか別荘がある。飯は旨いし、空気も澄んでいる。悪くない仕事場だろう?」

「北海道、ですか……」

「ご不満かな? それとも僕のコーヒーが飲めなくなるのが寂しいのかい?」

 マスターの鷹のように鋭い視線が、私の心へと真っ直ぐに注がれている。まるで心の中が見透かされているかのように。

「いえ、そういう訳ではありませんが」

 そこにココロが割り込んできた。

「洲原ちゃん、アイス食べたい! コンビニ行こう!」

 またゴリラのような力で私の服が引っ張られる。お気に入りの服が破かれるのではないかと、内心ヒヤヒヤした。

「少し頭を冷やして考えるといい。ただし気を付けろ。最近、この辺りはカラスが増えてな。ゴミ捨ても面倒なんだ」

「はい……。ありがとうございます」

 マスターにお辞儀をして、私はバーを後にした。

 さっきココロに抱えられていた時は気付かなかったが、肌に纏わりつくような暑苦しい空気が夏の夜に充満していた。こんなサウナの中で頭を冷やせる訳がない。

 すると人気の無い公園にさしかかった辺りで、ココロが立ち止まった。

「この辺でいいか」

 気付くと私の体はココロに抱えられている。

「ど、どうした!?」

 私が見上げた先で、ココロは満面の笑みを浮かべていた。

「逃げるよ」

「何処へ?」

「南の島」

 ココロが走り出し、ゆっくりと速度を上げていく。

「ちょっと待て。コンビニに行くんじゃないのか? マスターの店に戻らないと」

「でも、洲原ちゃんは北海道行きたくないでしょ?」

「……でも、現実的な選択肢だ。マスターの所にいれば警察から守ってくれるし、生活費くらいは稼げる。何も考えずに南の島に行くより、ずっと良い」

「それ、本気で言ってる?」

 走る速度を緩めることなく、ココロは冷静な声で尋ねる。

「……」

「ワタシ、言ったよね。洲原ちゃんの夢を叶えるって。ワタシは人間の可能性を信じてる。洲原ちゃんなら人間だからできる。小説がワタシに教えてくれた」

「お前、何言ってんだよ」

 その時だった。何かが弾けるような音がして、同時に私の体が宙を舞った。咄嗟に地面についた右の掌がアスファルトで擦れて、焼けるように痛む。

 だがそんなことは些細なことだった。見上げた先には、地面に座り込んだココロ。その左肘から先は、綺麗さっぱり無くなっていた。ココロは必死に左腕を隠していたが、転がった腕の断面からは千切れた銅線や金属のバネが顔を覗かせている。

 義手かとも思ったが、今までのココロの身体能力の高さを思い返すと、全身が金属でできたアンドロイドだと思った方が納得できる。今まで意識を持つアンドロイドが開発されたなんて話は聞いたことないが。

「動くな!」

 闇の中から、拳銃を構えたスーツ姿の男達がにじり寄って来る。逃げ場が無いのは明らかだった。

「ドールの胴体は壊すなよ!」

 リーダーらしき男が野太い声で指示を飛ばす。

 このまま私たちは捕まってしまうのだろうか。そんな不安が頭を過ぎる。体は強張って、石になったように動かない。

 それでもココロは私の所まで這って来て、私の手に何かを握らせた。まるで最後の希望を託すみたいに。

「やっぱり、これは洲原ちゃんが持ってて。ちゃんと南の島で羽を伸ばすんだよ」

 渡されたもの。それは私があげた折り鶴だった。

 私は記憶の引き出しを引っ繰り返し、この場を切り抜ける方法を探った。だが、物語を書くAIみたいに幾通りもの選択肢から最善策を見つけ出すような都合のいいことは起こらなかった。

「おい女! そこをどけ!」

 革靴で蹴り飛ばされて、私は頭からアスファルトに打ち付けられた。地面が揺れ、意識が薄れていく。脆い土壁が崩れていくように、視界に映った映像がパズルの破片になって散っていく。ココロの姿が遠くへ遠くへと離れて闇の中へ沈んでいく。私は必死で届きもしない手を伸ばし、そして気を失った。

 どれだけ時間が経ったのかも分からない。だが私がどうにか上体を起こした時には、既にココロの体も、もがれた左腕も、スーツの男たちも、全てがその場から消えていた。まるで全てが私の悪い夢だったみたいに。

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