折り鶴よ、天高く
葦沢かもめ
第1話
「神様を信じますか?」
冷房の効いた池袋駅前の喫茶店で、アイスコーヒーのストローの先を齧っていた私の隣に座ってきたスーツの男が、まるで巣から落ちた小鳥を見るような目つきで、私にカードを差し出してきた。その紙切れには、月に照らされた二匹の犬とザリガニの絵が描かれている。
男の目は、夢でも見ているみたいに焦点があっていない。
「信じないよ。神様はいつだって居留守だから」
「では、あなたの心はどこに?」
「夢の中」
「自分も好きですよ、夢。昨日は、記憶が書き換えられる夢を見ました」
「私、忙しいから。これで帰ってくんない?」
私は胸ポケットから煙草の箱を取り出して、テーブルの上に置く。
「失礼しました」
男は煙草の箱を手早く懐にしまい、立ち去ろうとした。
「ねぇ、ところで」
「?」
スーツの男は、不意を突かれたような顔をして振り返る。
「イヌは連れてきてないだろうな?」
私の言葉を聞いた男の口元に、ひしゃげた笑みが浮かんだ。男は戻ってきて、私の耳元で囁く。
「悪いな、ワンコと一発やれなくて」
それから男は、足早に喫茶店のドアをくぐって雑踏に消えていった。
一人になった私は、紙ナプキンへ丁寧に折り目を付けていく作業に没頭した。まっさらな紙の繊維に一つ一つ折り目を刻み込む度に、純粋な物を汚していくみたいで背徳感がくすぐられる。アイスコーヒーが底をつくと、私はトレイを持って席を立ち、紙コップと共に紙ナプキンでできた折り鶴を燃えるゴミの箱へと放り込んだ。
無人レジの前で右人差し指のスマートリングをかざし、会計を済ませた私は、ドアを開ける。ドアの上にぶら下がった真鍮のベルが、カランカランと音を立てた。
ムワっとした暑苦しい空気が、私に襲い掛かる。太陽は厚い雲に覆われているものの、石畳の上を歩いているだけで、地面から反射してくる熱を感じる。私は小さく舌打ちをした。
尾行られている。若い男が数人。
あの野郎、やっぱりイヌがついてきてんじゃねぇか。
私は悠然と人の多い大通りへと足を向ける。一般人のいるところでは、そう簡単に手は出せないはずだ。
すると大通りへ面したコインパーキングが見えてきた。車数台しか駐車できない狭いパーキングだが、いつもそこそこの数の車が”無防備に”停められている。イヌを撒くのにちょうどいいと、前から目を付けていた場所だ。
私は車と車の間に屈んで、指紋リーダーにスマートリングをかざす。すると網膜ディスプレイにコマンドプロンプトが投影された。セキュリティは、さして複雑ではない。仮想キーボードを叩いてコマンドを入力。車種ごとに特定されているハッシュ関数と保存されたハッシュ値を使って、鍵情報を割り出す。野良のクラウドスパコンのお陰で、もはや計算量はセキュリティの壁として機能していない。
すぐに鍵の開く音がした。この程度のハッキングは慣れたものだ。
運転席に飛び乗り、自動運転を解除してアクセルをふかす。巻き上がる砂埃。真紅のマスタングは、暴れ馬のように駐車場を飛び出し、行き交う自動タクシーの間を抜けながら、まるでデュラハンのように明治通りを南へと駆け抜けていった。
温かいシャワーを頭から浴びた瞬間、肩に力が入っていたことに気付く。力を抜いて深く息を吐き、それから肺一杯に息を吸い込んだ。塩素臭い蒸気に汚染されて、ゾンビになっていくみたいだ。私はシャワールームの中で小さく屈んで両脚を抱きかかえた。
遠回りして板橋のアパートに帰宅したものの、尾行を完全に撒けたかどうか自信は無かった。帰り着いて自室の鍵をかけた後も、不安と無力感で頭がパンクしそうになり、ベッドの上に倒れ込んで枕に顔を埋めたまま、気付けば夜中になってしまっていた。憂鬱を吹き飛ばそうとシャワーを浴びたが、髪をドライヤーで乾かしている間も自室のドアの向こうで誰かが見張っているのではないかと気が気でなかった。
罪悪感が私を襲う。目を閉じると、”あの時”のことがフラッシュバックしてきそうだった。もう夜が明けるまで、眠れそうにない。
作業机に向かい、オフィスチェアに腰を落とす。デスクトップPCのファンが唸る横で、マウスを握る。画面の中では、文字列が次々に生成されて、上方へと流れ続けていた。私が開発した違法小説執筆AIの書いた文章だ。
今書いているのは、ミステリ。クライアントの依頼で、コナン・ドイル作品の文体で、アガサ・クリスティ作品に似たストーリーを書くように調整を加えてある。あの男に渡した煙草の箱の中に入っていたのも、このAIを搭載したメモリスティックだ。
違法AIは、アンダーグラウンドでは高い値で取引されている。それもこれも、全てはアカバネ書房のせいだ。
時代に愛された大企業、アカバネ書房は、元は小さな電子出版社だった。一時は倒産の危機に追い込まれたが、最後の望みとして小説執筆AI事業の研究開発に乗り出したところ、これが大ヒットし、多くの有名作家AIを抱える大出版社に成り上がったのである。
アカバネ書房が成功を収めた最大の理由は、議員に働きかけて小説執筆AI開発を国家資格化させたことだろう。表向きは、有害な書籍が大量に出版されるのを防ぐためだったが、真の目的は、競合相手の技術力を削ぐことだった。実際、免許の認定機関はアカバネの息がかかった人間で構成されており、既存の出版社に所属する技術者の合格率は雀の涙しかいない。
アカバネが野望を果たすために生贄として捧げられたのは、ミステリだった。「殺人を含む作品は有害」と判定されたことにより、従来のミステリの大部分は実質的な発禁処分を受けてしまったのである。
その結果、行き場を失ったミステリファンは、ミステリを書いてくれる違法小説執筆AIに安息の地を求めた。人間の書いた違法ミステリも無かった訳ではない。しかし危険を顧みず、法の眼をかいくぐってファンの需要に答えられるほどの作品量を提供できたのは、圧倒的にAIの方が多かった。
私の開発したAIは、作品内で人間を殺すことで人間から賞賛の拍手を浴びている。しかも殺し方が残虐であればあるほど、ウケがいい。全く奇妙な話だ。
すると不意に、アパートの廊下から何かがぶつかったような鈍い音がした。網膜ディスプレイに意識を向けると、視界の隅に浮かび上がった時計の針は既に深夜二時を回っていた。
咄嗟に武器になりそうなものを探して、机の上の一升瓶を握り締める。物音を立てないように玄関へ近付き、ドアスコープから廊下の様子を探る。
気持ち悪いくらい白い光を放つ蛍光灯の下に、何かがあるのが分かった。目を凝らして、ようやくそれが倒れた人間であると分かった。
恐る恐るドアを開けてみるが、周りに人影は無い。倒れているのは女性のようだった。歳は若く見える。衣服は少し汚れているが、怪我はないようだ。
「あの……大丈夫ですか?」
肩を軽く叩いて意識を確認する。
と同時に、地鳴りのような低い音が深夜のアパートの廊下に響いた。
「焼肉食いたい……」
どうやら面倒な拾い物をしてしまったらしい。
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