牛の中の美女
葦沢かもめ
牛の中の美女
天高く広がる青空の下、牧草地には新芽が青々と茂っている。緑をかき分けるように伸びた砂地の道を、私は黙々と歩いていた。日の落ちるまでに宿場へ着けるかとか、靴がくたびれてきたから新しい靴を買いたいとか、そんなとりとめのないことが頭の中でぐるぐる回っている。気ままな女の一人旅も、だいぶ板についてきた。
ふと気付くと、路傍に牛飼いらしき青年が、一人で地面に突っ伏していた。私はそのまま通り過ぎようとしたのだが、足を止めざるを得なかった。それは、あまりにも異様な光景だったのである。
青年は右手に羽根ペンを持ち、木の板の上に広げた紙に文章を一心不乱に書いている。何かに取り憑かれたような狂気が、その背中から感じられた。
それだけではない。青年は左腕を失っていた。いや、そう表現するのは恐らく間違っている。正しく言えば、ついさっき左腕を切り落としたかのようだった。左腕の付け根からは大量の血が流れ出ており、彼の土色の服を赤く染めている。
反射的に私は青年に駆け寄り、声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「当たり前だ」
彼の目は血走っており、顔面には毛穴から噴き出すように汗がダラダラと流れている。
「いや、大丈夫ではないでしょう?」
彼を止めようと手を伸ばした私に、青年は黒い眼だけを私に向けて睨みつけた。
「邪魔するな。あんたみたいな女には用がない」
その言葉にカチンと来た私は、そのまま立ち去ろうと一旦は立ち上がった。しかしすぐに思い直し、私は彼の行動を観察することにしてみた。
やはり気になるのは彼の書いている文章である。遠目からそれを読んでみた私は、その内容にすっかり笑ってしまった。
『貴女のことが寝ても覚めても忘れられないのです』
『嗚呼、いつになったら貴女にお会い出来るのでしょうか?』
どうやら彼は、見かけによらず情熱家であるらしい。
「このラブレターは誰に出すのですか?」
「決まっているだろう。あのお方だ」
彼が羽根ペンを持つ右手で指差したのは、近くに立ち尽くしていた一頭の牛だった。美しくも、可愛らしくもない。周りをハエが飛び交っている、ふてぶてしい小汚い牛だった。
「何の冗談ですか?」
「あの牛の中には女がいるのだ」
その青年の声は、近くにいるのに会うことのできないもどかしさを嘆いているようだった。
「ある時、あの牛の糞から手紙が出てきた。
『助けてくれ。返事は牛に食わせよ』
半信半疑だったが、試しに『お前は誰だ』と書いて食わせた。そうしたらまた手紙が出てきた。
そこには経緯が書かれていた。狂科学者の実験台にされてしまい、牛の腹の中に入れられたこと。牛が死ねば彼女の命も絶えること。それでもどうにかして助けて欲しい。そう彼女は綴っていた。俺はそれを承諾した。
しかし助け出す方法がすぐに思いつく訳でもない。そうしているうちに、俺と彼女は互いに思い合うようになった。だが顔を合わせることは叶わない。存在はすぐそこにあるのに。
そこで彼女は、俺の髪の毛が見たいと言った。牛に食わせてみると、彼女は俺の髪の毛を褒めてくれた。
そして次は、どうしても俺の腕が見たいと言ってきた。だから俺は左腕を牛に食わせた。彼女は逞しい筋肉のついた腕だと感激してくれた。きっと脚も隆々としているのだろうと言った。
だから俺は、今度は脚を見せてやるのだ」
青年は、躊躇いというものを忘れてしまったようだった。したためた手紙を丁寧に折りたたむと、牛の傍まで行き、その大きな口の中に手紙を突っ込んで飲み込ませた。
それから彼は、右脚のつま先を高く掲げて、そっと牛の口に差し込んだ。牛は、まるで草を食むように、それをむしゃむしゃと食った。男は悲鳴を上げるどころか、むしろ喜びで上気していた。
「ついでだ。右脚も会ってこよう。あんた、手伝ってくれ」
私が胴体を抱えてやると、青年は右脚も牛に食わせてしまった。下半身から血飛沫が上がっているというのに、青年は笑顔で私を急かす。
「牛の尻まで俺を運んでくれ」
早速、牛は大きな糞をしていた。腐った魚のような匂いが、辺りに充満している。
「出てきた、出てきたぞ。早く手紙を。手紙を読ませてくれ」
もはや自分で何をしているのか分からなくなってきたが、彼の言う通りに牛糞を木の枝でほぐした。
すると、本当に手紙が中から出てきた。意外にも綺麗な字で御礼の言葉が並んでいる。
右腕しか生えていない青年は、それを舐めるように読み、感動で涙を浮かべていた。
「もはや俺はこの気持を抑えることはできない。俺も彼女に会いに行く。手伝ってくれ」
こればかりは流石に私も承服しかねた。そんなことをしたら殺人行為に手を染めることになってしまう。
「死んでしまいますよ」
「死ぬものか。俺はあの人と生きるのだ。どうか頼む。この体では自由がきかないのだ。決してあんたには悪いようにしないから」
青年がどうしてもとすがってくるので、とうとう私は根負けしてしまった。了解したというよりは、さっさと済ませてしまいたかった。
「今、会いに行くよ」
笑顔を浮かべたマネキンのような彼を、私は脇に抱えて牛の口まで運んだ。流れ出る彼の血で服が汚れないように、私は細心の注意を払わなければならなかった。牛は、彼を頭から丸飲みした。まるで奈落の底に落ちるように、彼の体は牛の口の中に吸い込まれ、跡形もなく消え去った。
彼は無事に会えたのだろうか。しばらく待ってみたが、牛の糞から手紙が出てくることはなかった。出会えたから、もはや手紙は必要ないということなのだろう。
何事もなかったかのように、牛は草を食んでいる。もしかしたら彼と出会ったことは夢だったのかもしれない。たまたま疲れて足を止めた所に牛が居て、それを眺めているうちに奇妙な妄想をしてしまった、ということも否定はできない。
このまま牛のようにただ草を食み、風に吹かれて過ごせたのなら、どんなに楽なことだろう。草なんてここにはたくさんあるのだから、無くなる心配もない。旅人のように日暮れまでに宿場へ急ぐ必要もなければ、擦り減った靴を買い換えることもない。私も牛だったら良かったのに。
そうか、私も牛になれば良いのだ。
道の向こうから男が歩いてくる。
そう、そしてあの男は、道の真ん中に立った私の糞の中に、運命の手紙を見つけるのだ。
牛の中の美女 葦沢かもめ @seagulloid
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